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第2章 第1話:検索欄に浮かぶFCT

朝になっても、ノートの文字は消えていなかった。

由布。

ソラティア研究所。

プロトコル実行。

三つの言葉は、机の上に開いたままのページに並んでいた。夜のうちに何度も見返したせいで、清六にはもう、自分の字なのに少し他人のもののように見える。

窓の外では、朝の光が薄く差し込んでいた。

天野書房の二階にある清六の部屋は、東側に小さな窓がある。晴れた朝は、隣家の屋根に反射した光が、机の端をぼんやり明るくする。いつもなら、その光で目が覚めると少しだけ気分がよかった。

今日は違った。

眠った気がしない。

ベッドには入った。目も閉じた。けれど、眠りは浅く、何度も同じ言葉で引き戻された。

天野様。

プロトコル実行の時期です。

電話口の声は、夢の中でも温度がなかった。

清六は椅子に座り、ノートを閉じようとして、手を止めた。閉じれば見えなくなる。けれど見えなくしても、頭の中から消えるわけではない。

スマホを手に取る。

通話履歴には、非通知の文字だけが残っていた。

昨夜、確かに見えていた番号は、今はもうどこにもない。発信元候補として表示された「ソラティア研究所」の文字も、履歴の中からは消えている。

清六は検索欄に、その名前を入れた。

ソラティア研究所。

検索結果が表示される。

似た名前の化粧品会社。海外の医療機器メーカー。観光施設の紹介記事。聞いたことのない団体名。けれど、昨夜の電話につながりそうな情報は見つからない。

一番下まで送った時、画面が一度だけ白く瞬いた。

検索結果の端に、見覚えのない一行が浮かぶ。

大分県食品技術研究所。

清六が指を伸ばした瞬間、ページが読み込み直された。

その一行は、消えていた。

清六は検索語を変えた。

ソラティア 研究所。

ソラティア 由布。

ソラティア プロトコル。

プロトコル実行 ソラティア。

画面をスクロールするたび、関係のない言葉ばかりが流れていく。広告。古い掲示板。海外サイトの自動翻訳。どれも、清六が知りたい場所には触れていない。

検索履歴の欄に、自分で入れた覚えのない三文字が残っていた。

FCT。

昨夜、ノートの余白に現れた文字と同じだった。

情報が多すぎるのに、何もない。

そのことが、かえって気味悪かった。

本当に存在しないなら、昨夜の電話は何だったのか。

存在するのに出てこないなら、それはなぜなのか。

清六はスマホを伏せた。

その瞬間、ノートの三つの言葉がまた目に入る。

由布。

昨夜、誠司はその名前を知っているようだった。

父さんに聞けばいい。

そう思うのは簡単だった。

けれど、昨夜の誠司の声を思い出すと、喉の奥が固くなる。

彼にはまだ言わないでください。

その「彼」が自分であることを、清六はもう疑っていなかった。問題は、その先だった。

誠司は何を知っているのか。

どうして隠しているのか。

そして、隠していることを聞いた時、自分は今まで通り誠司を父さんと呼べるのか。

階下から、食器の触れ合う音がした。

朝食の準備をする音だった。

いつもの音。

いつもの朝。

清六はノートを閉じた。

閉じる直前、ページの上の「プロトコル実行」という文字が、朝の光の中で妙にはっきり見えた。

***

一階へ降りると、店の奥の台所にトーストの匂いが漂っていた。

天野書房はまだ開店前で、店内は薄暗い。棚の間に朝の光は届かず、奥の台所だけが白い蛍光灯で明るかった。カウンターには、昨夜誠司が整理していた伝票がきちんと重ねられている。

