その番号を見た瞬間、清六は、失くした五歳以前の記憶がまだ自分を見ているのだと思った。
西福大学の図書館は、夕方になると少しだけ別の場所になる。
昼間は学生たちの足音や、レポートの相談をする声や、貸出カウンターの電子音があちこちで重なっている。けれど閉館が近づく頃になると、それらは一つずつ薄くなり、書架の奥に紙の匂いだけが残る。
窓の外では、初夏の光がゆっくり沈んでいた。
赤みを帯びた陽射しが、文学全集の背表紙を斜めに照らしている。古い布張りの表紙は、光の当たる部分だけ淡く浮かび上がり、影になった部分は黒に近い深い緑へ沈んでいた。
天野清六は、その書架の間にある小さな閲覧席で、本を読んでいた。
机の上には、開いたままの日本近代文学全集。右手の指先は、次のページの端に触れている。けれど、しばらく動いていなかった。
文字は目に入っている。
文の意味も追えている。
それでも、清六はときどき、本を読んでいるのか、本の中に隠れているのか分からなくなることがあった。
本の世界には、始まりがある。
誰かが生まれ、どこかで何かを失い、誰かと出会い、迷いながらも先へ進んでいく。たとえ語られない過去があっても、本の中なら、いつかどこかで理由が示される。
けれど、自分の過去には、意味より先に空白があった。
五歳より前の記憶がない。
そう聞かされた時期を、清六ははっきり覚えていない。たぶん小学校の低学年くらいだったと思う。誠司が、夕食のあとに少し困った顔をして、自分は清六の本当の父親ではないのだと告げた。
養子。
その言葉を、清六はすぐには理解できなかった。
ただ、誠司の手がいつもより冷たかったことだけは覚えている。清六の頭を撫でるその手が、何かを謝るように、何かを離すまいとするように、いつもより長くそこにあった。
実の両親の顔は、写真でしか知らない。
それも、清六が幼い頃から見せられていた数枚だけだった。優しそうな母親。少し不器用そうに笑う父親。写真の中の二人は、自分を見ているようでいて、どこか遠い。
誰も、清六に嘘をついているようには見えなかった。
けれど、何もかもが本当だとも、心の底からは思えなかった。
だから清六は、本を読む。
誰かの言葉の中に入っている間だけは、自分の輪郭が少しだけ確かになる。自分がどこから来たのか分からなくても、いま読んでいる一文を理解している自分だけは、ここにいると言える気がする。
その時、書架の向こうで何かが動いた気がした。
清六は顔を上げる。
文学全集の背表紙が、夕陽を受けて静かに並んでいる。その隙間に、人の肩のような影が見えた。
一瞬だけ。
次に瞬きをした時には、もうなかった。
近くの席には誰もいない。少し離れた窓際で、院生らしい男性が本に付箋を貼っているだけだった。
見間違いだ。
そう思おうとした。
けれど、誰かにページの外側から覗き込まれたような感覚だけが、胸の奥に残った。
机の上に伏せていたスマホが、短く震えた。
音は出なかった。
それでも、静まり返った書架の間では、その振動だけで十分だった。硬い机に小さく触れて、かすかな音が鳴る。
清六は指を止めた。
画面を見る前に、光は消えた。
ほんの一瞬だった。
清六はもう一度、周囲を見回した。やはり近くの席には誰もいない。書架の間にも、さっき見えた影はなかった。カウンターの方から、閉館十五分前を告げる柔らかなアナウンスが聞こえてくる。
清六はスマホへ手を伸ばしかけた。
けれど、その手を途中で止めた。
図書館でスマホを開くことに、別に大きな罪悪感があるわけではない。ただ、その一瞬の振動に反応した自分を、誰かに見られたくなかった。
理由は分からない。
知らない気配に名前を呼ばれたような、そんな落ち着かなさがあった。
清六は小さく息を吐き、視線を本へ戻した。
活字の列は、さっきと同じ場所で待っていた。
けれど、文の間に別のものが入り込んでいた。机の上で震えたスマホ。暗くなった画面。見ないまま残された何か。
ページをめくる音が、少し乾いて聞こえた。
