部屋に戻ってからも、清六はしばらく明かりをつけられなかった。
階段の下で聞いた誠司の声が、耳の奥に残っている
まだ、早い。
たった四文字の言葉だった。
それなのに、その一言は、清六の中で何度も形を変えた。
まだ、清六には早い。
まだ、真実を話すには早い。
まだ、何かが始まるには早い。
どれが正しいのか分からない。けれど、どれも清六に関係している気がした。
机の上には、昨日から使っているノートが置かれている。
由布。
ソラティア研究所。
プロトコル実行。
そこに、もう一つ言葉を足すべきなのかもしれない。
まだ、早い。
清六はペンを手に取ったが、書けなかった。
書いてしまえば、父の言葉まで証拠にしてしまうような気がした。誠司を疑うための材料を、自分で増やしているような気がした。
清六はペンを置いた。
階下から、店を閉める音が聞こえる。
棚を整える音。
引き戸の鍵をかける音。
レジの小さな金属音。
それらはすべて、昔から知っている夜の音だった。清六が小学生の頃、布団の中で聞いていた音。高校生の頃、試験勉強をしながら聞いていた音。大学に入ってからも、遅くまで本を読んでいる時に耳にしていた音。
家の音。
父の音。
でも今は、その一つひとつが何かを隠す音にも聞こえた。
清六はベッドに横になった。
目を閉じる。
眠れる気はしなかった。
それでも身体は疲れていた。昼間のチキンハウスで、何かを使い果たしたような重さが残っている。自分で動いたわけではないのに、身体だけが遠くまで走ってきたみたいだった。
意識が浅く沈んでいく。
遠くで、油の弾ける音がした。
違う。
それは、機械の音だった。
一定の間隔で鳴る電子音。
白い光。
消毒液の匂い。
金属の冷たさ。
清六は、薄暗い部屋に立っていた。
いや、立っているのかどうかも分からない。足元の感覚がない。視界だけが、ぼんやりと前へ開いている。
壁一面に、モニターが並んでいた。
細胞が分裂する映像。
見たことのない化学式。
人間の横顔。
体温、脈拍、血中濃度らしき数字。
どれも意味は分からない。
なのに、どこかで見たことがある。
モニターの一つに、料理の写真が映った。
白い皿。
湯気。
黄金色の衣。
次の瞬間、画面は切り替わる。
赤い文字。
FCT。
その下に、別の文字列が一瞬だけ走った。
SEIJI AMANO。
清六が意味を掴む前に、画面はまた乱れた。
清六は息をしようとした。
できない。
体がない。
声も出ない。
背後から、誰かの声がした。
「天野清六」
清六は振り返ろうとする。
視界が動かない。
白衣の男が、モニターの光の中に立っていた。顔は霧がかかったようにぼやけている。眼鏡の反射だけが、白く光っていた。
「プロトコル実行、準備完了」
その言葉に、こめかみの奥が脈打つ。
夢の中なのに、痛みだけがはっきりしている。
モニターの映像が、一斉に変わった。
ソラティア研究所。
その文字が、中央の画面に浮かぶ。
下に、赤い文字が重なる。
遺伝子活性化プロトコル。
清六は叫ぼうとした。
これは何だ。
僕に何をした。
父さんは知っているのか。
声は出ない。
代わりに、右手が勝手に動く感覚だけがあった。
包丁を握る手。
油の温度を読む手。
自分の知らない技術で動く手。
夢の中で、その手が自分のものではなくなっていく。
白い光が強くなる。
モニターの数字が崩れ、すべてが金色に滲んだ。
清六はようやく声を出した。
その瞬間、目が覚めた。
***
朝の部屋は、静かだった。
清六はベッドの上で息を荒げていた。額に汗が浮いている。手はシーツを強く握っていた。
右手。
左手。
どちらも、ちゃんと自分のものだった。
清六はゆっくり指を開く。
けれど、手の奥にはまだ、夢の感覚が残っていた。
白い部屋。
モニター。
ソラティア研究所。
遺伝子活性化プロトコル。
夢だ。
そう言い聞かせる。
ただの夢だ。
それでも、ただの夢なら、なぜ知らないはずの言葉が出てくるのか。
清六は机へ向かった。
ノートを開く。
