部屋の明かりを消すと、スマホの画面だけが浮いて見えた。
清六は机の前に座ったまま、しばらく動けなかった。窓の外には、福岡の夜が広がっている。商店街の街灯。遠くのマンションの窓明かり。時々、狭い通りを車のライトが横切って、天井に淡い光を滑らせた。
天野書房の一階は、もう静かだった。
誠司が最後の灯りを消し、店の奥へ引っ込んだ音は聞こえた。古い床板が小さく鳴り、それから何も聞こえなくなった。
いつもの夜なら、その静けさは清六を落ち着かせる。
本棚に囲まれた部屋。
階下にいる父。
机の上に開いたノート。
明日返す予定の図書館の本。
どれも、清六の生活を形作っているものだった。欠けた過去の代わりに、少しずつ積み重ねてきた現在だった。
けれど今夜は、そのどれもが薄い紙でできているように感じた。
指先の下にあるスマホだけが、やけに重い。
画面には、まだ同じ文字が残っている。
ソラティア研究所。
清六はその文字を見つめた。
研究所。
それは、清六の日常からは遠い言葉だった。大学の授業で聞くことはある。新聞記事で見ることもある。けれど、自分のスマホに着信を残すような場所ではない。
しかも、誠司はさっき、由布という人物と話していた。
彼にはまだ言わないでください。
清六は目を閉じた。
誠司の声が耳に残っている。
硬く、低く、普段より少しだけ遠い声。
昔の仕事の知り合いだと、誠司は言った。たしかに、誠司には古書店を始める前の仕事がある。清六が小さい頃から、それについて詳しく聞いたことはほとんどなかった。
聞かなかったのは、興味がなかったからではない。
誠司が話したがらないことを、清六は子どもの頃から知っていた。
父には、触れない方がいい場所がある。
そのことを、清六は言葉にする前から覚えていた。
でも今夜、その場所が自分とつながっているように見えた。
「……何なんだよ」
小さく呟いても、答えるものはない。
清六はスマホを置き、ベッドに腰を移した。
沙織の顔が浮かぶ。
知らない番号、気になるなら一人で抱え込まないでね。
駅の方へ歩いていく前に、彼女はそう言った。
清六はメッセージアプリを開いた。
沙織の名前が、履歴の上の方にある。最後のやり取りは昨日の夜だった。明日の講義で使う資料を、清六が送り忘れていた時のものだ。
指が入力欄に触れる。
「さっきの電話だけど」
そこまで打って、止まった。
続きが書けない。
さっきの電話だけど、発信元が研究所だった。
父さんが知らない人と話していた。
僕のことを言わないでくれと言っていた。
ソラティアという名前を見たら、頭が痛くなった。
どれも、文章にすると急に大げさに見えた。沙織なら、きっと笑わずに読んでくれる。余計なことを言わず、まず「大丈夫?」と返してくれるだろう。
だからこそ、送れなかった。
清六は入力した文字を消した。
巻き込みたくない。
まだ何も分からないのに、沙織に不安だけを渡したくなかった。
それは優しさなのか、ただの臆病なのか、自分でも分からない。
清六はメッセージアプリを閉じた。
次に、着信履歴を開く。
ソラティア研究所。
番号の右側に、小さな発信ボタンがある。
押せば、つながるかもしれない。
押さなければ、何も起こらないかもしれない。
そのまま眠って、明日の朝になれば、今日のことを少し笑えるようになるかもしれない。知らない番号からの間違い電話。父の古い知り合いとの仕事の話。少し疲れていたから、頭が痛んだだけ。
そう考えようとして、清六は自分の手を見た。
指先が、スマホの端を強く押さえていた。
怖い。
それは認めるしかなかった。
でも、分からないままにしておく方がもっと怖かった。
本なら、分からないものをそばに置いておける。
ページを閉じても、そこに戻れば続きがある。登場人物が黙っていても、先へ読めばいつか何かが見えてくる。
けれどこれは本ではない。
現実の言葉は、ページの中で待っていてはくれない。
由布。
ソラティア。
彼にはまだ言わないでください。
知らないはずの言葉たちが、清六の部屋に入り込んでいる。
清六は息を吸った。
それから、発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
その間、清六は画面を耳に押し当てたまま、窓の外を見ていた。遠くの信号が青から赤へ変わる。夜の道路を、誰かの車がゆっくり通り過ぎる。
四回目の途中で、音が途切れた。
「ソラティア研究所です」
声は若くも老いてもいなかった。
男か女かも、すぐには分からない。
丁寧な言葉遣いなのに、温度がない。人が話しているというより、決められた文を読み上げているようだった。
清六は一瞬、言葉を失った。
電話がつながった。
それだけで、さっきまで頭の中でどうにか小さくしようとしていた不安が、急に形を持った。
「あの」
声が少しかすれた。
清六は喉を鳴らし、もう一度言う。
「着信が残っていて。そちらから、かかってきたみたいなんですが」
電話口の向こうで、紙をめくるような音がした。