「ねえ、清六くん」
書架の端から声がした。
清六が顔を上げると、水谷沙織がそこに立っていた。肩にかかる茶色の髪が、夕陽を受けて柔らかく透けている。片手には数冊の本を抱え、もう片方の手で、遠慮がちに書架の柱を叩いていた。
「もう閉館時間だよ。そんなに夢中になってたら、本棚の一部になるよ」
「それは困るな」
清六は眼鏡を押し上げた。
「でも、文学部としては悪くない最期かもしれない」
「最期にしないで」
沙織は呆れたように笑った。
その笑い方は、清六にとって馴染みのあるものだった。からかい半分、心配半分。沙織はいつも、その二つをうまく混ぜる。
清六はしおりを挟み、本を閉じた。
「ごめん。時間、見てなかった」
「知ってる」
「知ってる?」
「清六くん、集中してる時は時計見ないから」
沙織は机の上に視線を落とした。
その目が、スマホのところで一瞬止まる。
「さっき、鳴ってなかった?」
清六の指が、本の背を軽く押さえた。
「気づいた?」
「一瞬だけ。私の方まで聞こえたから」
沙織はそう言ってから、清六の顔を見た。
「出なかったんだ」
「うん。すぐ切れたし」
「誰から?」
「まだ見てない」
清六はスマホを手に取った。
ロック画面には、不在着信が一件残っていた。
表示名はない。
番号だけが、白い文字で浮かんでいる。
清六はそれを見た瞬間、眉を寄せた。
知っている番号ではない。
少なくとも、覚えている限りでは。
けれど完全に初めて見るものだとも言い切れなかった。数字の並びの一部が、どこかで目に触れたことのある記号のように引っかかる。
「知らない番号?」
沙織が聞いた。
「うん」
清六は画面を暗くしようとした。
けれど、その前に沙織が小さく言った。
「番号、スクショしておいた方がよくない?」
「スクショ?」
「消えたら困るでしょ。知らない番号なら、なおさら」
沙織は軽く言ったが、目は画面から離れていなかった。
清六は少し迷ってから、ボタンを押した。
画面が一瞬だけ白く光る。
ただのスクリーンショット。
それだけの動作なのに、証拠を残したような気がして、指先が少し冷えた。
清六は今度こそ画面を暗くした。
「たぶん間違い電話だと思う」
「最近、そういうの多いからね。変な勧誘とか」
「そうだね」
清六は笑った。
笑ったつもりだった。
沙織は、その笑顔を見て、少しだけ首を傾げた。
「清六くん」
「何?」
「今の、ちょっと下手だった」
「何が?」
「平気なふり」
清六は言葉に詰まった。
沙織は、しまった、という顔を一瞬だけした。踏み込みすぎたと思ったのかもしれない。彼女はすぐに本を抱え直し、軽い調子を作る。
「別に、問い詰めてるわけじゃないよ。ただ、顔に出てたから」
「そんなに分かりやすいかな」
「分かりやすい時と、分かりにくい時がある」
「どう違うの?」
「清六くんが本当に何も考えてない時は、もう少しぼんやりしてる。考えすぎてる時は、ちゃんと笑おうとする」
沙織はそこまで言って、少し照れたように視線をそらした。
「まあ、私の勝手な分析だけど」
「社会学部っぽいね」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
「嘘っぽい」
二人は小さく笑った。
その笑い声は、閉館前の図書館では少しだけ大きく聞こえた。沙織が慌てて口元に指を当て、清六もつられて肩をすくめる。
いつものやり取りだった。
けれど清六の胸の奥では、不在着信の数字がまだ消えていなかった。
沙織はそれ以上、電話のことを聞かなかった。
その代わり、机の上の本に目を向ける。
「今日は何を読んでたの?」
「漱石」
「また難しそうなの読んでる」
「難しいけど、分からないまま読んでても面白いよ」
「それ、文学部の人にしか許されない楽しみ方じゃない?」
「そんなことないと思う」
清六は本の表紙に手を置いた。
「分からないものを、分からないままそばに置いておけるのが、本のいいところだから」
言ってから、自分でも少し大げさだったと思った。
