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第3章 第3話:駅では話さないで

女性はノートを閉じたまま、しばらく動かなかった。

カフェテリアのざわめきが、二人の席の周囲だけ少し遠くなる。

清六は、沙織のノートへ視線を落とした。

事実。

未確認。

そこに並んだ言葉は、どれも今の清六にとって軽く扱えないものばかりだった。

ソラティア研究所。

プロトコル実行。

由布。

遺伝子活性化プロトコル。

その言葉を、隣の席の女性は聞いていたのかもしれない。

聞かれて困ることを話していた自覚はある。

けれど、隠れて聞かれていたのだとしたら、それはまた別の怖さだった。

沙織が先に動いた。

彼女はノートを閉じず、ペンを置いただけで、隣の女性へ顔を向ける。

「すみません」

声は柔らかかった。

でも、逃がさない響きがあった。

「今の話、聞こえていましたか」

女性は一瞬だけ目を伏せた。

それから、静かに顔を上げる。

「聞くつもりはありませんでした」

穏やかな声だった。

低すぎず、高すぎず、言葉を選びながら話している声。

「ただ、聞き流せない名前が出たので」

「ソラティア研究所ですか」

沙織が聞いた。

女性の指が、閉じたノートの表紙を軽く押さえた。

「はい」

清六は黙って女性を見た。

三十歳前後。肩までのボブヘア。派手ではないが、きちんと整った服装。テーブルの上にはノート、小型の録音機、薄いファイルが置かれている。

学生ではない。

大学の職員にも見えない。

女性は清六の視線に気づき、バッグから名刺入れを取り出した。

「突然すみません。春日凪子といいます」

名刺がテーブルの上に置かれる。

春日凪子。

食品・文化ジャーナリスト。

清六は名刺を見た。

ジャーナリスト。

その言葉だけで、少し身構えた。

自分の身に起きたことを、誰かの記事の材料にされるかもしれない。そう考えるだけで、背中が固くなる。

沙織もすぐには名刺を取らなかった。

「食品と文化、ですか」

「はい。郷土料理、食文化、地域産業の取材が中心です」

凪子は清六と沙織の間に視線を置いた。

「今は大分の食文化について調べています」

大分。

清六の胸が小さく反応する。

沙織がそれを見て、少しだけ姿勢を正した。

「どうして、ソラティア研究所の名前に反応したんですか」

凪子はすぐには答えなかった。

その間は、作られた沈黙には見えなかった。どこまで言うべきかを測っている沈黙だった。

「大分の郷土料理を取材している中で、何度かその名前に行き当たりました」

「郷土料理と研究所が、どうつながるんですか」

沙織の問いは穏やかだが、まっすぐだった。

凪子は少しだけ口元を引き結んだ。

「とり天です」

その言葉を聞いた瞬間、清六の右手がわずかに動いた。

無意識だった。

指先が、テーブルの縁を押さえる。

凪子の目が、そこへ一瞬だけ向いた。

彼女は気づいた。

しかし、すぐには踏み込まなかった。

「大分のとり天を取材していました。店ごとの違い、家庭料理としての歴史、観光資源としての扱われ方。最初は普通の食文化の記事のつもりでした」

清六は自分の手を膝の上へ下ろした。

「でも、違ったんですか」

「違う、というより、途中で妙な名前が出てきました」

「ソラティア」

沙織が言う。

凪子は頷いた。

「表向きは食品技術の研究施設です。大分県食品技術研究所、通称ソラティア。けれど、公開されている情報が少なすぎる」

沙織のノートに書かれた言葉と同じだった。

清六は息を飲む。

凪子は続ける。

「普通、地域の食品技術研究所なら、研究成果、イベント、企業連携、講習会、そういった情報が残ります。少なくとも、完全に見えないということは少ない」

「でも、ソラティアは違う」

「名前だけが残っている。けれど、中身へ近づこうとすると、急に情報が薄くなる」

凪子の声は、恐怖を煽るものではなかった。

