お知らせ

当サイトではアフィリエイトプログラムを利用して商品を紹介しています。

広告

第2章 第3話:反応、開始

「僕、とり天にする」

言ってから、清六は自分の声に驚いた。

注文を決めた覚えはなかった。

メニューの文字を見て、胸の奥がざわついて、油の匂いが濃くなって、それから口が勝手に動いた。

健太は気にした様子もなく笑った。

「お、九州限定いくじゃん。じゃあ俺もそれにしようかな」

「真似しないの」

真理がメニューを覗き込む。

康介はポテトのセットを指でなぞりながら、どれも同じに見える、と呟いた。

いつもの会話。

いつもの友人たち。

けれど清六だけが、その輪の外に一歩ずれて立っているような感覚だった。

沙織の視線が、清六の手元に落ちる。

メニューの端が、指の力で少し折れていた。

「清六くん」

沙織が低く呼んだ。

「頭、痛い?」

「少し」

そう答えたつもりだった。

けれど、自分の声が本当に出たのか分からなかった。

カウンターの奥で、油が弾ける音がした。

その音が、異様にはっきり聞こえた。

ぱち、と小さな泡が割れる。

衣の表面で水分が抜ける。

油の温度が、ほんのわずかに下がる。

そんなことが、なぜか分かる。

分かるはずがないのに、頭の中へ勝手に入ってくる。

清六は瞬きをした。

視界の端に、金色の光が走った。

「清六くん?」

沙織の声が少し強くなる。

清六は立ち上がっていた。

手が動いた。

違う。

僕は、頼んでいない。

椅子の脚が床を擦る音がする。健太が「え?」と顔を上げ、真理がメニューから視線を離す。康介が眉をひそめた。

清六自身にも、なぜ立ち上がったのか分からなかった。

ただ、厨房までの距離が分かった。

客席からカウンターまで、八歩。

カウンターの端から従業員用の扉まで、三歩半。

扉の向こう、右側にフライヤー。

左に調理台。

その奥に、銀色の箱。

床、カウンター、店員の立ち位置、油の音。

それらが細い線で結ばれ、店内の導線として頭の中に浮かび上がる。

見たことがないはずの配置まで、頭の中に浮かんでいた。

「おい、清六?」

健太の声が遠い。

清六の足は、もう動いていた。

自分の意思ではない。

いや、完全に違うとも言い切れなかった。歩くことを拒もうとする自分がいる。けれど同時に、歩かなければならないと知っている自分もいる。

その二つの間に挟まれて、清六は自分の身体の中から、少し離れた場所に追いやられていく。

「清六くん!」

沙織が立ち上がる音がした。

彼女はスマホを取り出した。

録画ボタンに触れた瞬間、画面が一度だけ乱れる。

砂を撒いたようなノイズが走り、すぐに戻った。

「何これ」

沙織の声が、ほんの少しだけ震えた。

清六はカウンターの横へ進んだ。

店員が驚いて振り返る。

「お客様、そちらは入れません」

その声が聞こえる。

意味も分かる。

止まらなければならないことも分かっている。

それでも、手が扉を押した。

従業員用の扉が開く。

厨房の空気が、顔にぶつかった。

熱。

油。

肉。

塩。

小麦粉。

それらの匂いが一度に押し寄せる。

普通なら、混ざり合った厨房の匂いとしてしか分からないはずだった。けれど今の清六には、それぞれが別々の線として見える。

鶏肉の水分。

衣の粘度。

油の古さ。

冷蔵庫から出してからの時間。

フライヤーの温度の癖。

情報が多すぎる。

多すぎるのに、身体は迷わなかった。

「ちょっと、君!」

店員が腕を伸ばす。

清六の身体は、その手を避けた。

避けようと思ったわけではない。相手の肩の向き、腕の速度、床の濡れた部分、それらを見た瞬間、どこを通れば触れずに抜けられるか分かってしまった。

「清六くん、止まって!」

沙織の声。

今度は、ちゃんと聞こえた。

止まりたい。

清六はそう思った。

けれど、手はもう調理台の上のボウルへ伸びている。

粉。

水。

卵。

ほんの少しの塩。

混ぜる角度。

止めるタイミング。

頭の中に、言葉ではない指示が流れ込む。

清六はボウルを取った。

菜箸を握る。

指先が自分のものではないみたいに動く。

粉の粒が水を含み、粘りが出る直前で止まる。混ぜすぎない。空気を逃がしすぎない。鶏肉に絡む薄さを残す。

清六は内側から見ていた。

自分の手が、自分の知らない技術で動いている。

恐ろしいほど滑らかだった。

「何してるんだ、君!」