その奥に、古い録音を再生した時のような、ざらついたノイズが混じっている。
「お名前をお願いします」
「天野清六です」
名乗った瞬間、清六は自分が何かを渡してしまったような気がした。
名前。
自分が自分であることを示す、一番短い言葉。
電話口の向こうが、黙った。
沈黙は長くなかった。
たぶん一秒か二秒。
けれど清六には、その短い沈黙の中で、相手がこちらを見つけたように感じられた。
ノイズの奥で、誰かが小さく呟いた。
「照合完了」
「天野様」
声色が変わった。
ほんのわずかに。
けれど、確かに変わった。
さっきまでの事務的な応対から、何かを確認したあとの声になった。
その直前、遠くで子どもが息を吸うような音がした。
言葉にはならない。
けれど清六の背中に、冷たいものが走った。
「プロトコル実行の時期です」
言葉の意味は分からなかった。
プロトコル。
実行。
時期。
どれも日本語としては理解できる。けれど、それらが自分の名前のあとに続く理由が分からない。
分からないのに、体は先に反応した。
こめかみの奥が、強く脈打った。
清六はスマホを握る手に力を入れた。
痛みは、一瞬で終わらなかった。
細い針のようだった痛みが、今度は奥から押し広げられるように広がっていく。目の裏が熱くなる。耳の奥で、自分の鼓動が大きく響く。
視界の端に、何かがちらついた。
白い部屋。
金属の匂い。
自分よりずっと高い場所から見下ろす、誰かの影。
すぐに消えた。
本当に見えたのかどうかも分からない。
「プロトコルって」
清六は声を絞り出した。
「何ですか、それ」
電話口の向こうで、相手が短く息を呑んだ。
その反応は、初めて人間らしかった。
「申し訳ありません」
声が戻る。
さっきより硬い。
「間違えました」
「待ってください」
清六は立ち上がった。
椅子の脚が床をこすり、短い音を立てる。
「僕の名前を聞いてから、今のを言いましたよね。間違いって、何が」
「失礼いたしました」
「ソラティア研究所って、何の研究所なんですか。由布さんって人を知っていますか」
言ったあとで、自分でも驚いた。
由布の名前を出した。
もう戻せない。
電話口の向こうが、また黙る。
今度の沈黙は、さっきより長かった。
「お答えできません」
「どうして」
「本件は、確認のうえ、必要があれば改めてご連絡します」
「必要って、誰にとってですか」
「失礼いたします」
電話は切れた。
清六は耳元で途切れた無音を、しばらく聞いていた。
それから慌てて画面を見る。
通話終了。
清六はすぐに掛け直そうとした。
けれど、着信履歴の番号は表示されていなかった。
非通知。
通話時間は、00:00。
さっきまで見えていた番号も、発信元候補も、通話履歴の中では曖昧になっている。まるで、こちらから触れようとした瞬間に、相手が自分の痕跡を引っ込めたようだった。
「何だよ、それ」
清六はスマホを握ったまま、ベッドに座り込んだ。
部屋の空気が、さっきより狭い。
本棚も、机も、窓も、全部同じ場所にある。なのに、どこにも逃げ場がないように感じた。
こめかみの痛みは引いていた。
けれど、頭の奥にはまだ熱が残っている。
白い部屋。
金属の匂い。
誰かの影。
あれは何だったのか。
記憶とは呼べない。
夢とも違う。
ただ、言葉に反応して、体の奥から何かが浮かび上がろうとした。
プロトコル実行。
清六はその言葉を心の中で繰り返した。
意味は分からない。
それでも、あの声は確かに自分へ向けて言った。
天野様。
プロトコル実行の時期です。
清六は机に置いてあったノートを引き寄せた。
文学史の講義用ノートだった。今日の授業で書いた「社会的アイデンティティ」という文字が、ページの上に残っている。
その下に、清六はペンで三つの言葉を書いた。
由布。
ソラティア研究所。
プロトコル実行。
三つの言葉は、白いページの上で妙に浮いていた。
どれも、清六の日常にはなかった言葉だ。
けれど今は、どれも清六の名前につながっている。
階下から、かすかな物音がした。
清六は顔を上げる。
誠司が動いたのかもしれない。
それとも、古い家が夜の中できしんだだけかもしれない。
清六はノートを閉じかけて、手を止めた。
隠すべきなのか。
父に見せるべきなのか。
どちらも選べなかった。
結局、ノートを閉じずに机の上へ置いた。
窓の外では、福岡の夜景が静かに滲んでいる。昼間のキャンパスも、天野書房の灯りも、遠い場所のようだった。
清六はもう一度スマホを見た。
通話履歴には、非通知の文字だけが残っている。
由布。
ソラティア研究所。
プロトコル実行。
ばらばらだった言葉が、清六の知らないところで一本の線につながっている。
まだ何も分からない。
それでも、その線の先に自分がいることだけは分かった。
この夜を境に、何かが変わってしまう。
清六には、その予感だけがはっきり残っていた。
ふと、机の上のノートが目に入った。
由布。
ソラティア研究所。
プロトコル実行。
その下の余白に、黒いインクが残っている。
書いた覚えのない三文字。
FCT


