女性はノートを閉じたまま、しばらく動かなかった。
カフェテリアのざわめきが、二人の席の周囲だけ少し遠くなる。
清六は、沙織のノートへ視線を落とした。
事実。
未確認。
そこに並んだ言葉は、どれも今の清六にとって軽く扱えないものばかりだった。
ソラティア研究所。
プロトコル実行。
由布。
遺伝子活性化プロトコル。
その言葉を、隣の席の女性は聞いていたのかもしれない。
聞かれて困ることを話していた自覚はある。
けれど、隠れて聞かれていたのだとしたら、それはまた別の怖さだった。
沙織が先に動いた。
彼女はノートを閉じず、ペンを置いただけで、隣の女性へ顔を向ける。
「すみません」
声は柔らかかった。
でも、逃がさない響きがあった。
「今の話、聞こえていましたか」
女性は一瞬だけ目を伏せた。
それから、静かに顔を上げる。
「聞くつもりはありませんでした」
穏やかな声だった。
低すぎず、高すぎず、言葉を選びながら話している声。
「ただ、聞き流せない名前が出たので」
「ソラティア研究所ですか」
沙織が聞いた。
女性の指が、閉じたノートの表紙を軽く押さえた。
「はい」
清六は黙って女性を見た。
三十歳前後。肩までのボブヘア。派手ではないが、きちんと整った服装。テーブルの上にはノート、小型の録音機、薄いファイルが置かれている。
学生ではない。
大学の職員にも見えない。
女性は清六の視線に気づき、バッグから名刺入れを取り出した。
「突然すみません。春日凪子といいます」
名刺がテーブルの上に置かれる。
春日凪子。
食品・文化ジャーナリスト。
清六は名刺を見た。
ジャーナリスト。
その言葉だけで、少し身構えた。
自分の身に起きたことを、誰かの記事の材料にされるかもしれない。そう考えるだけで、背中が固くなる。
沙織もすぐには名刺を取らなかった。
「食品と文化、ですか」
「はい。郷土料理、食文化、地域産業の取材が中心です」
凪子は清六と沙織の間に視線を置いた。
「今は大分の食文化について調べています」
大分。
清六の胸が小さく反応する。
沙織がそれを見て、少しだけ姿勢を正した。
「どうして、ソラティア研究所の名前に反応したんですか」
凪子はすぐには答えなかった。
その間は、作られた沈黙には見えなかった。どこまで言うべきかを測っている沈黙だった。
「大分の郷土料理を取材している中で、何度かその名前に行き当たりました」
「郷土料理と研究所が、どうつながるんですか」
沙織の問いは穏やかだが、まっすぐだった。
凪子は少しだけ口元を引き結んだ。
「とり天です」
その言葉を聞いた瞬間、清六の右手がわずかに動いた。
無意識だった。
指先が、テーブルの縁を押さえる。
凪子の目が、そこへ一瞬だけ向いた。
彼女は気づいた。
しかし、すぐには踏み込まなかった。
「大分のとり天を取材していました。店ごとの違い、家庭料理としての歴史、観光資源としての扱われ方。最初は普通の食文化の記事のつもりでした」
清六は自分の手を膝の上へ下ろした。
「でも、違ったんですか」
「違う、というより、途中で妙な名前が出てきました」
「ソラティア」
沙織が言う。
凪子は頷いた。
「表向きは食品技術の研究施設です。大分県食品技術研究所、通称ソラティア。けれど、公開されている情報が少なすぎる」
沙織のノートに書かれた言葉と同じだった。
清六は息を飲む。
凪子は続ける。
「普通、地域の食品技術研究所なら、研究成果、イベント、企業連携、講習会、そういった情報が残ります。少なくとも、完全に見えないということは少ない」
「でも、ソラティアは違う」
「名前だけが残っている。けれど、中身へ近づこうとすると、急に情報が薄くなる」
凪子の声は、恐怖を煽るものではなかった。
むしろ淡々としている。
だからこそ、清六にはその言葉が重く聞こえた。
