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第1章 第3話:書いた覚えのない三文字

部屋の明かりを消すと、スマホの画面だけが浮いて見えた。

清六は机の前に座ったまま、しばらく動けなかった。窓の外には、福岡の夜が広がっている。商店街の街灯。遠くのマンションの窓明かり。時々、狭い通りを車のライトが横切って、天井に淡い光を滑らせた。

天野書房の一階は、もう静かだった。

誠司が最後の灯りを消し、店の奥へ引っ込んだ音は聞こえた。古い床板が小さく鳴り、それから何も聞こえなくなった。

いつもの夜なら、その静けさは清六を落ち着かせる。

本棚に囲まれた部屋。

階下にいる父。

机の上に開いたノート。

明日返す予定の図書館の本。

どれも、清六の生活を形作っているものだった。欠けた過去の代わりに、少しずつ積み重ねてきた現在だった。

けれど今夜は、そのどれもが薄い紙でできているように感じた。

指先の下にあるスマホだけが、やけに重い。

画面には、まだ同じ文字が残っている。

ソラティア研究所。

清六はその文字を見つめた。

研究所。

それは、清六の日常からは遠い言葉だった。大学の授業で聞くことはある。新聞記事で見ることもある。けれど、自分のスマホに着信を残すような場所ではない。

しかも、誠司はさっき、由布という人物と話していた。

彼にはまだ言わないでください。

清六は目を閉じた。

誠司の声が耳に残っている。

硬く、低く、普段より少しだけ遠い声。

昔の仕事の知り合いだと、誠司は言った。たしかに、誠司には古書店を始める前の仕事がある。清六が小さい頃から、それについて詳しく聞いたことはほとんどなかった。

聞かなかったのは、興味がなかったからではない。

誠司が話したがらないことを、清六は子どもの頃から知っていた。

父には、触れない方がいい場所がある。

そのことを、清六は言葉にする前から覚えていた。

でも今夜、その場所が自分とつながっているように見えた。

「……何なんだよ」

小さく呟いても、答えるものはない。

清六はスマホを置き、ベッドに腰を移した。

沙織の顔が浮かぶ。

知らない番号、気になるなら一人で抱え込まないでね。

駅の方へ歩いていく前に、彼女はそう言った。

清六はメッセージアプリを開いた。

沙織の名前が、履歴の上の方にある。最後のやり取りは昨日の夜だった。明日の講義で使う資料を、清六が送り忘れていた時のものだ。

指が入力欄に触れる。

「さっきの電話だけど」

そこまで打って、止まった。

続きが書けない。

さっきの電話だけど、発信元が研究所だった。

父さんが知らない人と話していた。

僕のことを言わないでくれと言っていた。

ソラティアという名前を見たら、頭が痛くなった。

どれも、文章にすると急に大げさに見えた。沙織なら、きっと笑わずに読んでくれる。余計なことを言わず、まず「大丈夫?」と返してくれるだろう。

だからこそ、送れなかった。

清六は入力した文字を消した。

巻き込みたくない。

まだ何も分からないのに、沙織に不安だけを渡したくなかった。

それは優しさなのか、ただの臆病なのか、自分でも分からない。

清六はメッセージアプリを閉じた。

次に、着信履歴を開く。

ソラティア研究所。

番号の右側に、小さな発信ボタンがある。

押せば、つながるかもしれない。

押さなければ、何も起こらないかもしれない。

そのまま眠って、明日の朝になれば、今日のことを少し笑えるようになるかもしれない。知らない番号からの間違い電話。父の古い知り合いとの仕事の話。少し疲れていたから、頭が痛んだだけ。

