大学を出る頃には、夕暮れの赤はだいぶ薄くなっていた。
西福大学の正門から商店街までは、歩いて二十分ほどかかる。駅へ向かう学生たちの流れから少し外れ、清六は住宅地の細い道へ入った。
アスファルトには、昼の熱がまだ少し残っている。けれど風はもう夜の匂いを含んでいた。どこかの家から夕食の支度をする音が聞こえる。包丁がまな板を叩く音。換気扇の低い唸り。醤油と油の匂い。
そういう音や匂いは、清六を少し安心させる。
誰かが家に帰り、誰かが食卓を整えている。
自分の知らないところで世界が続いていることに、昔から救われることがあった。
清六はポケットの中のスマホを指先で触った。
不在着信は、まだそこにある。
画面を開かなくても分かる。白い数字の列が、頭の中に残っていた。沙織に言われた通り、一人で抱え込まない方がいいのかもしれない。けれど、何を抱え込んでいるのか、清六自身にもまだ分かっていなかった。
知らない番号から電話があった。
ただ、それだけだ。
それだけのことを、なぜこんなに気にしているのか。
清六は立ち止まり、スマホを取り出した。
図書館で撮ったスクリーンショットを開く。番号は残っていた。けれど画面の端が、墨を落としたように黒く滲んでいる。
撮った時には、こんな影はなかった。
沙織へ送ろうとして、指が止まる。
説明できないものを送って、何を言えばいいのだろう。
清六は画像を閉じた。
商店街の入口にある古い街灯が、ぽつりと点いた。
その先に、小さな古書店が見える。
天野書房。
木の看板には、墨で書かれたような少し丸い文字が並んでいる。何度か塗り直しているはずなのに、雨風で角が丸くなっていた。店の前には文庫本のワゴンが一つ出ていて、百円均一の札が紐で結ばれている。
閉店前の店内から、温かな黄色い光が漏れていた。
清六はその光を見ると、いつも少し肩の力が抜ける。
ただ、その日は店の向かいに、見慣れない黒い車が停まっていた。
エンジンは切れている。運転席に人がいるのかどうか、暗いガラス越しには分からない。
清六が足を止めた時、店内のカウンターで誠司が顔を上げた。
誠司の視線が、清六ではなく、その車へ向いた。
一瞬だけ、表情から笑みが消えた。
次の瞬間には、いつもの穏やかな顔に戻っている。
自分に五歳以前の記憶がなくても、この店で過ごした時間は覚えている。
小学生の頃、背伸びをしてレジの向こうを覗いたこと。
中学生の頃、売れ残った児童文学を勝手に読みふけって、誠司に笑われたこと。
高校受験の日の朝、誠司が何も言わずに店のシャッターを少し早く開けて、清六を見送ってくれたこと。
それらは誰かから聞かされた記憶ではない。
自分で持っている記憶だった。
「ただいま」
清六は引き戸を開けた。
古い鈴が、かろん、と鳴る。
店内には、紙と埃と、少しだけコーヒーの匂いがした。左右の棚には文庫、新書、単行本がぎっしり並んでいる。棚の間は狭く、慣れていない人なら鞄を引っかけてしまうくらいだった。
奥のカウンターで、天野誠司が伝票を整理していた。
「おかえり」
顔を上げた誠司は、いつものように穏やかに笑った。
五十代半ば。髪には白いものが増えているが、背筋はまっすぐで、動きには無駄がない。古書店の主人にしては少し硬い立ち姿だと、沙織に言われたことがある。
その時、清六は笑って流した。
でも、言われてみれば確かに、誠司には店主というより、何かを見張っている人のような静けさがあった。
「今日は遅かったね」
「図書館にいた」
「また閉館までかい」
「ぎりぎり」
「ぎりぎりは、閉館までと同じだよ」
誠司はそう言いながら、伝票を揃えてクリップで留めた。
叱っている声ではなかった。呆れたようでいて、どこか嬉しそうでもある。清六が本を読んで帰りが遅くなることを、誠司は昔から本気で怒ったことがない。
「夕食、もう少しでできる。今日は野菜炒めと味噌汁」
「手伝う?」
「いいよ。今日はもう作ってある。手を洗って、鞄を置いておいで」
「うん」
清六は店の奥へ向かった。
カウンターの横を通る時、誠司がふと視線を上げた。
「清六」
「何?」
「顔色、少し悪くないか」
清六は足を止めた。
沙織にも、似たようなことを言われた。