昨夜書けなかった言葉の下に、新しい文字を書いた。
書こうとする前に、右手がわずかに動いた。
ペン先が、紙の上で勝手に滑りかける。
清六は左手で右手首を押さえた。
遺伝子活性化プロトコル。
書き終えた瞬間、背中が冷たくなる。
まるで、自分が知らない言葉を、自分の手が先に知っていたようだった。
***
朝食の席で、誠司は新聞を広げていた。
台所には、焼いたパンの匂いとコーヒーの匂いが混じっている。いつも通りの朝だった。食卓にはサラダとゆで卵が並び、カップの中のスープから湯気が立っている。
清六が席につくと、新聞の端がわずかに動いた。
誠司は顔を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
清六は椅子に座った。
昨夜のことを聞くべきか。
まだ、早い。
あれは誰に言ったのか。
そう聞けばいい。
でも、清六の口は動かなかった。
誠司も、昨夜の会話には触れなかった。
沈黙の中で、スプーンがカップに触れる小さな音だけが響く。
「今日は」
誠司が先に口を開いた。
「大学かい」
「うん」
清六は少し遅れて答えた。
「講義のあと、図書館で調べものをする」
調べもの。
それは嘘ではない。
けれど、何を調べるのかは言わなかった。
誠司はしばらく清六を見ていた。
「無理はしないように」
「うん」
「昨日のこともある」
清六の手が止まる。
誠司は何かを言いかけた。
口元が動く。
けれど、その言葉は出てこなかった。
代わりに、彼は新聞を畳んだ。
「遅くなるなら、連絡してくれ」
いつもの言葉。
けれど今朝は、そのいつもの言葉が、清六の胸に引っかかった。
「分かった」
清六はそう答えるしかなかった。
***
家を出ると、初夏の日差しが福岡の街を明るく照らしていた。
商店街では、店主たちが開店の準備をしている。昨日と同じ道。昨日と同じ空。昨日と同じ人の声。
なのに、清六の中だけが違っていた。
歩きながら、スマホを開く。
検索欄に「ソラティア研究所」と入れる。
昨日と同じように、関係のなさそうな結果が並んだ。
清六は検索語を変えた。
ソラティア 大分。
ソラティア 食品技術。
ソラティア 別府。
何度か画面を更新する。
検索結果の下の方に、短い記述が出た。
大分県食品技術研究所、通称ソラティア。別府市郊外に所在。
清六は足を止めた。
今度は、すぐにスクリーンショットを撮った。
大分。
別府。
そこにある。
ソラティアは、名前だけの存在ではなかった。
ただし、結果はそれだけだった。
数秒後、画面が勝手に再読み込みされた。
同じ検索語なのに、その記述は検索結果から消えている。
公式サイトは見つからない。
所在地の詳細もない。
研究内容も、沿革も、問い合わせ先も、ほとんど出てこない。
あるのに、ない。
清六は画面を見つめた。
昨夜の夢の文字が、頭の奥で重なる。
遺伝子活性化プロトコル。
食品技術研究所。
その二つが、どうつながるのか分からない。
分からないのに、無関係だとは思えなかった。
清六は沙織へメッセージを送った。
ソラティア、大分にあるかもしれない。
すぐに返信が来た。
大学で会える? 中庭にいる。
清六は短く返した。
行く。
***
西福大学の中庭では、沙織が先に待っていた。
ベンチの横に立ち、スマホを片手に持っている。清六を見つけると、すぐに歩み寄ってきた。
「清六くん」
その声には、朝の挨拶より先に心配があった。
「顔色、悪い」
「夢を見た」
清六は言った。
自分でも、いきなりすぎると思った。
でも、今はそこから話すしかなかった。
沙織は何も言わず、近くのベンチを示した。
二人は人の少ない場所に座った。
清六は、昨夜のことから話した。
誠司が電話で「まだ、早い」と言っていたこと。
そのあと眠れなかったこと。
夢の中で白い部屋とモニターを見たこと。
ソラティア研究所という文字。
遺伝子活性化プロトコルという赤い文字。
そして、目覚めてもその言葉がはっきり残っていたこと。