むしろ淡々としている。

だからこそ、清六にはその言葉が重く聞こえた。

沙織が名刺を手に取る。

「春日さんは、私たちに何を求めているんですか」

凪子は沙織を見た。

質問したのが清六ではなく沙織だったことを、少し意外に思ったようだった。

けれどすぐに表情を戻す。

「正直に言えば、私も知りたいんです。ソラティアが何をしているのか」

「私たちを取材したい、ということですか」

「それも、選択肢の一つではあります」

清六の身体がこわばる。

凪子はそれに気づいたように、すぐ首を横に振った。

「ただし、今ここで何かを記事にするつもりはありません。あなたたちが何者なのかも、何に巻き込まれているのかも、私はまだ知りません」

「じゃあ、なぜ声をかけたんですか」

沙織がさらに聞く。

凪子はテーブルの上の録音機へ視線を落とした。

電源は入っていない。

そのことを示すように、彼女は録音機を少し横へずらした。

「ソラティアを調べていた人が、何人か途中で取材をやめています」

清六は顔を上げた。

「やめた?」

「はい。地元紙の記者、フリーライター、食関連のブロガー。全員ではありません。でも、ある時期を境に、急に記事が止まる人がいる」

「圧力ですか」

沙織が聞いた。

「分かりません」

凪子ははっきり言った。

「病気、家庭の事情、別の仕事。表向きの理由はいろいろです。ただ、共通しているのは、ソラティアに近づいたあとで止まっていること」

凪子は薄いファイルを開きかけて、そこで手を止めた。

見えたのは、一枚の取材メモだった。

チキンハウス。

入店時刻、14:37。

清六は息を止める。

凪子はすぐにファイルを閉じた。

「このメモは、私が直接見たものではありません。取材先から得た断片です」

「断片に、僕たちのことが載っているんですか」

清六の声は、思ったより低くなった。

凪子は否定しなかった。

「だから、声をかけました」

カフェテリアの奥で、学生たちが笑った。

カフェテリアの奥で、学生たちが笑った。

その明るい声が、今の話とひどく合わなかった。

清六は名刺の文字を見つめた。

春日凪子。

食品・文化ジャーナリスト。

信じていいのか分からない。

けれど、彼女は少なくとも、清六たちより先にソラティアという名前を追っている。

「あなたは」

清六は初めて、凪子へまっすぐ尋ねた。

「どうして、そこまで調べているんですか」

凪子の表情が少しだけ変わった。

柔らかさが消え、取材者の顔になる。

「食べ物は、人を幸せにするものだと思っています」

その答えは、少し意外だった。

「でも、食べ物は人を動かす力も持っている。地域を動かす。産業を動かす。時には、政治や企業の都合で、人の記憶や感情まで都合よく扱われる」

凪子は一度言葉を切った。

「私は、そういうものを見てきました」

「ソラティアを追っていた記者の一人は、記事公開の前日に全データを消しています」

凪子の声が少しだけ低くなった。

「原稿も、録音も、写真も。本人は、何も書くことはなかったと言ったそうです」

清六は、チキンハウスのとり天を思い出した。

美味しいと言う客の声。

笑い声。

それを見ていた不審な男。

自分の意思ではなく動いた手。

美味しいものは、本来なら人を幸せにする。

でもあの日のとり天は、清六にとって恐怖だった。

「清六くん」

沙織が小さく呼んだ。

気づかないうちに、清六は右手を握りしめていた。

凪子はそれを見た。

今度は、見なかったふりをしなかった。

「あなたは、とり天に何か関係があるんですか」

清六は答えられなかった。

沙織が代わりに口を開く。

「今は、そこまでは話せません」

凪子は頷いた。

「分かりました」

意外なほど、あっさり引いた。

「聞き出すために声をかけたわけではありません。少なくとも、今は」

「今は、ですか」

沙織が言う。

「私は取材者です。知りたいことがあれば聞きます。でも、答えるかどうかはあなたたちが決めることです」