「そうかな」
「疲れたなら、夕食のあと早めに休みなさい」
「大丈夫。少し考え事してただけ」
誠司はすぐには頷かなかった。
清六を責めるのではなく、言葉の奥を確かめるような目だった。そういう目をされると、清六は昔から少し弱い。
「大学で何かあった?」
「何も」
答えが少し早すぎた。
誠司はそれに気づいたはずだった。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「そうか」
それだけ言って、誠司はカウンターの下から読みかけの本を取り出した。表紙がすり切れた料理随筆だった。
「気が向いたら、あとでこれを見てごらん。昭和の食堂の話が載っている。清六は好きだと思う」
「また渋い本を勧めるね」
「いい本は年齢を選ばない」
誠司は少しだけ得意そうに言った。
その顔を見て、清六は笑った。
こういう時間が好きだった。
本の話をして、夕食の匂いがして、誠司がいつもの調子でそこにいる。自分の過去がどこか欠けていても、この家に帰れば、何も聞かれずに座れる場所がある。
だからこそ、清六はポケットのスマホのことを言えなかった。
知らない番号が気になる。
その一言を口にするだけで、なぜかこの空気を変えてしまう気がした。
清六は二階の自室へ上がった。
階段は古く、一段ごとに小さく軋む。子どもの頃は、その音で誠司に夜更かしがばれた。高校の頃、深夜に本を取りに降りようとして、一段目で諦めたこともある。
部屋に鞄を置き、清六は机の前に座った。
壁際の本棚には、大学の教科書と古本が混ざって並んでいる。誠司から譲られた本も多い。背表紙に鉛筆の小さな値札跡が残っているものもあった。
スマホを取り出す。
不在着信の番号は、やはり消えていない。
清六はしばらく迷い、画面を指で押した。
発信元候補を確認する。
数秒、通信中の丸い印が回った。
そして、番号の下に薄い文字が表示された。
ソラティア研究所。
「……ソラティア」
声に出した瞬間、こめかみの奥がちくりと痛んだ。
清六は思わず目を閉じた。
痛みは強くない。
けれど、ただの頭痛ではなかった。奥の方で細い針が一度だけ触れたような、不自然に冷たい痛みだった。
ソラティア。
聞いたことはない。
少なくとも、覚えている限りでは。
それでも、その名前を口にした時、体のどこかが先に反応した。
清六はもう一度画面を見た。
研究所。
何の研究所なのかは分からない。福岡にあるのか、大分なのか、東京なのかも分からない。ただ、自分のスマホに着信を残したという事実だけがある。
間違い電話かもしれない。
そう思おうとした時、階下から声が聞こえた。
誠司の声だった。
「はい。今、戻りました」
電話をしている。
普段より声が低い。
清六は立ち上がった。
盗み聞きするつもりはなかった。
ただ、ソラティアという文字を見た直後だったせいで、階下の声が妙にはっきり耳に届いた。
「その件は、こちらで判断します」
誠司の声は、店で客に本を勧める時のものではなかった。
静かで、硬い。
受話口の向こうから、かすれた声が漏れた。
「……予定は、もう動いている」
清六は部屋の扉を少し開けた。
階段の下から、店の奥の明かりが細く伸びている。
「由布さん」
その名前が聞こえた瞬間、清六の手が止まった。
知らない名前。
けれど、誠司がその名前を口にする声には、明らかな警戒があった。
「彼にはまだ言わないでください」
清六は息を止めた。
彼。
それが誰のことか、聞かなくても分かってしまった。
「時期尚早です。清六はまだ、自分の生活を……」
そこで言葉が途切れた。
清六の足元で、階段の板が小さく鳴った。
ぎし、と乾いた音。
店の奥の声が止まる。
清六は動けなかった。
数秒の沈黙のあと、誠司の声が戻った。
「いえ。今はこれ以上、お話しできません」
それは電話の相手へ向けた言葉だった。
けれど、清六にも向けられているように聞こえた。
清六はゆっくり階段を降りた。
店の奥、台所へ続く廊下の前に、誠司が立っていた。片手にスマホを持っている。もう片方の手は、カウンターの縁を軽く押さえていた。
「清六」
誠司は電話を切った。
その動作は慌ててはいなかった。むしろ、慌てないように丁寧すぎるくらいだった。
