朝になっても、ノートの文字は消えていなかった。
由布。
ソラティア研究所。
プロトコル実行。
三つの言葉は、机の上に開いたままのページに並んでいた。夜のうちに何度も見返したせいで、清六にはもう、自分の字なのに少し他人のもののように見える。
窓の外では、朝の光が薄く差し込んでいた。
天野書房の二階にある清六の部屋は、東側に小さな窓がある。晴れた朝は、隣家の屋根に反射した光が、机の端をぼんやり明るくする。いつもなら、その光で目が覚めると少しだけ気分がよかった。
今日は違った。
眠った気がしない。
ベッドには入った。目も閉じた。けれど、眠りは浅く、何度も同じ言葉で引き戻された。
天野様。
プロトコル実行の時期です。
電話口の声は、夢の中でも温度がなかった。
清六は椅子に座り、ノートを閉じようとして、手を止めた。閉じれば見えなくなる。けれど見えなくしても、頭の中から消えるわけではない。
スマホを手に取る。
通話履歴には、非通知の文字だけが残っていた。
昨夜、確かに見えていた番号は、今はもうどこにもない。発信元候補として表示された「ソラティア研究所」の文字も、履歴の中からは消えている。
清六は検索欄に、その名前を入れた。
ソラティア研究所。
検索結果が表示される。
似た名前の化粧品会社。海外の医療機器メーカー。観光施設の紹介記事。聞いたことのない団体名。けれど、昨夜の電話につながりそうな情報は見つからない。
一番下まで送った時、画面が一度だけ白く瞬いた。
検索結果の端に、見覚えのない一行が浮かぶ。
大分県食品技術研究所。
清六が指を伸ばした瞬間、ページが読み込み直された。
その一行は、消えていた。
清六は検索語を変えた。
ソラティア 研究所。
ソラティア 由布。
ソラティア プロトコル。
プロトコル実行 ソラティア。
画面をスクロールするたび、関係のない言葉ばかりが流れていく。広告。古い掲示板。海外サイトの自動翻訳。どれも、清六が知りたい場所には触れていない。
検索履歴の欄に、自分で入れた覚えのない三文字が残っていた。
FCT。
昨夜、ノートの余白に現れた文字と同じだった。
情報が多すぎるのに、何もない。
そのことが、かえって気味悪かった。
本当に存在しないなら、昨夜の電話は何だったのか。
存在するのに出てこないなら、それはなぜなのか。
清六はスマホを伏せた。
その瞬間、ノートの三つの言葉がまた目に入る。
由布。
昨夜、誠司はその名前を知っているようだった。
父さんに聞けばいい。
そう思うのは簡単だった。
けれど、昨夜の誠司の声を思い出すと、喉の奥が固くなる。
彼にはまだ言わないでください。
その「彼」が自分であることを、清六はもう疑っていなかった。問題は、その先だった。
誠司は何を知っているのか。
どうして隠しているのか。
そして、隠していることを聞いた時、自分は今まで通り誠司を父さんと呼べるのか。
階下から、食器の触れ合う音がした。
朝食の準備をする音だった。
いつもの音。
いつもの朝。
清六はノートを閉じた。
閉じる直前、ページの上の「プロトコル実行」という文字が、朝の光の中で妙にはっきり見えた。
***
一階へ降りると、店の奥の台所にトーストの匂いが漂っていた。
天野書房はまだ開店前で、店内は薄暗い。棚の間に朝の光は届かず、奥の台所だけが白い蛍光灯で明るかった。カウンターには、昨夜誠司が整理していた伝票がきちんと重ねられている。
清六はその横を通り、台所へ入った。
「おはよう」
誠司が振り返った。
テーブルには、焼いたパン、サラダ、ゆで卵、カップに入ったスープが並んでいる。特別な朝食ではない。けれど、誠司は昔から、朝だけはできるだけ同じ形に整えようとする。
「おはよう」
清六は椅子を引いた。
「あまり眠れていない顔だね」
誠司はすぐに気づいた。
清六はパンの皿を見た。
「ちょっと、夜更かしした」
「本かい」
その言い方が、いつもと同じだった。
少し呆れて、少し安心している声。
清六はその声に頷きそうになり、途中で止まった。
本ではない。
昨夜は、本を読んでいたわけではない。
でも、違うと言えば、その先を聞かれる。