凪子は名刺をもう一枚取り出し、清六の前に置いた。

「今すぐ信用して、とは言いません。むしろ、疑ってください。私も、お二人をまだ信用しきっているわけではありません」

清六は名刺を見つめた。

その言い方は冷たくはなかった。

けれど、甘くもなかった。

初対面の相手に、簡単に味方だと言われるより、ずっと現実味があった。

「大分に行くなら、連絡してください」

凪子は言った。

「案内できる場所はいくつかあります。話を聞ける人も、少しは」

「大分に行くとは、まだ決めていません」

清六が言う。

「その方がいいと思います」

凪子はすぐに答えた。

「勢いで行く場所ではありません。ソラティアの名前が本当にあなたたちに関わっているなら、なおさら」

「危険なんですか」

沙織が聞いた。

「危険かどうかを判断できるほど、私はまだ知りません」

凪子はファイルをバッグへ戻した。

「ただ、安全だと言える材料もありません」

沈黙が落ちた。

清六は、自分の前に置かれた名刺を手に取った。

紙は薄い。

けれど、そこに書かれた連絡先は、今までぼんやりしていた大分への線を急にはっきりさせた。

沙織が静かに言う。

「情報交換なら、できます」

清六は沙織を見る。

沙織は続けた。

「でも、清六くんのことを勝手に記事にするなら、協力はできません」

凪子はまっすぐ沙織を見返した。

「約束します。本人の許可なく、個人が特定される形では書きません」

「録音も?」

「今はしていません」

凪子は録音機を手で示した。

「必要なら、今後も録音前に確認します」

沙織はさらに一歩も引かず、凪子を見た。

「春日さんは、味方なんですか」

清六は沙織を見た。

そこまでまっすぐ聞けるのが、沙織だった。

凪子は少しだけ目を伏せ、それから答えた。

「今は、情報を交換できる相手です」

「味方とは言わないんですね」

「簡単に味方だと言う人間を、私は信用しない方がいいと思っています」

沙織は清六を見た。

決めるのは清六だと、その視線が言っていた。

清六は名刺を握った。

まだ、凪子を信じたわけではない。

でも、何も知らないままではいられない。

「分かりました」

清六は言った。

「情報交換だけなら」

凪子は小さく頷いた。

「それで十分です」

彼女は席を立った。

「今日のところは、これで。連絡するかどうかは、あなたたちで決めてください」

凪子は少し歩いてから、振り返った。

「一つだけ」

清六と沙織が顔を上げる。

「ソラティアについて調べるなら、検索結果だけを信じないでください。出てくる情報より、出てこない情報の方が重要な時があります」

そう言って、凪子はカフェテリアを出ていった。

***

その夜、清六は自室の机に凪子の名刺を置いた。

横には、沙織が書き出してくれた情報の写しがある。

事実。

未確認。

その二つに分けられた言葉たち。

ソラティア研究所。

大分県食品技術研究所。

別府市郊外。

とり天。

春日凪子。

階下からは、誠司が店を閉める音が聞こえている。

昨日までなら、その音は清六を安心させた。

今も、安心しないわけではない。

それでも、同時に苦しかった。

父を疑いたくない。

けれど、自分の身体に起きたことを、もう見なかったことにはできない。

清六は名刺を指で押さえた。

薄い紙の感触。

そこに書かれた大分への手がかり。

ふと、名刺を裏返す。

細い字で、一行だけ書かれていた。

駅では話さないで。

まだ、行くと決めたわけではない。

それでも、知らなければならない。

自分の身体が、自分の過去が、どこへつながっているのか。

窓の外には、冷たい月の光が差していた。

その光の下で、清六は初めて、天野書房という日常の外側にあるものを見つめようとしていた。

名刺の裏の一行だけが、机の上で妙に黒く見えた。

 

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