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第2章 第2話:反応待機のチキンハウス

昼を過ぎる頃には、朝の不安も少しだけ薄まっていた。

消えたわけではない。

ノートの余白に残った「プロ」の跡は、講義が終わったあとも清六の頭から離れなかった。鞄にノートをしまっても、紙のへこみが指先に残っているような気がする。

それでも、大学の午後はいつも通りに進んでいく。

学生たちは次の講義へ向かい、食堂の前には昼食を買う列ができ、サークル棟の方からは誰かの笑い声が聞こえた。ベンチでは、知らない学生がコンビニの袋を開けながら友人と話している。

清六だけが立ち止まっているわけにはいかない。

そう思いたかった。

「清六くん」

講義室を出たところで、沙織が声をかけてきた。

「大丈夫?」

朝から何度目かの問いだった。

清六は少し笑った。

「その質問、今日だけで何回目?」

「数えてないけど、多分まだ足りない」

「足りないんだ」

「うん。清六くん、足りないくらい聞かないと、すぐ大丈夫って言うから」

沙織は軽く言った。

けれど、目は笑っていなかった。心配している。清六にはそれが分かった。

「今は、本当に大丈夫」

「今は?」

「少なくとも、講義中に倒れたりはしてない」

「基準が低い」

沙織が小さくため息をつく。

その時、背後から大きな声が飛んできた。

「おーい、清六! 沙織!」

振り返ると、健太が片手を振りながら近づいてきた。経済学部の健太は、どこにいても声が通る。本人は普通に話しているつもりらしいが、たいてい少し大きい。

その後ろから、真理と康介も歩いてくる。

真理は肩までの髪をきれいにまとめ、スマホを見ながらも周囲の会話を聞き逃さないタイプだった。康介は腕を組み、眠そうな顔をしているが、健太の暴走を止める係として自然にそこにいる。

「今からカラオケ行こうぜ」

健太が言った。

「いきなりだな」

康介が横から突っ込む。

「いきなりじゃない。午前中から考えてた」

「それを今初めて言うなら、いきなりだよ」

真理が呆れたように笑った。

健太は気にしない。

「だって今日、午後の講義ゆるいだろ? 清六も最近ずっと本ばっか読んでるし、たまには声出そうぜ」

「僕は本ばっかり読んでるわけじゃない」

清六が言うと、三人が同時にこちらを見た。

「え?」

「そうなの?」

「じゃあ何を?」

「……本も読んでる」

健太が笑った。

「ほらな」

そのやり取りに、清六は少しだけ気が抜けた。

いつもの友人たち。

いつものくだらない会話。

昨日の電話も、由布という名前も、ソラティア研究所も、この人たちの前ではひどく場違いだった。

だからこそ、少し救われた。

沙織が清六の横顔を見て、小さく言う。

「少し気分転換してもいいかも」

「沙織まで」

「無理にとは言わないけど」

「いや」

清六は首を横に振った。

「行くよ」

何かを考え続けていると、頭の中が同じ場所をぐるぐる回る。沙織に話して少し楽になったのは確かだったが、それでも一人になれば、またノートの三つの言葉へ戻ってしまう。

カラオケくらいなら、いい。

普通の大学生みたいに、友人たちと笑っていられるなら。

「よし、決まり」

健太が満足そうに頷いた。

「駅前のとこでいいよな」

「その前に何か食べない?」

真理が言った。

「昼、軽かったからお腹すいた」

「じゃあ、あそこ行こうぜ」

健太が校門の方を指差す。

「最近できたチキンの店。チキンハウス」

「名前そのままだね」

沙織が言った。

「分かりやすくていいだろ」

健太は胸を張る。

康介がスマホで地図を確認した。

「駅前の手前だな。カラオケ行く道沿い」

「じゃあ、ちょうどいいじゃん」

真理が歩き出す。

清六もそれに続いた。

***

大学から駅前へ向かう道は、午後の光で明るかった。

街路樹の影が歩道に落ち、車道にはバスや自転車が行き交っている。学生向けの安い定食屋、コピー店、古着屋、コンビニ。どれも見慣れた景色だった。

健太は前を歩きながら、最近のカラオケ機種がどうだとか、誰が何を歌うべきだとか、一人で盛り上がっている。真理はそれに適当に相槌を打ち、康介は「俺は歌わない」と何度も言っている。