店員が叫ぶ。

別の店員が店長を呼ぶ声がした。

客席がざわめく。

健太が何か言っている。

真理が悲鳴に近い声を上げる。

康介が店員を止めようとしているのか、低い声で説明している。

「清六は客だろ、止めろって」

「止めたいのはこっちだよ」

「沙織、撮れてる?」

「分からない。画面がおかしい」

それらは全部、遠かった。

近いのは、油の音だけだった。

清六の視界に、金色が薄く広がる。

調理台の上の鶏肉。

筋の入り方。

切るべき角度。

火が通るまでの時間。

包丁を握る。

刃先が肉に入る。

柔らかい抵抗。

切る。

揃える。

衣をまとわせる。

油へ落とす。

じゅ、と音がした。

その瞬間、清六の胸の奥が強く震えた。

懐かしい。

そう感じてしまった。

こんなことをした覚えはない。

家で料理を手伝うことはある。味噌汁の具を切ったり、食器を洗ったり、簡単な炒め物を作ったりする程度だ。

こんな動きは知らない。

この温度の見方も、この衣のまとわせ方も、この油の音の聞き分け方も、知らない。

知らないのに、懐かしい。

それが一番怖かった。

「清六くん!」

沙織の声が、今度はすぐ近くで響いた。

厨房の入口に立っている。

店員に止められながら、それでも清六を見ている。

「聞こえてるなら、返事して!」

返事。

清六は口を動かそうとした。

「……」

声は出なかった。

手は、揚げ具合を見ている。

衣の泡が細かくなる。

色が淡い黄色から、少し深い黄金色へ変わる。

今だ。

そう思った瞬間、手が網を取った。

一つ。

二つ。

三つ。

油から引き上げ、余分な油を切る。

皿に置く。

白い湯気が立ち上がった。

その香りが厨房から客席へ流れていく。

ざわめきが、一瞬止まった。

清六の視界から、金色がすっと引いた。

音が戻る。

店員の怒鳴り声。

客席のざわめき。

沙織の息遣い。

自分の心臓の音。

清六は菜箸を握ったまま、立ち尽くしていた。

「僕」

喉が乾いている。

「何を……」

手の中の菜箸が、急に重く感じた。

清六はそれを調理台に置こうとして、指が震えていることに気づいた。

自分の手だ。

なのに、さっきまで自分のものではなかった。

「清六くん」

沙織が近づこうとする。

店員が慌てて止める。

その時、店長らしき男が厨房へ入ってきた。四十代くらいで、白い調理服の袖をまくっている。顔は明らかに怒っていた。

「何の騒ぎだ」

店員が一斉に説明しようとする。

「客が勝手に」

「厨房に入って」

「止めたんですけど」

店長の視線が、調理台の皿で止まった。

黄金色のとり天。

形は不揃いではない。

大きさも、衣のつき方も、揚がり方も、妙に整っている。

店長は怒りを忘れたように、皿へ近づいた。

「これを、君が?」

清六は答えられなかった。

作ったのは自分だ。

でも、自分が作ったと言っていいのか分からない。

店長は一切れを箸で持ち上げた。

「待ってください」

沙織が言った。

「食べない方が」

店長は一瞬だけ沙織を見た。

けれど、香りに引かれるように、とり天を口へ運んだ。

噛んだ瞬間、店長の表情が変わった。

怒りでも、驚きでもない。

最初に浮かんだのは、理解できないものを見た時の顔だった。

「……衣が、軽い」

店長は呟いた。

「中まで火が入ってるのに、固くなってない。何だ、これ」

その声に、客席のざわめきが大きくなる。

健太が厨房の入口から覗き込んだ。

「清六、お前、料理できたのか?」

「知らない」

清六は小さく言った。

「知らないって何だよ」

健太の声には笑いが混ざっていなかった。

店長は、店員に小皿を持ってこさせた。

「少しだけ、客席にも」

「店長」

沙織が止めようとした。

「清六くんの様子、見てください。普通じゃないんです」

店長はようやく清六を見た。

清六は調理台に片手をついていた。

息が浅い。

指先はまだ震えている。

「……確かに、顔色が悪いな」

それでも、店長は皿から目を離せないでいる。

清六はその視線が怖かった。

人ではなく、皿を見ている。

自分が何をしたのかより、出来上がったものを見ている。

数切れのとり天が、小皿に分けられて客席へ運ばれた。

「すごい香り」

「何これ、限定メニュー?」

「一口だけ?」

客たちは最初、面白がっていた。

一人が口に入れる。

目を見開く。

