昼を過ぎる頃には、朝の不安も少しだけ薄まっていた。
消えたわけではない。
ノートの余白に残った「プロ」の跡は、講義が終わったあとも清六の頭から離れなかった。鞄にノートをしまっても、紙のへこみが指先に残っているような気がする。
それでも、大学の午後はいつも通りに進んでいく。
学生たちは次の講義へ向かい、食堂の前には昼食を買う列ができ、サークル棟の方からは誰かの笑い声が聞こえた。ベンチでは、知らない学生がコンビニの袋を開けながら友人と話している。
清六だけが立ち止まっているわけにはいかない。
そう思いたかった。
「清六くん」
講義室を出たところで、沙織が声をかけてきた。
「大丈夫?」
朝から何度目かの問いだった。
清六は少し笑った。
「その質問、今日だけで何回目?」
「数えてないけど、多分まだ足りない」
「足りないんだ」
「うん。清六くん、足りないくらい聞かないと、すぐ大丈夫って言うから」
沙織は軽く言った。
けれど、目は笑っていなかった。心配している。清六にはそれが分かった。
「今は、本当に大丈夫」
「今は?」
「少なくとも、講義中に倒れたりはしてない」
「基準が低い」
沙織が小さくため息をつく。
その時、背後から大きな声が飛んできた。
「おーい、清六! 沙織!」
振り返ると、健太が片手を振りながら近づいてきた。経済学部の健太は、どこにいても声が通る。本人は普通に話しているつもりらしいが、たいてい少し大きい。
その後ろから、真理と康介も歩いてくる。
真理は肩までの髪をきれいにまとめ、スマホを見ながらも周囲の会話を聞き逃さないタイプだった。康介は腕を組み、眠そうな顔をしているが、健太の暴走を止める係として自然にそこにいる。
「今からカラオケ行こうぜ」
健太が言った。
「いきなりだな」
康介が横から突っ込む。
「いきなりじゃない。午前中から考えてた」
「それを今初めて言うなら、いきなりだよ」
真理が呆れたように笑った。
健太は気にしない。
「だって今日、午後の講義ゆるいだろ? 清六も最近ずっと本ばっか読んでるし、たまには声出そうぜ」
「僕は本ばっかり読んでるわけじゃない」
清六が言うと、三人が同時にこちらを見た。
「え?」
「そうなの?」
「じゃあ何を?」
「……本も読んでる」
健太が笑った。
「ほらな」
そのやり取りに、清六は少しだけ気が抜けた。
いつもの友人たち。
いつものくだらない会話。
昨日の電話も、由布という名前も、ソラティア研究所も、この人たちの前ではひどく場違いだった。
だからこそ、少し救われた。
沙織が清六の横顔を見て、小さく言う。
「少し気分転換してもいいかも」
「沙織まで」
「無理にとは言わないけど」
「いや」
清六は首を横に振った。
「行くよ」
何かを考え続けていると、頭の中が同じ場所をぐるぐる回る。沙織に話して少し楽になったのは確かだったが、それでも一人になれば、またノートの三つの言葉へ戻ってしまう。
カラオケくらいなら、いい。
普通の大学生みたいに、友人たちと笑っていられるなら。
「よし、決まり」
健太が満足そうに頷いた。
「駅前のとこでいいよな」
「その前に何か食べない?」
真理が言った。
「昼、軽かったからお腹すいた」
「じゃあ、あそこ行こうぜ」
健太が校門の方を指差す。
「最近できたチキンの店。チキンハウス」
「名前そのままだね」
沙織が言った。
「分かりやすくていいだろ」
健太は胸を張る。
康介がスマホで地図を確認した。
「駅前の手前だな。カラオケ行く道沿い」
「じゃあ、ちょうどいいじゃん」
真理が歩き出す。
清六もそれに続いた。
***
大学から駅前へ向かう道は、午後の光で明るかった。
街路樹の影が歩道に落ち、車道にはバスや自転車が行き交っている。学生向けの安い定食屋、コピー店、古着屋、コンビニ。どれも見慣れた景色だった。