沙織は清六の隣を歩いていた。

「無理してない?」

小さな声で聞く。

「してない」

「ほんとに?」

「少しはしてるかもしれない」

「正直でよろしい」

沙織は軽く笑った。

清六も少し笑う。

沙織が隣にいると、昨日から続く不安が全部消えるわけではない。けれど、不安の形を一人で見つめ続けなくて済む。

「さっきの話」

沙織が前を向いたまま言った。

「ソラティアのこと、私もあとで少し調べてみる」

「いいの?」

「気になるし」

「でも、まだ何か分からない」

「だから調べるんでしょ」

沙織は当たり前のように言った。

その言い方に、清六は少し救われる。

怖いものを、怖いまま一緒に見てくれる人がいる。

「ありがとう」

「どういたしまして。まだ何も見つけてないけど」

「さっきも同じようなこと言ってた」

「聞いただけで感謝されたから」

「それは、聞いてくれたから」

「じゃあ、今度は調べたらまた感謝される予定」

「予定なんだ」

二人がそんな話をしていると、前を歩いていた健太が振り返った。

「何こそこそ話してんだよ」

「健太の歌う曲を予想してた」

沙織がすぐに答える。

「まじで? 当ててみろ」

「流行ってる曲を入れて、途中で高音が出なくなる」

康介が吹き出した。

「正解だな」

「まだ歌ってないだろ!」

健太の声が歩道に響く。

その明るさに、清六はつられて笑った。

その時だった。

風向きが変わり、油の匂いが流れてきた。

揚げ物の香ばしい匂い。

普通なら食欲を誘う匂いのはずだった。

けれど清六は、ほんの一瞬だけ足を止めた。

胸の奥が、かすかにざわついた。

油の匂いだけではない。

熱した金属のような、乾いた匂いがほんの少し混じっている気がした。

「清六くん?」

沙織が気づく。

「何でもない」

清六は歩き出した。

何でもない。

ただの揚げ物の匂いだ。

そう言い聞かせる。

通りの角を曲がると、赤と白の看板が見えた。

チキンハウス。

丸い文字で書かれた店名の横に、笑顔の鶏のイラストが描かれている。店先には開店祝いの花がまだいくつか残っていて、入口のガラスには「九州限定メニューあります」と大きく貼られていた。

ガラスの内側に貼られた新メニューのポスターには、湯気を上げるとり天の写真が大きく載っている。

その下の小さな文字が、清六の目に引っかかった。

本日限定。

数量限定。

まるで、誰かがこの時間に来るのを待っていたみたいだった。

表向きは、明るい新店舗だった。

清六は看板を見上げた。

胸のざわつきは、もう消えている。

気のせいだったのかもしれない。

「ここここ」

健太が先に入口へ向かう。

その時、沙織がふと裏口の方へ視線を向けた。

店の横の細い通路で、店員らしき男が銀色の箱を台車から下ろしていた。

箱は、業務用の保冷箱に似ている。

けれど妙に新しく、側面に貼られた白いラベルには、商品名らしきものが見えなかった。男は周囲を軽く見回し、急ぐように店の奥へ運び込む。

ラベルの端に、黒い文字が一瞬だけ見えた。

A/17。

清六がそれを読んだ時、箱を運んでいた男が顔を上げた。

男の視線が、清六の顔で止まる。

確認するような目だった。

男は箱を抱えたまま、店内へ向けて短く頷いた。

その仕草は、搬入の合図というより、誰かに到着を知らせる合図に見えた。

「どうしたの?」

清六が聞く。

沙織は少し眉を寄せたが、すぐに首を横に振った。

「ううん。搬入かなって思っただけ」

「飲食店だし、普通じゃない?」

「そうだね」

沙織はそう答えた。

ただ、その視線は一瞬だけ、店の奥へ向いたままだった。

***

店内は、外から見た印象よりもずっと明るかった。

赤と白を基調にした壁。天井から下がる丸い照明。カウンターの上には、揚げたてのチキンを写した大きなメニュー写真が並んでいる。スピーカーからは、軽いポップスが流れていた。

