夕方の天野書房は、いつものように灯りがついていた。
商店街の人通りは、昼より少し落ち着いている。買い物帰りの人がビニール袋を下げて歩き、古い喫茶店の前には、常連らしい老人が二人立ち話をしていた。向かいの惣菜屋からは、揚げ物の匂いが流れてくる。
清六はその匂いに、思わず足を止めた。
胸の奥が固くなる。
昼間のチキンハウス。
油の音。
金色に揺れる視界。
自分の意思を置き去りにして動いた手。
清六は右手を見た。
もう油の熱は残っていない。粉もついていない。指先も、見た目にはいつも通りだった。
それでも、あの感覚は消えていない。
包丁を握った重さ。
鶏肉の繊維を切る抵抗。
油から引き上げた瞬間の湯気。
知らないはずの感覚が、自分の手の奥に残っている。
清六は手を握り込んだ。
天野書房の引き戸の前に立つ。
木の看板には、夕方の光が斜めに当たっていた。古びた文字。少し傾いた百円均一の札。店内から漏れる黄色い光。どれも見慣れたものだった。
ここに帰れば大丈夫だと、ずっと思っていた。
自分の過去が分からなくても、この店に積み重ねてきた時間だけは確かだと信じていた。
でも今は、その確かさの奥に、知らないものが隠れている気がする。
清六は引き戸に手をかけた。
古い鈴が、かろん、と鳴る。
「ただいま」
声は思ったより小さくなった。
店内には、古書の匂いと、低く流れるクラシック音楽があった。棚の間には夕方の影が伸び、奥のカウンターだけが柔らかく照らされている。
誠司は棚の前で本を整理していた。
背表紙の高さをそろえ、古い文庫を一冊ずつ丁寧に戻している。清六が幼い頃から見慣れた動作だった。
ただ、誠司の視線は時々、店の外へ流れていた。
向かいの路肩には、昨日と同じ黒い車が停まっている。
清六がそれに気づいた瞬間、誠司は何事もなかったように棚へ目を戻した。
「おかえり」
誠司が振り返る。
いつもの穏やかな声。
いつもの顔。
清六は、それに少しだけ安心した。
安心してしまったことに、胸が痛んだ。
「今日は、早かったんだね」
誠司が言う。
「うん」
清六は靴を脱ぎながら答えた。
沙織は一緒に来ると言ってくれた。
けれど清六は、一度は自分で話すと伝えた。父さんに話すことだから、と言った時、沙織は少し迷った顔をしたが、最後には頷いてくれた。
一人で抱え込まないで。
その言葉だけを残して。
「父さん」
清六は店の奥へ進んだ。
誠司の手が、本の背表紙の上で止まる。
「少し、話があるんだ」
誠司は清六を見た。
その目に、心配が浮かぶ。
それは本物に見えた。
「何があった」
問い方が早かった。
清六はそれに気づいた。
まるで、何かが起こることを予想していたみたいだった。
「今日、チキンハウスって店に行った」
「チキンハウス?」
「大学の近くにできた店。友だちと、沙織と一緒に」
誠司は黙って聞いている。
清六は自分の手を見た。
右手。
左手。
「そこで、変なことが起きた」
言葉にするのは難しかった。
体が勝手に動いた。
そう言えば簡単だ。
でも、その簡単な言葉では、あの恐怖を伝えられない。
自分の中に、自分ではない命令が流れ込んできたこと。
知らないはずの厨房の配置が分かったこと。
油の温度や衣の状態が、見なくても分かったこと。
自分の手が、迷いなく料理を完成させたこと。
そして、その間ずっと、自分は内側から見ているだけだったこと。
清六は、できるだけ順番に話した。
メニューの「とり天」という文字を見た瞬間、こめかみが痛んだこと。
身体が立ち上がり、厨房へ向かったこと。
店員に止められても止まれなかったこと。
包丁を握り、とり天を作ったこと。
料理は異常なほど美味しくできたらしいこと。
沙織も、健太たちも、店の人も見ていたこと。
話している間、誠司は一度も遮らなかった。
ただ、「とり天」という言葉を出した時、彼の指が本の角を強く押さえた。
古い文庫の表紙が、わずかにたわむ。
清六はそれを見逃さなかった。
「父さん」
「……それは」
誠司は言いかけた。
けれど、続かなかった。
彼は手の中の本を棚へ戻そうとした。背表紙は少し曲がって入った。いつもの誠司なら、必ず直す。けれど今は、そのまま手を離した。
「本当に、君がやったのか」
「僕にも分からない」
清六は正直に言った。
「でも、僕の身体がやったのは確かだと思う」
店内に沈黙が落ちた。
クラシック音楽だけが、低く流れている。
清六はその音が急に遠く感じた。
誠司はゆっくり息を吐いた。
「疲れているんじゃないか」
清六は顔を上げた。
誠司の声は穏やかだった。
あまりにも穏やかだった。
「昨日から、眠れていないんだろう。電話のこともあった。大学も忙しい。そういう時は、身体が思わぬ反応をすることもある」
「父さん」
「まずは、休んだ方がいい」
「違う」
清六の声が、自分でも驚くくらい強く出た。
誠司が黙る。
清六はすぐに後悔した。
怒鳴りたいわけではなかった。
責めたいわけでもない。
ただ、今の言葉で片づけられたくなかった。