健太は前を歩きながら、最近のカラオケ機種がどうだとか、誰が何を歌うべきだとか、一人で盛り上がっている。真理はそれに適当に相槌を打ち、康介は「俺は歌わない」と何度も言っている。
沙織は清六の隣を歩いていた。
「無理してない?」
小さな声で聞く。
「してない」
「ほんとに?」
「少しはしてるかもしれない」
「正直でよろしい」
沙織は軽く笑った。
清六も少し笑う。
沙織が隣にいると、昨日から続く不安が全部消えるわけではない。けれど、不安の形を一人で見つめ続けなくて済む。
「さっきの話」
沙織が前を向いたまま言った。
「ソラティアのこと、私もあとで少し調べてみる」
「いいの?」
「気になるし」
「でも、まだ何か分からない」
「だから調べるんでしょ」
沙織は当たり前のように言った。
その言い方に、清六は少し救われる。
怖いものを、怖いまま一緒に見てくれる人がいる。
「ありがとう」
「どういたしまして。まだ何も見つけてないけど」
「さっきも同じようなこと言ってた」
「聞いただけで感謝されたから」
「それは、聞いてくれたから」
「じゃあ、今度は調べたらまた感謝される予定」
「予定なんだ」
二人がそんな話をしていると、前を歩いていた健太が振り返った。
「何こそこそ話してんだよ」
「健太の歌う曲を予想してた」
沙織がすぐに答える。
「まじで? 当ててみろ」
「流行ってる曲を入れて、途中で高音が出なくなる」
康介が吹き出した。
「正解だな」
「まだ歌ってないだろ!」
健太の声が歩道に響く。
その明るさに、清六はつられて笑った。
その時だった。
風向きが変わり、油の匂いが流れてきた。
揚げ物の香ばしい匂い。
普通なら食欲を誘う匂いのはずだった。
けれど清六は、ほんの一瞬だけ足を止めた。
胸の奥が、かすかにざわついた。
油の匂いだけではない。
熱した金属のような、乾いた匂いがほんの少し混じっている気がした。
「清六くん?」
沙織が気づく。
「何でもない」
清六は歩き出した。
何でもない。
ただの揚げ物の匂いだ。
そう言い聞かせる。
通りの角を曲がると、赤と白の看板が見えた。
チキンハウス。
丸い文字で書かれた店名の横に、笑顔の鶏のイラストが描かれている。店先には開店祝いの花がまだいくつか残っていて、入口のガラスには「九州限定メニューあります」と大きく貼られていた。
ガラスの内側に貼られた新メニューのポスターには、湯気を上げるとり天の写真が大きく載っている。
その下の小さな文字が、清六の目に引っかかった。
本日限定。
数量限定。
まるで、誰かがこの時間に来るのを待っていたみたいだった。
表向きは、明るい新店舗だった。
清六は看板を見上げた。
胸のざわつきは、もう消えている。
気のせいだったのかもしれない。
「ここここ」
健太が先に入口へ向かう。
その時、沙織がふと裏口の方へ視線を向けた。
店の横の細い通路で、店員らしき男が銀色の箱を台車から下ろしていた。
箱は、業務用の保冷箱に似ている。
けれど妙に新しく、側面に貼られた白いラベルには、商品名らしきものが見えなかった。男は周囲を軽く見回し、急ぐように店の奥へ運び込む。
ラベルの端に、黒い文字が一瞬だけ見えた。
A/17。
清六がそれを読んだ時、箱を運んでいた男が顔を上げた。
男の視線が、清六の顔で止まる。
確認するような目だった。
男は箱を抱えたまま、店内へ向けて短く頷いた。
その仕草は、搬入の合図というより、誰かに到着を知らせる合図に見えた。
「どうしたの?」
清六が聞く。
沙織は少し眉を寄せたが、すぐに首を横に振った。
「ううん。搬入かなって思っただけ」
「飲食店だし、普通じゃない?」
「そうだね」
沙織はそう答えた。