そう考えようとして、清六は自分の手を見た。

指先が、スマホの端を強く押さえていた。

怖い。

それは認めるしかなかった。

でも、分からないままにしておく方がもっと怖かった。

本なら、分からないものをそばに置いておける。

ページを閉じても、そこに戻れば続きがある。登場人物が黙っていても、先へ読めばいつか何かが見えてくる。

けれどこれは本ではない。

現実の言葉は、ページの中で待っていてはくれない。

由布。

ソラティア。

彼にはまだ言わないでください。

知らないはずの言葉たちが、清六の部屋に入り込んでいる。

清六は息を吸った。

それから、発信ボタンを押した。

呼び出し音が鳴る。

一回。

二回。

三回。

その間、清六は画面を耳に押し当てたまま、窓の外を見ていた。遠くの信号が青から赤へ変わる。夜の道路を、誰かの車がゆっくり通り過ぎる。

四回目の途中で、音が途切れた。

「ソラティア研究所です」

声は若くも老いてもいなかった。

男か女かも、すぐには分からない。

丁寧な言葉遣いなのに、温度がない。人が話しているというより、決められた文を読み上げているようだった。

清六は一瞬、言葉を失った。

電話がつながった。

それだけで、さっきまで頭の中でどうにか小さくしようとしていた不安が、急に形を持った。

「あの」

声が少しかすれた。

清六は喉を鳴らし、もう一度言う。

「着信が残っていて。そちらから、かかってきたみたいなんですが」

電話口の向こうで、紙をめくるような音がした。

その奥に、古い録音を再生した時のような、ざらついたノイズが混じっている。

「お名前をお願いします」

「天野清六です」

名乗った瞬間、清六は自分が何かを渡してしまったような気がした。

名前。

自分が自分であることを示す、一番短い言葉。

電話口の向こうが、黙った。

沈黙は長くなかった。

たぶん一秒か二秒。

けれど清六には、その短い沈黙の中で、相手がこちらを見つけたように感じられた。

ノイズの奥で、誰かが小さく呟いた。

「照合完了」

「天野様」

声色が変わった。

ほんのわずかに。

けれど、確かに変わった。

さっきまでの事務的な応対から、何かを確認したあとの声になった。

その直前、遠くで子どもが息を吸うような音がした。

言葉にはならない。

けれど清六の背中に、冷たいものが走った。

「プロトコル実行の時期です」

言葉の意味は分からなかった。

プロトコル。

実行。

時期。

どれも日本語としては理解できる。けれど、それらが自分の名前のあとに続く理由が分からない。

分からないのに、体は先に反応した。

こめかみの奥が、強く脈打った。

清六はスマホを握る手に力を入れた。

痛みは、一瞬で終わらなかった。

細い針のようだった痛みが、今度は奥から押し広げられるように広がっていく。目の裏が熱くなる。耳の奥で、自分の鼓動が大きく響く。

視界の端に、何かがちらついた。

白い部屋。

金属の匂い。

自分よりずっと高い場所から見下ろす、誰かの影。

すぐに消えた。

本当に見えたのかどうかも分からない。

「プロトコルって」

清六は声を絞り出した。

「何ですか、それ」

電話口の向こうで、相手が短く息を呑んだ。

その反応は、初めて人間らしかった。

「申し訳ありません」

声が戻る。

さっきより硬い。

「間違えました」

「待ってください」

清六は立ち上がった。

椅子の脚が床をこすり、短い音を立てる。

「僕の名前を聞いてから、今のを言いましたよね。間違いって、何が」

「失礼いたしました」

「ソラティア研究所って、何の研究所なんですか。由布さんって人を知っていますか」

言ったあとで、自分でも驚いた。

由布の名前を出した。

もう戻せない。

電話口の向こうが、また黙る。

今度の沈黙は、さっきより長かった。

「お答えできません」

「どうして」

「本件は、確認のうえ、必要があれば改めてご連絡します」

「必要って、誰にとってですか」

「失礼いたします」

電話は切れた。

清六は耳元で途切れた無音を、しばらく聞いていた。

それから慌てて画面を見る。

通話終了。

清六はすぐに掛け直そうとした。

けれど、着信履歴の番号は表示されていなかった。

非通知。

通話時間は、00:00。

さっきまで見えていた番号も、発信元候補も、通話履歴の中では曖昧になっている。まるで、こちらから触れようとした瞬間に、相手が自分の痕跡を引っ込めたようだった。

「何だよ、それ」

清六はスマホを握ったまま、ベッドに座り込んだ。

部屋の空気が、さっきより狭い。

本棚も、机も、窓も、全部同じ場所にある。なのに、どこにも逃げ場がないように感じた。

こめかみの痛みは引いていた。

けれど、頭の奥にはまだ熱が残っている。

白い部屋。

金属の匂い。

誰かの影。

あれは何だったのか。

記憶とは呼べない。

夢とも違う。

ただ、言葉に反応して、体の奥から何かが浮かび上がろうとした。

プロトコル実行。

清六はその言葉を心の中で繰り返した。

意味は分からない。

それでも、あの声は確かに自分へ向けて言った。

天野様。

プロトコル実行の時期です。

清六は机に置いてあったノートを引き寄せた。

文学史の講義用ノートだった。今日の授業で書いた「社会的アイデンティティ」という文字が、ページの上に残っている。

その下に、清六はペンで三つの言葉を書いた。

由布。

ソラティア研究所。

プロトコル実行。

三つの言葉は、白いページの上で妙に浮いていた。

どれも、清六の日常にはなかった言葉だ。

けれど今は、どれも清六の名前につながっている。

階下から、かすかな物音がした。

清六は顔を上げる。

誠司が動いたのかもしれない。

それとも、古い家が夜の中できしんだだけかもしれない。

清六はノートを閉じかけて、手を止めた。

隠すべきなのか。

父に見せるべきなのか。

どちらも選べなかった。

結局、ノートを閉じずに机の上へ置いた。

窓の外では、福岡の夜景が静かに滲んでいる。昼間のキャンパスも、天野書房の灯りも、遠い場所のようだった。

清六はもう一度スマホを見た。

通話履歴には、非通知の文字だけが残っている。

由布。

ソラティア研究所。

プロトコル実行。

ばらばらだった言葉が、清六の知らないところで一本の線につながっている。

まだ何も分からない。

それでも、その線の先に自分がいることだけは分かった。

この夜を境に、何かが変わってしまう。

清六には、その予感だけがはっきり残っていた。

ふと、机の上のノートが目に入った。

由布。

ソラティア研究所。

プロトコル実行。

その下の余白に、黒いインクが残っている。

書いた覚えのない三文字。

FCT

第2章 第1話:検索欄に浮かぶFCT

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