曲の途中で、音が一瞬だけざらついた。

すぐに元へ戻る。

そのノイズの奥に、電子音のような短い高音が混じった。

ピッ。

油の匂いは濃い。

けれど嫌な匂いではなかった。衣が揚がる香ばしさと、スパイスの甘い刺激が混ざっている。店内には学生や家族連れが何組か座っていて、笑い声も聞こえた。

照明は白いはずなのに、清六には店内全体がわずかに黄色く見えた。

普通の店だ。

清六はそう思おうとした。

「席、あそこ空いてる」

真理が窓際のテーブルを指差す。

五人は席についた。

健太はメニューを開くなり、目を輝かせた。

「うわ、セット多いな。全部うまそう」

「全部は食べないでよ」

真理が言う。

「分かってる。二つまでにする」

「分かってない」

康介はメニューを眺めながら、淡々と言った。

「揚げ物ばかりだな」

「チキンの店で何言ってんだ」

健太が笑う。

沙織もメニューを見ていたが、時々店内へ視線を向けていた。

清六はそれに気づいた。

「まだ気になる?」

「少し」

「箱?」

「うん。でも、ただの搬入かもしれない」

沙織は声を落とした。

「それより、清六くんは?」

「僕?」

「さっき、匂いがした時、少し止まった」

清六は返事に詰まった。

沙織は見ていた。

やはり、見逃さない。

「ちょっと、変な感じがしただけ」

「頭痛?」

「そこまでは」

「無理だったら、すぐ出よう」

「うん」

清六は頷いた。

その時、店の入口近くの席に座っていた男が、こちらを見た。

三十代くらいだろうか。

黒いジャケットを着て、まだ何も注文していないのか、テーブルには水のカップだけが置かれている。スマホを手に持っているが、画面を見ているというより、店内の様子を確認しているように見えた。

男のスマホ画面には、カメラの赤い点に似た光が一瞬だけ映っていた。

清六と目が合う前に、男は視線をそらした。

「清六くん」

沙織が小さく呼ぶ。

「今の人」

「うん」

「店の人じゃないよね」

「たぶん」

「ずっと入口の方にいる」

清六はもう一度見ようとしたが、健太の声が割り込んだ。

「なあ、注文決めた?」

「まだ」

「清六、こういう時めっちゃ遅いよな」

「本を選ぶ時よりは早いよ」

「いや、本選ぶ時は論外だろ」

健太がメニューをこちらへ向ける。

「これ、九州限定だって。とり天」

その文字が、清六の視界に入った。

九州名物。

とり天。

胸の奥で、何かが小さく動いた。

清六は瞬きをした。

メニューの他の文字が、少し遠くなる。

チキンセット。

ポテト。

ドリンク。

それらの文字はぼやけていくのに、「とり天」だけがやけに黒く、濃く、紙の上に浮かんで見えた。

油の匂いが濃くなる。

さっきよりも深い。

衣が油の中で泡立つ音が、カウンターの奥から聞こえてきた。普通なら聞き取れないはずの細かな音まで、耳の奥に入り込んでくる。

こめかみが脈打った。

一度。

二度。

清六はメニューを持つ指に力を入れた。

紙がわずかに曲がる。

「清六くん?」

沙織の声が近くで聞こえた。

けれど、少し遠い。

水の中で呼ばれているようだった。

清六は口を開いた。

まだ何を注文するか、決めていない。

決めていないはずだった。

それなのに、自分の口が先に動くのを感じた。

「僕、とり天にする」

カウンター奥で、店員の指が小さな端末に触れた。

ピッ、と短い電子音が鳴った。

清六には見えなかった。

端末の小さな画面に、短い文字が点いたことを。

反応待機。

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