ただ、その視線は一瞬だけ、店の奥へ向いたままだった。
***
店内は、外から見た印象よりもずっと明るかった。
赤と白を基調にした壁。天井から下がる丸い照明。カウンターの上には、揚げたてのチキンを写した大きなメニュー写真が並んでいる。スピーカーからは、軽いポップスが流れていた。
曲の途中で、音が一瞬だけざらついた。
すぐに元へ戻る。
そのノイズの奥に、電子音のような短い高音が混じった。
ピッ。
油の匂いは濃い。
けれど嫌な匂いではなかった。衣が揚がる香ばしさと、スパイスの甘い刺激が混ざっている。店内には学生や家族連れが何組か座っていて、笑い声も聞こえた。
照明は白いはずなのに、清六には店内全体がわずかに黄色く見えた。
普通の店だ。
清六はそう思おうとした。
「席、あそこ空いてる」
真理が窓際のテーブルを指差す。
五人は席についた。
健太はメニューを開くなり、目を輝かせた。
「うわ、セット多いな。全部うまそう」
「全部は食べないでよ」
真理が言う。
「分かってる。二つまでにする」
「分かってない」
康介はメニューを眺めながら、淡々と言った。
「揚げ物ばかりだな」
「チキンの店で何言ってんだ」
健太が笑う。
沙織もメニューを見ていたが、時々店内へ視線を向けていた。
清六はそれに気づいた。
「まだ気になる?」
「少し」
「箱?」
「うん。でも、ただの搬入かもしれない」
沙織は声を落とした。
「それより、清六くんは?」
「僕?」
「さっき、匂いがした時、少し止まった」
清六は返事に詰まった。
沙織は見ていた。
やはり、見逃さない。
「ちょっと、変な感じがしただけ」
「頭痛?」
「そこまでは」
「無理だったら、すぐ出よう」
「うん」
清六は頷いた。
その時、店の入口近くの席に座っていた男が、こちらを見た。
三十代くらいだろうか。
黒いジャケットを着て、まだ何も注文していないのか、テーブルには水のカップだけが置かれている。スマホを手に持っているが、画面を見ているというより、店内の様子を確認しているように見えた。
男のスマホ画面には、カメラの赤い点に似た光が一瞬だけ映っていた。
清六と目が合う前に、男は視線をそらした。
「清六くん」
沙織が小さく呼ぶ。
「今の人」
「うん」
「店の人じゃないよね」
「たぶん」
「ずっと入口の方にいる」
清六はもう一度見ようとしたが、健太の声が割り込んだ。
「なあ、注文決めた?」
「まだ」
「清六、こういう時めっちゃ遅いよな」
「本を選ぶ時よりは早いよ」
「いや、本選ぶ時は論外だろ」
健太がメニューをこちらへ向ける。
「これ、九州限定だって。とり天」
その文字が、清六の視界に入った。
九州名物。
とり天。
胸の奥で、何かが小さく動いた。
清六は瞬きをした。
メニューの他の文字が、少し遠くなる。
チキンセット。
ポテト。
ドリンク。
それらの文字はぼやけていくのに、「とり天」だけがやけに黒く、濃く、紙の上に浮かんで見えた。
油の匂いが濃くなる。
さっきよりも深い。
衣が油の中で泡立つ音が、カウンターの奥から聞こえてきた。普通なら聞き取れないはずの細かな音まで、耳の奥に入り込んでくる。
こめかみが脈打った。
一度。
二度。
清六はメニューを持つ指に力を入れた。
紙がわずかに曲がる。
「清六くん?」
沙織の声が近くで聞こえた。
けれど、少し遠い。
水の中で呼ばれているようだった。
清六は口を開いた。
まだ何を注文するか、決めていない。
決めていないはずだった。
それなのに、自分の口が先に動くのを感じた。
「僕、とり天にする」
カウンター奥で、店員の指が小さな端末に触れた。
ピッ、と短い電子音が鳴った。
清六には見えなかった。
端末の小さな画面に、短い文字が点いたことを。
反応待機。


