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第1章 第2話:父は着信を知っていた

大学を出る頃には、夕暮れの赤はだいぶ薄くなっていた。

西福大学の正門から商店街までは、歩いて二十分ほどかかる。駅へ向かう学生たちの流れから少し外れ、清六は住宅地の細い道へ入った。

アスファルトには、昼の熱がまだ少し残っている。けれど風はもう夜の匂いを含んでいた。どこかの家から夕食の支度をする音が聞こえる。包丁がまな板を叩く音。換気扇の低い唸り。醤油と油の匂い。

そういう音や匂いは、清六を少し安心させる。

誰かが家に帰り、誰かが食卓を整えている。

自分の知らないところで世界が続いていることに、昔から救われることがあった。

清六はポケットの中のスマホを指先で触った。

不在着信は、まだそこにある。

画面を開かなくても分かる。白い数字の列が、頭の中に残っていた。沙織に言われた通り、一人で抱え込まない方がいいのかもしれない。けれど、何を抱え込んでいるのか、清六自身にもまだ分かっていなかった。

知らない番号から電話があった。

ただ、それだけだ。

それだけのことを、なぜこんなに気にしているのか。

清六は立ち止まり、スマホを取り出した。

図書館で撮ったスクリーンショットを開く。番号は残っていた。けれど画面の端が、墨を落としたように黒く滲んでいる。

撮った時には、こんな影はなかった。

沙織へ送ろうとして、指が止まる。

説明できないものを送って、何を言えばいいのだろう。

清六は画像を閉じた。

商店街の入口にある古い街灯が、ぽつりと点いた。

その先に、小さな古書店が見える。

天野書房。

木の看板には、墨で書かれたような少し丸い文字が並んでいる。何度か塗り直しているはずなのに、雨風で角が丸くなっていた。店の前には文庫本のワゴンが一つ出ていて、百円均一の札が紐で結ばれている。

閉店前の店内から、温かな黄色い光が漏れていた。

清六はその光を見ると、いつも少し肩の力が抜ける。

ただ、その日は店の向かいに、見慣れない黒い車が停まっていた。

エンジンは切れている。運転席に人がいるのかどうか、暗いガラス越しには分からない。

清六が足を止めた時、店内のカウンターで誠司が顔を上げた。

誠司の視線が、清六ではなく、その車へ向いた。

一瞬だけ、表情から笑みが消えた。

次の瞬間には、いつもの穏やかな顔に戻っている。

自分に五歳以前の記憶がなくても、この店で過ごした時間は覚えている。

小学生の頃、背伸びをしてレジの向こうを覗いたこと。

中学生の頃、売れ残った児童文学を勝手に読みふけって、誠司に笑われたこと。

高校受験の日の朝、誠司が何も言わずに店のシャッターを少し早く開けて、清六を見送ってくれたこと。

それらは誰かから聞かされた記憶ではない。

自分で持っている記憶だった。

「ただいま」

清六は引き戸を開けた。

古い鈴が、かろん、と鳴る。

店内には、紙と埃と、少しだけコーヒーの匂いがした。左右の棚には文庫、新書、単行本がぎっしり並んでいる。棚の間は狭く、慣れていない人なら鞄を引っかけてしまうくらいだった。