清六はその横を通り、台所へ入った。

「おはよう」

誠司が振り返った。

テーブルには、焼いたパン、サラダ、ゆで卵、カップに入ったスープが並んでいる。特別な朝食ではない。けれど、誠司は昔から、朝だけはできるだけ同じ形に整えようとする。

「おはよう」

清六は椅子を引いた。

「あまり眠れていない顔だね」

誠司はすぐに気づいた。

清六はパンの皿を見た。

「ちょっと、夜更かしした」

「本かい」

その言い方が、いつもと同じだった。

少し呆れて、少し安心している声。

清六はその声に頷きそうになり、途中で止まった。

本ではない。

昨夜は、本を読んでいたわけではない。

でも、違うと言えば、その先を聞かれる。

「少し、調べもの」

「大学の?」

「うん」

嘘ではない。

大学の調べものではないだけだ。

誠司はカップを清六の前へ置いた。

「根を詰めすぎると、頭に入るものも入らなくなるよ」

「分かってる」

「分かっている人ほど、分かっていないことが多い」

「父さんも?」

「私は、もう手遅れかもしれない」

誠司が少し笑った。

清六も笑おうとした。

けれど、うまくいかなかった。

誠司はそれに気づいたようだった。気づいて、何かを言おうとして、やめた。

その小さな沈黙が、清六には痛かった。

「今日は、何の授業だい」

誠司が尋ねる。

話題を変えたのだと分かった。

「文学史と、社会学概論」

「図書館には?」

「たぶん、行くと思う」

「遅くなりそうなら、連絡してくれ」

その言葉は、いつも通りだった。

心配してくれているだけの、父親の言葉。

けれど今朝の清六には、別の意味を持って聞こえた。

どこにいるのか知っておきたい。

何かが起きる前に、把握しておきたい。

そう疑ってしまう自分が嫌だった。

誠司は何も悪いことを言っていない。

なのに、清六の中では、昨夜の電話の声と重なってしまう。

彼にはまだ言わないでください。

清六はスープを飲んだ。

温かい。

けれど、胃のあたりでうまく落ち着かなかった。

「清六」

誠司が静かに呼んだ。

「何かあったなら、話していいんだよ」

清六は顔を上げた。

言える。

今なら言えるかもしれない。

由布さんって誰。

ソラティア研究所を知っているの。

僕に言わないでほしいことって何。

言葉は胸の奥で形になった。

でも、口から出たのは別の言葉だった。

「大丈夫」

誠司は、少しだけ目を細めた。

「そうか」

それ以上、追及しなかった。

清六は救われたような気がした。

同時に、突き放されたような気もした。

***

大学へ向かう道は、いつも通りだった。

商店街の店はまだ半分ほどしか開いていない。パン屋の前に自転車が止まり、クリーニング店のシャッターが上がる音がする。駅へ向かう人たちは、眠そうな顔でスマホを見ている。

清六はその流れの中を歩きながら、何度もスマホを確認した。

新しい着信はない。

メッセージもない。

何も起きていない。

それなのに、何かがもう始まっている気がした。

大学の正門をくぐると、朝のキャンパスには学生たちの声が戻っていた。講義棟へ向かう人、ベンチで朝食を取る人、サークルのビラを配る人。昨日と同じ景色のはずなのに、清六には少し遠く見える。