沙織は笑わなかった。
「清六くんらしいね」
その声は、からかいではなかった。
静かで、少しだけやわらかい。
清六は返事に困り、本を鞄にしまった。
二人で貸出カウンターへ向かう。閉館前の図書館には、椅子を引く音や、鞄のファスナーを閉める音がばらばらに響いていた。カウンターの職員は、慣れた手つきで返却本を積み上げている。
外へ出ると、夕暮れの空気が少し湿っていた。
西福大学のキャンパスは、昼間より広く見える。レンガ色の校舎の窓に夕陽が残り、並木道の葉が風で細かく揺れていた。学生たちの声は正門の方へ流れていき、遠くのグラウンドからは部活動の掛け声がかすかに聞こえる。
清六は何となく振り返った。
図書館の二階窓に、夕陽が反射している。
その中に、人影のようなものが立っていた。
清六は足を止める。
「清六くん?」
沙織が振り返った。
清六はもう一度、窓を見る。
そこには、赤く光るガラスがあるだけだった。
「……何でもない」
「ほんとに?」
「たぶん」
沙織はそれ以上追及しなかった。
ただ、図書館の窓を一度だけ見上げた。
沙織は清六の隣を歩きながら、抱えていた本を鞄に入れた。
「今日の社会学概論、清六くん寝てなかった?」
「寝てないよ」
「ほんとに?」
「ちゃんと聞いてた。社会的アイデンティティの話」
その言葉を口にした瞬間、清六は少しだけ歩幅を緩めた。
自分でも分かった。
沙織にも、たぶん分かった。
「アイデンティティか」
沙織は前を向いたまま言った。
「清六くん、そういう話になると急に真面目な顔するよね」
「授業だから」
「授業じゃない時もだよ」
清六は苦笑した。
「そうかな」
「そう」
沙織は断言したあと、少しだけ声を落とした。
「でも、嫌なら話さなくていいから」
清六は横を見る。
沙織は前を向いたままだった。夕陽の光で、頬の輪郭だけが明るく見える。彼女は清六を見ていない。見ていないふりをしてくれている。
そういうところが、沙織らしかった。
踏み込んでくる。
けれど、逃げ道も残してくれる。
「嫌ってわけじゃないよ」
清六は言った。
「ただ、うまく言えないだけ」
「うん」
沙織は短く頷いた。
「じゃあ、うまく言えるようになったらでいいよ」
その言葉に、清六の胸の奥が少し緩んだ。
相談してね、とは言わない。
聞いてあげる、とも言わない。
ただ、言えるようになったらでいい。そういう距離の置き方が、清六にはありがたかった。
正門の近くで、二人は足を止めた。
沙織の家は駅の方角で、清六の家は商店街の奥にある古書店だ。いつもここで別れる。
「じゃあ、また明日」
沙織が手を振った。
「うん。また明日」
清六も手を上げる。
沙織は数歩進んでから、ふと思い出したように振り返った。
「清六くん」
「何?」
「知らない番号、気になるなら一人で抱え込まないでね」
清六は返事をしようとした。
けれど、沙織は先に笑った。
「今のは、社会学部じゃなくて友だちとして」
それだけ言うと、彼女は今度こそ駅の方へ歩いていった。
清六はその背中を見送った。
夕陽の中で、沙織の姿は人の流れに少しずつ紛れていく。清六は彼女が見えなくなるまで立っていた。
友だち。
その言葉は、温かかった。
温かいからこそ、少しだけ胸が痛んだ。
清六はポケットからスマホを取り出した。
画面をつける。
不在着信は、まだそこに残っていた。
知らない番号。
表示名のない、白い数字の列。
ただの間違い電話かもしれない。
そう思おうとするたびに、なぜか指先が冷える。
清六は番号をもう一度見た。
やはり、覚えはない。
なのに、完全には知らないとも言えない。
夕暮れの光が画面に反射し、数字の一部をぼやけさせた。清六は角度を変えて見直す。
その数字だけが、沈みかけたキャンパスの中で、妙に冷たく光っていた。
清六は、さっき撮ったスクリーンショットを開いた。
白い数字の列が、画面の中に保存されている。
それだけのはずだった。
けれど、番号の端に、撮った時にはなかった文字が滲んでいた。
SOLA…