奥のカウンターで、天野誠司が伝票を整理していた。

「おかえり」

顔を上げた誠司は、いつものように穏やかに笑った。

五十代半ば。髪には白いものが増えているが、背筋はまっすぐで、動きには無駄がない。古書店の主人にしては少し硬い立ち姿だと、沙織に言われたことがある。

その時、清六は笑って流した。

でも、言われてみれば確かに、誠司には店主というより、何かを見張っている人のような静けさがあった。

「今日は遅かったね」

「図書館にいた」

「また閉館までかい」

「ぎりぎり」

「ぎりぎりは、閉館までと同じだよ」

誠司はそう言いながら、伝票を揃えてクリップで留めた。

叱っている声ではなかった。呆れたようでいて、どこか嬉しそうでもある。清六が本を読んで帰りが遅くなることを、誠司は昔から本気で怒ったことがない。

「夕食、もう少しでできる。今日は野菜炒めと味噌汁」

「手伝う?」

「いいよ。今日はもう作ってある。手を洗って、鞄を置いておいで」

「うん」

清六は店の奥へ向かった。

カウンターの横を通る時、誠司がふと視線を上げた。

「清六」

「何?」

「顔色、少し悪くないか」

清六は足を止めた。

沙織にも、似たようなことを言われた。

「そうかな」

「疲れたなら、夕食のあと早めに休みなさい」

「大丈夫。少し考え事してただけ」

誠司はすぐには頷かなかった。

清六を責めるのではなく、言葉の奥を確かめるような目だった。そういう目をされると、清六は昔から少し弱い。

「大学で何かあった?」

「何も」

答えが少し早すぎた。

誠司はそれに気づいたはずだった。

けれど、それ以上は聞かなかった。

「そうか」

それだけ言って、誠司はカウンターの下から読みかけの本を取り出した。表紙がすり切れた料理随筆だった。

「気が向いたら、あとでこれを見てごらん。昭和の食堂の話が載っている。清六は好きだと思う」

「また渋い本を勧めるね」

「いい本は年齢を選ばない」

誠司は少しだけ得意そうに言った。

その顔を見て、清六は笑った。

こういう時間が好きだった。

本の話をして、夕食の匂いがして、誠司がいつもの調子でそこにいる。自分の過去がどこか欠けていても、この家に帰れば、何も聞かれずに座れる場所がある。

だからこそ、清六はポケットのスマホのことを言えなかった。

知らない番号が気になる。

その一言を口にするだけで、なぜかこの空気を変えてしまう気がした。

清六は二階の自室へ上がった。

階段は古く、一段ごとに小さく軋む。子どもの頃は、その音で誠司に夜更かしがばれた。高校の頃、深夜に本を取りに降りようとして、一段目で諦めたこともある。

部屋に鞄を置き、清六は机の前に座った。

壁際の本棚には、大学の教科書と古本が混ざって並んでいる。誠司から譲られた本も多い。背表紙に鉛筆の小さな値札跡が残っているものもあった。

スマホを取り出す。

不在着信の番号は、やはり消えていない。

清六はしばらく迷い、画面を指で押した。

発信元候補を確認する。

数秒、通信中の丸い印が回った。

そして、番号の下に薄い文字が表示された。

ソラティア研究所。

「……ソラティア」

声に出した瞬間、こめかみの奥がちくりと痛んだ。

清六は思わず目を閉じた。

痛みは強くない。

けれど、ただの頭痛ではなかった。奥の方で細い針が一度だけ触れたような、不自然に冷たい痛みだった。

ソラティア。

聞いたことはない。

少なくとも、覚えている限りでは。

それでも、その名前を口にした時、体のどこかが先に反応した。

清六はもう一度画面を見た。

研究所。

何の研究所なのかは分からない。福岡にあるのか、大分なのか、東京なのかも分からない。ただ、自分のスマホに着信を残したという事実だけがある。

間違い電話かもしれない。

そう思おうとした時、階下から声が聞こえた。

誠司の声だった。

「はい。今、戻りました」

電話をしている。

普段より声が低い。

清六は立ち上がった。

盗み聞きするつもりはなかった。

ただ、ソラティアという文字を見た直後だったせいで、階下の声が妙にはっきり耳に届いた。

「その件は、こちらで判断します」

誠司の声は、店で客に本を勧める時のものではなかった。

静かで、硬い。

受話口の向こうから、かすれた声が漏れた。

「……予定は、もう動いている」

清六は部屋の扉を少し開けた。

階段の下から、店の奥の明かりが細く伸びている。

「由布さん」

その名前が聞こえた瞬間、清六の手が止まった。

知らない名前。

けれど、誠司がその名前を口にする声には、明らかな警戒があった。

「彼にはまだ言わないでください」

清六は息を止めた。

彼。

それが誰のことか、聞かなくても分かってしまった。

「時期尚早です。清六はまだ、自分の生活を……」

そこで言葉が途切れた。

清六の足元で、階段の板が小さく鳴った。

ぎし、と乾いた音。

店の奥の声が止まる。

清六は動けなかった。

