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第3章 第1話:まだ、早い

夕方の天野書房は、いつものように灯りがついていた。

商店街の人通りは、昼より少し落ち着いている。買い物帰りの人がビニール袋を下げて歩き、古い喫茶店の前には、常連らしい老人が二人立ち話をしていた。向かいの惣菜屋からは、揚げ物の匂いが流れてくる。

清六はその匂いに、思わず足を止めた。

胸の奥が固くなる。

昼間のチキンハウス。

油の音。

金色に揺れる視界。

自分の意思を置き去りにして動いた手。

清六は右手を見た。

もう油の熱は残っていない。粉もついていない。指先も、見た目にはいつも通りだった。

それでも、あの感覚は消えていない。

包丁を握った重さ。

鶏肉の繊維を切る抵抗。

油から引き上げた瞬間の湯気。

知らないはずの感覚が、自分の手の奥に残っている。

清六は手を握り込んだ。

天野書房の引き戸の前に立つ。

木の看板には、夕方の光が斜めに当たっていた。古びた文字。少し傾いた百円均一の札。店内から漏れる黄色い光。どれも見慣れたものだった。

ここに帰れば大丈夫だと、ずっと思っていた。

自分の過去が分からなくても、この店に積み重ねてきた時間だけは確かだと信じていた。

でも今は、その確かさの奥に、知らないものが隠れている気がする。

清六は引き戸に手をかけた。

古い鈴が、かろん、と鳴る。

「ただいま」

声は思ったより小さくなった。

店内には、古書の匂いと、低く流れるクラシック音楽があった。棚の間には夕方の影が伸び、奥のカウンターだけが柔らかく照らされている。

誠司は棚の前で本を整理していた。

背表紙の高さをそろえ、古い文庫を一冊ずつ丁寧に戻している。清六が幼い頃から見慣れた動作だった。

ただ、誠司の視線は時々、店の外へ流れていた。

向かいの路肩には、昨日と同じ黒い車が停まっている。

清六がそれに気づいた瞬間、誠司は何事もなかったように棚へ目を戻した。

「おかえり」

誠司が振り返る。

いつもの穏やかな声。

いつもの顔。

清六は、それに少しだけ安心した。

安心してしまったことに、胸が痛んだ。

「今日は、早かったんだね」

誠司が言う。

「うん」

清六は靴を脱ぎながら答えた。

沙織は一緒に来ると言ってくれた。

けれど清六は、一度は自分で話すと伝えた。父さんに話すことだから、と言った時、沙織は少し迷った顔をしたが、最後には頷いてくれた。

一人で抱え込まないで。

その言葉だけを残して。

「父さん」

清六は店の奥へ進んだ。

誠司の手が、本の背表紙の上で止まる。

「少し、話があるんだ」

誠司は清六を見た。

その目に、心配が浮かぶ。

それは本物に見えた。

「何があった」

問い方が早かった。

清六はそれに気づいた。

まるで、何かが起こることを予想していたみたいだった。

「今日、チキンハウスって店に行った」

「チキンハウス?」

「大学の近くにできた店。友だちと、沙織と一緒に」

誠司は黙って聞いている。

清六は自分の手を見た。

右手。

左手。

「そこで、変なことが起きた」

言葉にするのは難しかった。

体が勝手に動いた。

そう言えば簡単だ。

でも、その簡単な言葉では、あの恐怖を伝えられない。

自分の中に、自分ではない命令が流れ込んできたこと。

知らないはずの厨房の配置が分かったこと。

油の温度や衣の状態が、見なくても分かったこと。

自分の手が、迷いなく料理を完成させたこと。

そして、その間ずっと、自分は内側から見ているだけだったこと。

清六は、できるだけ順番に話した。

メニューの「とり天」という文字を見た瞬間、こめかみが痛んだこと。

身体が立ち上がり、厨房へ向かったこと。

店員に止められても止まれなかったこと。

包丁を握り、とり天を作ったこと。

料理は異常なほど美味しくできたらしいこと。

沙織も、健太たちも、店の人も見ていたこと。

話している間、誠司は一度も遮らなかった。

ただ、「とり天」という言葉を出した時、彼の指が本の角を強く押さえた。

古い文庫の表紙が、わずかにたわむ。

清六はそれを見逃さなかった。

「父さん」

「……それは」

誠司は言いかけた。

けれど、続かなかった。

彼は手の中の本を棚へ戻そうとした。背表紙は少し曲がって入った。いつもの誠司なら、必ず直す。けれど今は、そのまま手を離した。

「本当に、君がやったのか」

「僕にも分からない」

清六は正直に言った。

「でも、僕の身体がやったのは確かだと思う」

店内に沈黙が落ちた。

クラシック音楽だけが、低く流れている。

清六はその音が急に遠く感じた。

誠司はゆっくり息を吐いた。

「疲れているんじゃないか」

清六は顔を上げた。

誠司の声は穏やかだった。

あまりにも穏やかだった。

「昨日から、眠れていないんだろう。電話のこともあった。大学も忙しい。そういう時は、身体が思わぬ反応をすることもある」

「父さん」

「まずは、休んだ方がいい」

「違う」

清六の声が、自分でも驚くくらい強く出た。

誠司が黙る。

清六はすぐに後悔した。

怒鳴りたいわけではなかった。

責めたいわけでもない。

ただ、今の言葉で片づけられたくなかった。