沙織が名刺を手に取る。
「春日さんは、私たちに何を求めているんですか」
凪子は沙織を見た。
質問したのが清六ではなく沙織だったことを、少し意外に思ったようだった。
けれどすぐに表情を戻す。
「正直に言えば、私も知りたいんです。ソラティアが何をしているのか」
「私たちを取材したい、ということですか」
「それも、選択肢の一つではあります」
清六の身体がこわばる。
凪子はそれに気づいたように、すぐ首を横に振った。
「ただし、今ここで何かを記事にするつもりはありません。あなたたちが何者なのかも、何に巻き込まれているのかも、私はまだ知りません」
「じゃあ、なぜ声をかけたんですか」
沙織がさらに聞く。
凪子はテーブルの上の録音機へ視線を落とした。
電源は入っていない。
そのことを示すように、彼女は録音機を少し横へずらした。
「ソラティアを調べていた人が、何人か途中で取材をやめています」
清六は顔を上げた。
「やめた?」
「はい。地元紙の記者、フリーライター、食関連のブロガー。全員ではありません。でも、ある時期を境に、急に記事が止まる人がいる」
「圧力ですか」
沙織が聞いた。
「分かりません」
凪子ははっきり言った。
「病気、家庭の事情、別の仕事。表向きの理由はいろいろです。ただ、共通しているのは、ソラティアに近づいたあとで止まっていること」
凪子は薄いファイルを開きかけて、そこで手を止めた。
見えたのは、一枚の取材メモだった。
チキンハウス。
入店時刻、14:37。
清六は息を止める。
凪子はすぐにファイルを閉じた。
「このメモは、私が直接見たものではありません。取材先から得た断片です」
「断片に、僕たちのことが載っているんですか」
清六の声は、思ったより低くなった。
凪子は否定しなかった。
「だから、声をかけました」
カフェテリアの奥で、学生たちが笑った。
カフェテリアの奥で、学生たちが笑った。
その明るい声が、今の話とひどく合わなかった。
清六は名刺の文字を見つめた。
春日凪子。
食品・文化ジャーナリスト。
信じていいのか分からない。
けれど、彼女は少なくとも、清六たちより先にソラティアという名前を追っている。
「あなたは」
清六は初めて、凪子へまっすぐ尋ねた。
「どうして、そこまで調べているんですか」
凪子の表情が少しだけ変わった。
柔らかさが消え、取材者の顔になる。
「食べ物は、人を幸せにするものだと思っています」
その答えは、少し意外だった。
「でも、食べ物は人を動かす力も持っている。地域を動かす。産業を動かす。時には、政治や企業の都合で、人の記憶や感情まで都合よく扱われる」
凪子は一度言葉を切った。
「私は、そういうものを見てきました」
「ソラティアを追っていた記者の一人は、記事公開の前日に全データを消しています」
凪子の声が少しだけ低くなった。
「原稿も、録音も、写真も。本人は、何も書くことはなかったと言ったそうです」
清六は、チキンハウスのとり天を思い出した。
美味しいと言う客の声。
笑い声。
それを見ていた不審な男。
自分の意思ではなく動いた手。
美味しいものは、本来なら人を幸せにする。
でもあの日のとり天は、清六にとって恐怖だった。
「清六くん」
沙織が小さく呼んだ。
気づかないうちに、清六は右手を握りしめていた。
凪子はそれを見た。
今度は、見なかったふりをしなかった。
「あなたは、とり天に何か関係があるんですか」
清六は答えられなかった。
沙織が代わりに口を開く。
「今は、そこまでは話せません」
凪子は頷いた。
「分かりました」
意外なほど、あっさり引いた。
「聞き出すために声をかけたわけではありません。少なくとも、今は」
「今は、ですか」
沙織が言う。
「私は取材者です。知りたいことがあれば聞きます。でも、答えるかどうかはあなたたちが決めることです」