数秒の沈黙のあと、誠司の声が戻った。

「いえ。今はこれ以上、お話しできません」

それは電話の相手へ向けた言葉だった。

けれど、清六にも向けられているように聞こえた。

清六はゆっくり階段を降りた。

店の奥、台所へ続く廊下の前に、誠司が立っていた。片手にスマホを持っている。もう片方の手は、カウンターの縁を軽く押さえていた。

「清六」

誠司は電話を切った。

その動作は慌ててはいなかった。むしろ、慌てないように丁寧すぎるくらいだった。

「ごめん。起こしたかな」

「起きてた」

「そうか」

誠司は微笑んだ。

いつもの笑顔だった。

でも、その笑顔が出てくるまでに、ほんの少しだけ時間がかかった。

「店のことで少しね」

清六は、誠司の手元を見た。

スマホの画面はすでに暗くなっている。

「由布さんって」

言いかけて、止まった。

誠司の目が、一瞬だけ揺れたからだった。

ほんの一瞬。

普段なら見逃していた。

でも今日は、沙織の言葉が耳に残っていた。

平気なふり。

それは自分だけではなかった。

「古い知り合いだよ」

誠司は静かに言った。

「仕事の関係で、少し」

「古本の?」

「昔の仕事の」

昔の仕事。

清六はそれ以上、聞けなかった。

聞けば、誠司が答えに困ると分かってしまった。答えに困る父を見るのが、怖かった。

誠司は台所の方へ視線を向けた。

「夕食にしよう。冷める前に」

「うん」

清六は頷いた。

食卓には、野菜炒めと味噌汁、冷ややっこが並んでいた。特別な料理ではない。けれど、誠司の作る味噌汁はいつも少しだけ出汁が濃く、清六はその味に慣れていた。

二人で向かい合って座る。

箸を取る音が、いつもより大きく聞こえた。

「今日は、授業はどうだった」

誠司が尋ねた。

「社会学概論と、日本文学史」

「文学史は?」

「近代文学。漱石の話が少し」

「それで図書館に残っていたわけだ」

「うん」

清六は野菜炒めを口に運んだ。

いつもの味だった。

少し濃いめの醤油。火の通ったキャベツの甘さ。豚肉の脂。何度も食べた味。

なのに、今日はその味が遠かった。

由布さん。

彼にはまだ言わないでください。

清六は誠司を見た。

誠司は味噌汁の椀を持っている。指先に力が入っていた。椀の縁を押さえる親指が、ほんの少し白い。

「父さん」

呼ぶと、誠司が顔を上げた。

「何だい」

聞いてしまえばいい。

由布さんって誰。

彼って僕のこと。

ソラティア研究所と関係があるの。

言葉は喉元まで来ていた。

けれど、清六はそれを飲み込んだ。

この食卓を壊したくなかった。

この店の灯りを、疑いの色で塗り替えたくなかった。

「いや」

清六は箸を持ち直した。

「味噌汁、今日ちょっと濃いね」

誠司は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。

「そうか。疲れていると、味が濃くなるらしい」

「誰が?」

「作る人が」

「父さん、疲れてるの」

「少しだけ」

誠司はそう言って、清六の椀を見た。

「清六も、今日は早く休みなさい」

その声は優しかった。

優しいから、苦しかった。

誠司を疑いたくない。

でも、聞いてしまった言葉をなかったことにはできない。

清六は味噌汁を飲んだ。

濃い出汁の味が喉を通っていく。

温かいはずなのに、胸の奥だけが冷えていた。

***

夕食のあと、清六は食器を洗った。

誠司は店の片づけをしている。閉店後の天野書房には、昼間とは違う静けさがあった。棚に戻される本の音。引き戸の鍵を確かめる音。レジの小さな金属音。

その一つひとつが、清六の知っている夜だった。

食器を拭き終え、清六は二階へ戻った。

部屋の扉を閉めると、階下の音は急に遠くなる。

机の上にスマホを置いた。

画面をつける。

番号の下には、まだ薄い文字が残っていた。

ソラティア研究所。

清六はその文字を見つめた。

誠司に聞くべきだったのかもしれない。

沙織に連絡するべきなのかもしれない。

けれど、どちらもできなかった。

清六はもう一度、声に出さずにその名前を読んだ。

ソラティア。

こめかみの奥が、また小さく痛んだ。

今度は、さっきよりはっきりと。

痛みはすぐに消えた。

けれど、消えたあとにも、何かが残った。

知らないはずの名前。

父が隠そうとした言葉。

自分の体が先に覚えているような痛み。

清六はスマホを握りしめた。

天野書房の一階では、誠司が最後の灯りを消している。階段の下で、古い床板が一度だけ鳴った。

この家は、確かに清六の家だった。

それなのに今夜だけは、壁の向こうに知らない部屋が一つ増えたような気がした。

その時、階下で誠司の声がした。

「……ええ。着信には気づいたようです」

清六は、スマホを握る手に力を込めた。

第1章 第3話:書いた覚えのない三文字

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