「ごめん」

清六は小さく言った。

「でも、疲れとか、寝不足とか、そういう感じじゃなかった。僕、見てるだけだったんだ。自分の身体なのに」

誠司の表情がかすかに歪んだ。

痛みをこらえるような顔だった。

清六はその顔に、また傷ついた。

父さんは、やっぱり何か知っている。

そう思いたくないのに、そう見えてしまう。

「ソラティア研究所」

清六は言った。

誠司の目が、一瞬だけ止まる。

「昨日、僕のスマホに電話があった。父さんにも話したかったけど、言えなかった」

「清六」

「電話では、僕の名前を聞かれた。名乗ったら、相手が少し黙って、それから言ったんだ」

清六は息を吸った。

「プロトコル実行の時期です、って」

誠司の顔から、血の気が引いた。

ほんの一瞬だった。

でも、見間違いではなかった。

「それから、由布さん」

清六は続けた。

「父さん、昨日その人と話してたよね」

誠司は答えなかった。

沈黙。

それだけで、清六の胸の奥が冷えていく。

「『彼にはまだ言わないでください』って聞こえた」

「……聞いていたのか」

誠司の声は低かった。

責める声ではない。

けれど、いつもの父の声でもなかった。

「聞こえたんだ」

清六は言った。

「聞こうとしたわけじゃない。でも、聞こえた」

誠司はカウンターの方へ視線を落とした。

そこには古いレジと、今日の売上を記した紙がある。何でもない日常の道具たちが並んでいる。

その前で、誠司は長い間黙っていた。

「由布さんは」

ようやく口を開く。

「昔の仕事の関係者だ」

「本の仕入れ?」

清六が聞くと、誠司はすぐには答えなかった。

「……古い知り合いだ」

「ソラティア研究所も?」

「直接、関係があるわけじゃない」

言葉が少しずつ短くなっていく。

清六は、それを聞きながら、体の奥が冷えていくのを感じた。

嘘だ。

そう言い切る勇気はなかった。

でも、本当だとも思えなかった。

「今日のことと、関係ある気がするんだ」

清六は言った。

「とり天を見た時、プロトコルって言葉を聞いた時と似た痛みがした。ソラティアって名前を見た時もそうだった。偶然だと思えない」

誠司は目を閉じた。

「清六」

「知ってるなら、教えて」

声が震えた。

「僕に何が起きてるのか、少しでも知ってるなら」

誠司は目を開けた。

そこには、清六を心配する父の目があった。

同時に、何かを隠そうとしている人の目でもあった。

「今は、話せない」

清六は息を止めた。

知らない、とは言わなかった。

関係ない、とも言わなかった。

今は、話せない。

その言葉だけで十分だった。

「今は?」

清六が聞き返す。

誠司の口元がわずかに動いた。

「君を危険にさらしたくない」

誠司の視線が、一瞬だけ清六のスマホへ落ちた。

ポケットから覗く画面は暗い。

それでも、何かを確かめるような目だった。

「もう危険なんじゃないの」

言った瞬間、誠司の表情が崩れかけた。

それを見て、清六の胸も痛んだ。

こんな顔をさせたいわけじゃない。

でも、自分が何者なのかも分からないまま、黙っていることはできなかった。

「父さん」

清六は声を落とした。

「僕、怖いんだ」

誠司の手が、カウンターの端を握った。

「自分の手が、勝手に動いた。僕の知らないことを、僕の身体が知ってた。あれがまた起きたら、僕は止められない」

清六は右手を見た。

「それでも、何も話せない?」

誠司は答えなかった。

清六は、その沈黙で十分傷ついた。

「……分かった」

分かっていない。

少しも分かっていない。

でも、これ以上ここに立っていたら、父を責める言葉が出てしまいそうだった。

それは嫌だった。

清六は階段の方へ向かった。

「清六」

背後で誠司が呼んだ。

清六は足を止めた。

「私は」

誠司の声が続く。

「君を守りたいだけなんだ」

清六は振り返らなかった。

その言葉が本当だと分かるから、余計に苦しかった。

「うん」

清六は答えた。

「でも、守られてるのか、隠されてるのか、今は分からない」

誠司は何も言わなかった。

清六は階段を上った。

一段ごとに、古い木が小さく軋む。

子どもの頃から知っている音。

家の音。

それなのに今は、知らない場所へ上っているように感じた。

踊り場まで来た時、階下でスマホの着信音が鳴った。

清六は足を止める。

誠司が電話に出る気配がした。

声は低い。

ほとんど聞き取れない。

清六は聞くべきではないと思った。

でも、体が動かなかった。

「……ええ」

誠司の声。

間が空く。

「分かっています」

また、沈黙。

受話口の向こうから、かすかな声が漏れた。

「……報告は受けています」

清六は手すりを握った。

「まだ、早い」

沈黙の向こうで、相手の声がもう一度揺れた。

「では、予定は」

誠司は、答えなかった。

その一言だけが、はっきり聞こえた。

清六の背中に、冷たいものが走る。

まだ。

早い。

何を。

誰に。

言うのが。

清六は階段の暗がりで立ち尽くした。

その一言だけで、誠司が何も知らないわけではないと分かってしまった。

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