「ごめん。起こしたかな」
「起きてた」
「そうか」
誠司は微笑んだ。
いつもの笑顔だった。
でも、その笑顔が出てくるまでに、ほんの少しだけ時間がかかった。
「店のことで少しね」
清六は、誠司の手元を見た。
スマホの画面はすでに暗くなっている。
「由布さんって」
言いかけて、止まった。
誠司の目が、一瞬だけ揺れたからだった。
ほんの一瞬。
普段なら見逃していた。
でも今日は、沙織の言葉が耳に残っていた。
平気なふり。
それは自分だけではなかった。
「古い知り合いだよ」
誠司は静かに言った。
「仕事の関係で、少し」
「古本の?」
「昔の仕事の」
昔の仕事。
清六はそれ以上、聞けなかった。
聞けば、誠司が答えに困ると分かってしまった。答えに困る父を見るのが、怖かった。
誠司は台所の方へ視線を向けた。
「夕食にしよう。冷める前に」
「うん」
清六は頷いた。
食卓には、野菜炒めと味噌汁、冷ややっこが並んでいた。特別な料理ではない。けれど、誠司の作る味噌汁はいつも少しだけ出汁が濃く、清六はその味に慣れていた。
二人で向かい合って座る。
箸を取る音が、いつもより大きく聞こえた。
「今日は、授業はどうだった」
誠司が尋ねた。
「社会学概論と、日本文学史」
「文学史は?」
「近代文学。漱石の話が少し」
「それで図書館に残っていたわけだ」
「うん」
清六は野菜炒めを口に運んだ。
いつもの味だった。
少し濃いめの醤油。火の通ったキャベツの甘さ。豚肉の脂。何度も食べた味。
なのに、今日はその味が遠かった。
由布さん。
彼にはまだ言わないでください。
清六は誠司を見た。
誠司は味噌汁の椀を持っている。指先に力が入っていた。椀の縁を押さえる親指が、ほんの少し白い。
「父さん」
呼ぶと、誠司が顔を上げた。
「何だい」
聞いてしまえばいい。
由布さんって誰。
彼って僕のこと。
ソラティア研究所と関係があるの。
言葉は喉元まで来ていた。
けれど、清六はそれを飲み込んだ。
この食卓を壊したくなかった。
この店の灯りを、疑いの色で塗り替えたくなかった。
「いや」
清六は箸を持ち直した。
「味噌汁、今日ちょっと濃いね」
誠司は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「そうか。疲れていると、味が濃くなるらしい」
「誰が?」
「作る人が」
「父さん、疲れてるの」
「少しだけ」
誠司はそう言って、清六の椀を見た。
「清六も、今日は早く休みなさい」
その声は優しかった。
優しいから、苦しかった。
誠司を疑いたくない。
でも、聞いてしまった言葉をなかったことにはできない。
清六は味噌汁を飲んだ。
濃い出汁の味が喉を通っていく。
温かいはずなのに、胸の奥だけが冷えていた。
***
夕食のあと、清六は食器を洗った。
誠司は店の片づけをしている。閉店後の天野書房には、昼間とは違う静けさがあった。棚に戻される本の音。引き戸の鍵を確かめる音。レジの小さな金属音。
その一つひとつが、清六の知っている夜だった。
食器を拭き終え、清六は二階へ戻った。
部屋の扉を閉めると、階下の音は急に遠くなる。
机の上にスマホを置いた。
画面をつける。
番号の下には、まだ薄い文字が残っていた。
ソラティア研究所。
清六はその文字を見つめた。
誠司に聞くべきだったのかもしれない。
沙織に連絡するべきなのかもしれない。
けれど、どちらもできなかった。
清六はもう一度、声に出さずにその名前を読んだ。
ソラティア。
こめかみの奥が、また小さく痛んだ。
今度は、さっきよりはっきりと。
痛みはすぐに消えた。
けれど、消えたあとにも、何かが残った。
知らないはずの名前。
父が隠そうとした言葉。
自分の体が先に覚えているような痛み。
清六はスマホを握りしめた。
天野書房の一階では、誠司が最後の灯りを消している。階段の下で、古い床板が一度だけ鳴った。
この家は、確かに清六の家だった。
それなのに今夜だけは、壁の向こうに知らない部屋が一つ増えたような気がした。
その時、階下で誠司の声がした。
「……ええ。着信には気づいたようです」
清六は、スマホを握る手に力を込めた。