「少し、調べもの」
「大学の?」
「うん」
嘘ではない。
大学の調べものではないだけだ。
誠司はカップを清六の前へ置いた。
「根を詰めすぎると、頭に入るものも入らなくなるよ」
「分かってる」
「分かっている人ほど、分かっていないことが多い」
「父さんも?」
「私は、もう手遅れかもしれない」
誠司が少し笑った。
清六も笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
誠司はそれに気づいたようだった。気づいて、何かを言おうとして、やめた。
その小さな沈黙が、清六には痛かった。
「今日は、何の授業だい」
誠司が尋ねる。
話題を変えたのだと分かった。
「文学史と、社会学概論」
「図書館には?」
「たぶん、行くと思う」
「遅くなりそうなら、連絡してくれ」
その言葉は、いつも通りだった。
心配してくれているだけの、父親の言葉。
けれど今朝の清六には、別の意味を持って聞こえた。
どこにいるのか知っておきたい。
何かが起きる前に、把握しておきたい。
そう疑ってしまう自分が嫌だった。
誠司は何も悪いことを言っていない。
なのに、清六の中では、昨夜の電話の声と重なってしまう。
彼にはまだ言わないでください。
清六はスープを飲んだ。
温かい。
けれど、胃のあたりでうまく落ち着かなかった。
「清六」
誠司が静かに呼んだ。
「何かあったなら、話していいんだよ」
清六は顔を上げた。
言える。
今なら言えるかもしれない。
由布さんって誰。
ソラティア研究所を知っているの。
僕に言わないでほしいことって何。
言葉は胸の奥で形になった。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「大丈夫」
誠司は、少しだけ目を細めた。
「そうか」
それ以上、追及しなかった。
清六は救われたような気がした。
同時に、突き放されたような気もした。
***
大学へ向かう道は、いつも通りだった。
商店街の店はまだ半分ほどしか開いていない。パン屋の前に自転車が止まり、クリーニング店のシャッターが上がる音がする。駅へ向かう人たちは、眠そうな顔でスマホを見ている。
清六はその流れの中を歩きながら、何度もスマホを確認した。
新しい着信はない。
メッセージもない。
何も起きていない。
それなのに、何かがもう始まっている気がした。
大学の正門をくぐると、朝のキャンパスには学生たちの声が戻っていた。講義棟へ向かう人、ベンチで朝食を取る人、サークルのビラを配る人。昨日と同じ景色のはずなのに、清六には少し遠く見える。
「清六くん」
背後から声がした。
振り返ると、沙織が小走りで近づいてきた。肩からかけた鞄が少しずれ、片手には講義で使う資料の束を抱えている。
「おはよう」
「おはよう」
沙織は息を整えながら、清六の顔を見た。
「寝てないでしょ」
「開口一番それ?」
「だって、顔に出てる」
沙織は少し眉を寄せた。
「昨日の電話?」
清六は返事に詰まった。
沙織は急かさなかった。ただ、隣に並んで歩き出す。
「講義まで、まだ少しあるよ」
その言い方は、話してもいいし、話さなくてもいい、という余白を残していた。
清六は校舎の方を見た。
朝の光で、窓ガラスが白く光っている。
「昨日、折り返したんだ」
沙織の歩く速度が、少しだけ落ちた。
「あの番号に?」
「うん」
清六は、昨夜のことを話した。
ソラティア研究所と名乗る声。
自分が名前を告げたあとの沈黙。
プロトコル実行の時期です、という言葉。
電話が切れたあと、非通知しか残らなかったこと。
由布という名前を出しても、相手が答えなかったこと。
全部をきれいに説明できたわけではない。途中で何度も言葉に詰まった。自分でも、何が一番怖かったのか分からなかった。
沙織は最後まで聞いた。
冗談を言わなかった。
大げさだとも言わなかった。
「それ、普通の間違い電話じゃないと思う」
沙織は静かに言った。
「僕も、そう思う」
「でも、研究所の情報は出てこないんだよね」
「検索したけど、関係ありそうなのは何も」
「スクショは?」