「ごめん」
清六は小さく言った。
「でも、疲れとか、寝不足とか、そういう感じじゃなかった。僕、見てるだけだったんだ。自分の身体なのに」
誠司の表情がかすかに歪んだ。
痛みをこらえるような顔だった。
清六はその顔に、また傷ついた。
父さんは、やっぱり何か知っている。
そう思いたくないのに、そう見えてしまう。
「ソラティア研究所」
清六は言った。
誠司の目が、一瞬だけ止まる。
「昨日、僕のスマホに電話があった。父さんにも話したかったけど、言えなかった」
「清六」
「電話では、僕の名前を聞かれた。名乗ったら、相手が少し黙って、それから言ったんだ」
清六は息を吸った。
「プロトコル実行の時期です、って」
誠司の顔から、血の気が引いた。
ほんの一瞬だった。
でも、見間違いではなかった。
「それから、由布さん」
清六は続けた。
「父さん、昨日その人と話してたよね」
誠司は答えなかった。
沈黙。
それだけで、清六の胸の奥が冷えていく。
「『彼にはまだ言わないでください』って聞こえた」
「……聞いていたのか」
誠司の声は低かった。
責める声ではない。
けれど、いつもの父の声でもなかった。
「聞こえたんだ」
清六は言った。
「聞こうとしたわけじゃない。でも、聞こえた」
誠司はカウンターの方へ視線を落とした。
そこには古いレジと、今日の売上を記した紙がある。何でもない日常の道具たちが並んでいる。
その前で、誠司は長い間黙っていた。
「由布さんは」
ようやく口を開く。
「昔の仕事の関係者だ」
「本の仕入れ?」
清六が聞くと、誠司はすぐには答えなかった。
「……古い知り合いだ」
「ソラティア研究所も?」
「直接、関係があるわけじゃない」
言葉が少しずつ短くなっていく。
清六は、それを聞きながら、体の奥が冷えていくのを感じた。
嘘だ。
そう言い切る勇気はなかった。
でも、本当だとも思えなかった。
「今日のことと、関係ある気がするんだ」
清六は言った。
「とり天を見た時、プロトコルって言葉を聞いた時と似た痛みがした。ソラティアって名前を見た時もそうだった。偶然だと思えない」
誠司は目を閉じた。
「清六」
「知ってるなら、教えて」
声が震えた。
「僕に何が起きてるのか、少しでも知ってるなら」
誠司は目を開けた。
そこには、清六を心配する父の目があった。
同時に、何かを隠そうとしている人の目でもあった。
「今は、話せない」
清六は息を止めた。
知らない、とは言わなかった。
関係ない、とも言わなかった。
今は、話せない。
その言葉だけで十分だった。
「今は?」
清六が聞き返す。
誠司の口元がわずかに動いた。
「君を危険にさらしたくない」
誠司の視線が、一瞬だけ清六のスマホへ落ちた。
ポケットから覗く画面は暗い。
それでも、何かを確かめるような目だった。
「もう危険なんじゃないの」
言った瞬間、誠司の表情が崩れかけた。
それを見て、清六の胸も痛んだ。
こんな顔をさせたいわけじゃない。
でも、自分が何者なのかも分からないまま、黙っていることはできなかった。
「父さん」
清六は声を落とした。
「僕、怖いんだ」
誠司の手が、カウンターの端を握った。
「自分の手が、勝手に動いた。僕の知らないことを、僕の身体が知ってた。あれがまた起きたら、僕は止められない」
清六は右手を見た。
「それでも、何も話せない?」
誠司は答えなかった。
清六は、その沈黙で十分傷ついた。
「……分かった」
分かっていない。
少しも分かっていない。
でも、これ以上ここに立っていたら、父を責める言葉が出てしまいそうだった。
それは嫌だった。
清六は階段の方へ向かった。
「清六」
背後で誠司が呼んだ。
清六は足を止めた。
「私は」
誠司の声が続く。
「君を守りたいだけなんだ」
清六は振り返らなかった。
その言葉が本当だと分かるから、余計に苦しかった。
「うん」
清六は答えた。
「でも、守られてるのか、隠されてるのか、今は分からない」
誠司は何も言わなかった。
清六は階段を上った。
一段ごとに、古い木が小さく軋む。
子どもの頃から知っている音。
家の音。
それなのに今は、知らない場所へ上っているように感じた。
踊り場まで来た時、階下でスマホの着信音が鳴った。
清六は足を止める。
誠司が電話に出る気配がした。
声は低い。
ほとんど聞き取れない。
清六は聞くべきではないと思った。
でも、体が動かなかった。
「……ええ」
誠司の声。
間が空く。
「分かっています」
また、沈黙。
受話口の向こうから、かすかな声が漏れた。
「……報告は受けています」
清六は手すりを握った。
「まだ、早い」
沈黙の向こうで、相手の声がもう一度揺れた。
「では、予定は」
誠司は、答えなかった。
その一言だけが、はっきり聞こえた。
清六の背中に、冷たいものが走る。
まだ。
早い。
何を。
誰に。
言うのが。
清六は階段の暗がりで立ち尽くした。
その一言だけで、誠司が何も知らないわけではないと分かってしまった。