凪子は名刺をもう一枚取り出し、清六の前に置いた。
「今すぐ信用して、とは言いません。むしろ、疑ってください。私も、お二人をまだ信用しきっているわけではありません」
清六は名刺を見つめた。
その言い方は冷たくはなかった。
けれど、甘くもなかった。
初対面の相手に、簡単に味方だと言われるより、ずっと現実味があった。
「大分に行くなら、連絡してください」
凪子は言った。
「案内できる場所はいくつかあります。話を聞ける人も、少しは」
「大分に行くとは、まだ決めていません」
清六が言う。
「その方がいいと思います」
凪子はすぐに答えた。
「勢いで行く場所ではありません。ソラティアの名前が本当にあなたたちに関わっているなら、なおさら」
「危険なんですか」
沙織が聞いた。
「危険かどうかを判断できるほど、私はまだ知りません」
凪子はファイルをバッグへ戻した。
「ただ、安全だと言える材料もありません」
沈黙が落ちた。
清六は、自分の前に置かれた名刺を手に取った。
紙は薄い。
けれど、そこに書かれた連絡先は、今までぼんやりしていた大分への線を急にはっきりさせた。
沙織が静かに言う。
「情報交換なら、できます」
清六は沙織を見る。
沙織は続けた。
「でも、清六くんのことを勝手に記事にするなら、協力はできません」
凪子はまっすぐ沙織を見返した。
「約束します。本人の許可なく、個人が特定される形では書きません」
「録音も?」
「今はしていません」
凪子は録音機を手で示した。
「必要なら、今後も録音前に確認します」
沙織はさらに一歩も引かず、凪子を見た。
「春日さんは、味方なんですか」
清六は沙織を見た。
そこまでまっすぐ聞けるのが、沙織だった。
凪子は少しだけ目を伏せ、それから答えた。
「今は、情報を交換できる相手です」
「味方とは言わないんですね」
「簡単に味方だと言う人間を、私は信用しない方がいいと思っています」
沙織は清六を見た。
決めるのは清六だと、その視線が言っていた。
清六は名刺を握った。
まだ、凪子を信じたわけではない。
でも、何も知らないままではいられない。
「分かりました」
清六は言った。
「情報交換だけなら」
凪子は小さく頷いた。
「それで十分です」
彼女は席を立った。
「今日のところは、これで。連絡するかどうかは、あなたたちで決めてください」
凪子は少し歩いてから、振り返った。
「一つだけ」
清六と沙織が顔を上げる。
「ソラティアについて調べるなら、検索結果だけを信じないでください。出てくる情報より、出てこない情報の方が重要な時があります」
そう言って、凪子はカフェテリアを出ていった。
***
その夜、清六は自室の机に凪子の名刺を置いた。
横には、沙織が書き出してくれた情報の写しがある。
事実。
未確認。
その二つに分けられた言葉たち。
ソラティア研究所。
大分県食品技術研究所。
別府市郊外。
とり天。
春日凪子。
階下からは、誠司が店を閉める音が聞こえている。
昨日までなら、その音は清六を安心させた。
今も、安心しないわけではない。
それでも、同時に苦しかった。
父を疑いたくない。
けれど、自分の身体に起きたことを、もう見なかったことにはできない。
清六は名刺を指で押さえた。
薄い紙の感触。
そこに書かれた大分への手がかり。
ふと、名刺を裏返す。
細い字で、一行だけ書かれていた。
駅では話さないで。
まだ、行くと決めたわけではない。
それでも、知らなければならない。
自分の身体が、自分の過去が、どこへつながっているのか。
窓の外には、冷たい月の光が差していた。
その光の下で、清六は初めて、天野書房という日常の外側にあるものを見つめようとしていた。
名刺の裏の一行だけが、机の上で妙に黒く見えた。