清六は言葉に詰まった。
「撮ってない」
「次から、怪しい画面は全部撮ろう」
沙織は即座に言った。
「消えるかもしれない情報なら、なおさら」
沙織は少し考え込んだ。
「情報が少ないって、ただ無名ってこともあるけど」
「うん」
「名前を出して電話してきたのに、検索で何も引っかからないのは、ちょっと変」
沙織の声は、決めつけるものではなかった。
けれど、清六がぼんやり感じていた不気味さに、輪郭を与えてくれた。
「父さんには?」
沙織が聞く。
清六は首を横に振った。
「言えなかった」
「昨日の、由布さんって人のことも?」
「うん」
「そっか」
沙織はそれ以上、すぐには言わなかった。
校舎の入口近くで、学生たちが流れを作っている。二人は少し端に寄った。
「清六くんは、お父さんを疑いたいわけじゃないんだよね」
その言葉に、清六は胸を押さえられたような気がした。
「うん」
「でも、聞いたことをなかったことにもできない」
清六は沙織を見た。
沙織はまっすぐこちらを見ていた。
踏み込みすぎない。
でも、逃げない。
「そう」
清六は小さく頷いた。
「それが、一番困ってる」
「じゃあ、今は無理に決めなくていいと思う」
「決めない?」
「お父さんを信じるか疑うか、どっちかにしなくていいってこと」
沙織は資料を抱え直した。
「分からないことは、分からないまま置いておいてもいい。でも、見なかったことにはしない」
その言葉に、清六は昨日の自分の言葉を思い出した。
分からないものを、分からないままそばに置いておけるのが、本のいいところだから。
沙織はたぶん、それを覚えていた。
「文学部みたいなこと言うね」
清六が言うと、沙織は少しだけ笑った。
「清六くんの影響です」
その笑顔で、清六の肩から少しだけ力が抜けた。
謎は何も解けていない。
でも、一人で抱えているよりは、息がしやすかった。
「ありがとう」
「まだ何もしてないよ」
「聞いてくれた」
沙織は一瞬、照れたように視線をそらした。
「じゃあ、それはした」
講義開始を知らせる予鈴が鳴った。
沙織は時計を見る。
「行こう。遅れると、また一番前の席しか空いてない」
「それは困る?」
「清六くんは困らないでしょ。私は困る」
二人は講義室へ向かった。
***
文学史の講義室は、朝の光で少し白っぽく見えた。
窓際の席にはもう学生が座っていて、後ろの方では眠そうな声で雑談が続いている。教授は教卓の上に資料を並べ、マイクの調子を確かめていた。
清六は沙織と少し離れた席に座った。
別々の授業ではない。
ただ、今日は隣に座ると、自分がずっと沙織に頼ってしまいそうな気がした。沙織もそれを察したのか、何も言わず、斜め前の席に座った。
講義が始まる。
教授は夏目漱石の『こころ』について話し始めた。
先生と私。
告白。
秘密。
近代的自我。
言葉は耳に入ってくる。
けれど、そのたびに別の言葉が重なった。
父。
由布。
ソラティア。
プロトコル。
清六はノートを開いた。
ページの上部には、教授が黒板に書いた「自己認識と他者」という文字を写す。
その下に、講義の要点を書こうとした。
だが、ペン先は勝手に余白へ向かった。
プロトコル。
途中まで書いて、清六は手を止めた。
黒いインクで「プロ」までが残っている。
慌てて消しゴムを取った。
紙の上をこする。
文字は消えた。
けれど、跡は残った。
薄く、へこんだ線。
見ようとしなければ見えない。
でも、そこにあると知っていれば、消えていないことが分かる。
隣の席の学生が、ふと清六のノートへ視線を向けた。
清六は反射的に手のひらで余白を隠した。
学生はすぐ黒板へ目を戻した。
見られていない。
たぶん。
清六は消しゴムのかすを指で払った。
教授の声が遠くで続いている。
秘密は、語られない限り存在しないのではない。
語られないからこそ、人の中に残る。
清六はノートの余白を見つめた。
消しても、紙には薄く跡が残っていた。
その時、机の上のスマホが小さく震えた。
通知は来ていない。
なのに、ブラウザの検索欄だけが勝手に開いている。
候補欄に、三文字だけが浮かんでいた。
FCT