「清六くん」

背後から声がした。

振り返ると、沙織が小走りで近づいてきた。肩からかけた鞄が少しずれ、片手には講義で使う資料の束を抱えている。

「おはよう」

「おはよう」

沙織は息を整えながら、清六の顔を見た。

「寝てないでしょ」

「開口一番それ?」

「だって、顔に出てる」

沙織は少し眉を寄せた。

「昨日の電話?」

清六は返事に詰まった。

沙織は急かさなかった。ただ、隣に並んで歩き出す。

「講義まで、まだ少しあるよ」

その言い方は、話してもいいし、話さなくてもいい、という余白を残していた。

清六は校舎の方を見た。

朝の光で、窓ガラスが白く光っている。

「昨日、折り返したんだ」

沙織の歩く速度が、少しだけ落ちた。

「あの番号に?」

「うん」

清六は、昨夜のことを話した。

ソラティア研究所と名乗る声。

自分が名前を告げたあとの沈黙。

プロトコル実行の時期です、という言葉。

電話が切れたあと、非通知しか残らなかったこと。

由布という名前を出しても、相手が答えなかったこと。

全部をきれいに説明できたわけではない。途中で何度も言葉に詰まった。自分でも、何が一番怖かったのか分からなかった。

沙織は最後まで聞いた。

冗談を言わなかった。

大げさだとも言わなかった。

「それ、普通の間違い電話じゃないと思う」

沙織は静かに言った。

「僕も、そう思う」

「でも、研究所の情報は出てこないんだよね」

「検索したけど、関係ありそうなのは何も」

「スクショは?」

清六は言葉に詰まった。

「撮ってない」

「次から、怪しい画面は全部撮ろう」

沙織は即座に言った。

「消えるかもしれない情報なら、なおさら」

沙織は少し考え込んだ。

「情報が少ないって、ただ無名ってこともあるけど」

「うん」

「名前を出して電話してきたのに、検索で何も引っかからないのは、ちょっと変」

沙織の声は、決めつけるものではなかった。

けれど、清六がぼんやり感じていた不気味さに、輪郭を与えてくれた。

「父さんには?」

沙織が聞く。

清六は首を横に振った。

「言えなかった」

「昨日の、由布さんって人のことも?」

「うん」

「そっか」

沙織はそれ以上、すぐには言わなかった。

校舎の入口近くで、学生たちが流れを作っている。二人は少し端に寄った。

「清六くんは、お父さんを疑いたいわけじゃないんだよね」

その言葉に、清六は胸を押さえられたような気がした。

「うん」

「でも、聞いたことをなかったことにもできない」

清六は沙織を見た。

沙織はまっすぐこちらを見ていた。

踏み込みすぎない。

でも、逃げない。

「そう」

清六は小さく頷いた。

「それが、一番困ってる」

「じゃあ、今は無理に決めなくていいと思う」

「決めない?」

「お父さんを信じるか疑うか、どっちかにしなくていいってこと」

沙織は資料を抱え直した。

「分からないことは、分からないまま置いておいてもいい。でも、見なかったことにはしない」

その言葉に、清六は昨日の自分の言葉を思い出した。

分からないものを、分からないままそばに置いておけるのが、本のいいところだから。

沙織はたぶん、それを覚えていた。

「文学部みたいなこと言うね」

清六が言うと、沙織は少しだけ笑った。

「清六くんの影響です」

その笑顔で、清六の肩から少しだけ力が抜けた。

謎は何も解けていない。

でも、一人で抱えているよりは、息がしやすかった。

「ありがとう」

「まだ何もしてないよ」

「聞いてくれた」

沙織は一瞬、照れたように視線をそらした。

「じゃあ、それはした」

講義開始を知らせる予鈴が鳴った。

沙織は時計を見る。

「行こう。遅れると、また一番前の席しか空いてない」

「それは困る?」

「清六くんは困らないでしょ。私は困る」

二人は講義室へ向かった。

***

文学史の講義室は、朝の光で少し白っぽく見えた。

窓際の席にはもう学生が座っていて、後ろの方では眠そうな声で雑談が続いている。教授は教卓の上に資料を並べ、マイクの調子を確かめていた。

清六は沙織と少し離れた席に座った。

別々の授業ではない。

ただ、今日は隣に座ると、自分がずっと沙織に頼ってしまいそうな気がした。沙織もそれを察したのか、何も言わず、斜め前の席に座った。

講義が始まる。

教授は夏目漱石の『こころ』について話し始めた。

先生と私。

告白。

秘密。

近代的自我。

言葉は耳に入ってくる。

けれど、そのたびに別の言葉が重なった。

父。

由布。

ソラティア。

プロトコル。

清六はノートを開いた。

ページの上部には、教授が黒板に書いた「自己認識と他者」という文字を写す。

その下に、講義の要点を書こうとした。

だが、ペン先は勝手に余白へ向かった。

プロトコル。

途中まで書いて、清六は手を止めた。

黒いインクで「プロ」までが残っている。

慌てて消しゴムを取った。

紙の上をこする。

文字は消えた。

けれど、跡は残った。

薄く、へこんだ線。

見ようとしなければ見えない。

でも、そこにあると知っていれば、消えていないことが分かる。

隣の席の学生が、ふと清六のノートへ視線を向けた。

清六は反射的に手のひらで余白を隠した。

学生はすぐ黒板へ目を戻した。

見られていない。

たぶん。

清六は消しゴムのかすを指で払った。

教授の声が遠くで続いている。

秘密は、語られない限り存在しないのではない。

語られないからこそ、人の中に残る。

清六はノートの余白を見つめた。

消しても、紙には薄く跡が残っていた。

その時、机の上のスマホが小さく震えた。

通知は来ていない。

なのに、ブラウザの検索欄だけが勝手に開いている。

候補欄に、三文字だけが浮かんでいた。

FCT

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