沙織は途中で口を挟まなかった。
ただ、清六が「遺伝子活性化」と言った時だけ、わずかに眉を動かした。
話し終えると、しばらく風の音だけが聞こえた。
中庭の木々が揺れ、葉の影がベンチに落ちている。
「夢は」
沙織がゆっくり言った。
「そのまま事実とは言えないと思う」
清六は頷いた。
「うん」
「でも、清六くんが知らないはずの言葉を、夢で見たっていうのは、無視できない」
「僕も、そう思う」
沙織はスマホを見せた。
清六が送った検索結果を、彼女も開いている。
「大分県食品技術研究所、通称ソラティア。別府市郊外に所在」
その短い文章を、沙織は声に出して読んだ。
「これだけ?」
「うん。詳しい情報が出てこない」
「普通の研究施設なら、もう少し何か出るよね。所在地、沿革、研究内容、採用情報、イベント情報。全部じゃなくても、どれかは」
沙織の声は冷静だった。
清六の代わりに、情報を一つずつ机の上へ並べてくれるような声だった。
「情報が少なすぎること自体が、情報かもしれない」
清六は沙織を見た。
「隠されてるってこと?」
「そこまでは分からない」
沙織はすぐに断定しなかった。
「でも、名前だけ残っていて中身が見えないのは変。少なくとも、普通に広報している施設とは違う」
清六はスマホの画面を見た。
大分県食品技術研究所。
通称ソラティア。
別府市郊外。
たったそれだけの文字が、急に遠い場所への入口のように見える。
「大分」
清六は呟いた。
沙織が小さく頷く。
「行くって決めるには早いと思う」
「うん」
「でも、調べる必要はある」
その言葉に、清六は少しだけ息を吐いた。
沙織は、行こうとも、やめようとも言わない。
ただ、必要なことを必要なこととして置いてくれる。
それがありがたかった。
「カフェテリアで、情報を書き出そう」
沙織が言った。
「スマホだけだと流れちゃうから」
「うん」
二人は中庭を出て、カフェテリアへ向かった。
***
昼前のカフェテリアは、まだ席に余裕があった。
窓際では数人の学生が早めの昼食を取っている。奥の方では、サークルの打ち合わせらしい集まりがノートパソコンを囲んでいた。食器の音と話し声が、広い空間の中で柔らかく混ざっている。
清六と沙織は、壁際の二人席に座った。
沙織はノートを開き、ペンを持った。
「まず、確定していること」
「確定」
清六はその言葉を繰り返した。
沙織は頷く。
「夢とか推測と、実際に起きたことを分けよう」
沙織はノートに線を引いた。
左に、事実。
右に、未確認。
少し考えて、さらに下にもう一つ欄を作る。
消えた情報。
事実の欄に、彼女は書く。
ソラティア研究所から着信。
プロトコル実行と言われた。
チキンハウスで身体が勝手に動いた。
誠司が由布という人物と通話。
誠司が「まだ、早い」と発言。
検索結果: 大分県食品技術研究所、通称ソラティア。別府市郊外に所在。
消えた情報の欄には、同じ言葉をもう一度書いた。
大分県食品技術研究所、通称ソラティア。別府市郊外に所在。
未確認の欄には、少し間を置いて書いた。
遺伝子活性化プロトコル。
FCT。
夢の研究所。
由布の正体。
誠司が知っていること。
文字になって並ぶと、清六の中の混乱が少しだけ形を持った。
怖さが消えたわけではない。
でも、見えないものを見えないまま抱えているよりは、ずっとましだった。
「こうして見ると」
沙織はノートを見下ろした。
「やっぱり、ソラティアだけが全部につながってる」
清六は頷いた。
その時だった。
視線を感じた。
清六は顔を上げる。
隣のテーブルに、一人の女性が座っていた。
三十歳前後だろうか。肩までのボブヘア。落ち着いた色のジャケット。テーブルの上にはノートと、小型の録音機のようなものが置かれている。
女性は清六たちと目が合うと、一瞬だけ迷ったように視線を伏せた。
そして、手元のノートを静かに閉じた。
同時に、机の上の小さな録音機の赤いランプが消えた。
沙織の目が、細くなる。