「うまい」

別の客が笑う。

「ほんとだ、何これ」

「外は軽いのに、中がすごく柔らかい」

多くの声は、純粋な驚きだった。

美味しいものを食べた時の、無防備な反応。

けれど、入口近くの男だけは違った。

彼は配られた小皿を受け取る前から、店内を見回していた。とり天を口に入れても、味わうというより、周囲の客の反応を確認しているようだった。

沙織はそれを見逃さなかった。

「あの人」

彼女が小さく呟く。

男はスマホを手に取り、何かを短く打ち込んだ。

店の奥から、誰かの低い声が聞こえた気がした。

「……反応確認」

本当に聞こえたのか、油の音に混じっただけなのか分からない。

その後、皿を置き、何事もなかったように立ち上がる。

「待って」

沙織が言った。

男は振り返らなかった。

店の扉が開き、外の光が一瞬差し込む。

男はそのまま出ていった。

清六には追う余裕がなかった。

沙織は一瞬迷ったが、清六の方へ戻ってきた。

「清六くん」

今度は、店員も止めなかった。

沙織は清六の前に立つ。

「聞こえる?」

清六は頷いた。

「うん」

声がかすれていた。

沙織は皿の上のとり天を見た。

それから、清六の顔を見る。

「これ、すごく美味しいんだと思う」

「うん」

「でも、今のは普通じゃない」

清六は自分の手を見た。

指先に、衣の粉が少し残っている。

油の熱が、まだ皮膚の奥にある気がした。

「体が」

言葉が詰まる。

「勝手に動いた」

沙織の表情が硬くなる。

「自分で作ろうと思ったんじゃないの?」

「思ってない」

清六は首を横に振った。

「メニューを見て、匂いがして、それから……分かったんだ」

「何が?」

「厨房の場所とか、油の温度とか、衣の混ぜ方とか」

言葉にすると、余計におかしかった。

「知ってるみたいだった。でも、知らない。僕は、こんなの知らない」

沙織は黙って聞いていた。

健太たちも、いつの間にか近くに来ている。

真理は青ざめていた。

康介は店員に事情を説明しながらも、清六から目を離さない。

健太は何か言おうとして、言えずにいる。

店長が困ったように口を開いた。

「とにかく、勝手に厨房へ入られたのは困る。だが、その、具合が悪いなら」

「すみません」

清六は頭を下げた。

謝ることしかできなかった。

何を謝ればいいのかも、よく分かっていない。

厨房に入ったこと。

店を騒がせたこと。

勝手に料理を作ったこと。

それとも、自分でも分からない何かを持っていること。

「出よう」

沙織が言った。

「ここにいるより、外の方がいい」

清六は頷いた。

健太たちには、沙織が体調不良だと説明した。健太は最後まで納得していない顔をしていたが、清六の顔色を見て何も言わなかった。

真理は口元を押さえたまま、小さく言った。

「ねえ、今の、ほんとに清六くんなの?」

康介が即座に首を横に振る。

「今それ言うな」

健太は清六を見て、笑おうとして失敗した。

「あとで、ちゃんと説明しろよ」

その声が震えていた。

店長には、沙織が連絡先を残した。

「あとで必要なら、大学を通して連絡してください」

その言い方は落ち着いていた。

清六には、とてもそんな対応はできなかった。

***

店を出ると、外の空気は思ったより涼しかった。

午後の光が歩道に落ちている。さっきまで明るく見えていた街が、今は少し遠い。車の音も、人の声も、薄い膜の向こうから聞こえるようだった。

清六は店の前で立ち止まり、自分の手を見た。

右手。

左手。

いつもの手だった。

本をめくる手。

ノートを取る手。

誠司の食器を洗う手。

沙織に資料を渡す手。

それなのに、さっきその手は、自分の意思を置き去りにして動いた。

怖い。

その言葉だけが、はっきりしていた。

「清六くん」

沙織が隣に立つ。

彼女はすぐに「大丈夫?」とは聞かなかった。

たぶん、大丈夫ではないと分かっていたからだ。

「あの男の人」

清六はようやく言った。

「見てた?」

「うん」

沙織は頷いた。

「食べる前から、周りを見てた。味じゃなくて、反応を見てる感じだった」

「店の人じゃない」

「たぶん」

沙織は店の入口を振り返った。

「銀色の箱も、気になる」

清六は息を吐いた。

ソラティア。

プロトコル。

とり天。

また言葉が増えた。

今度は、ノートの上ではない。

自分の身体に刻まれた言葉だった。

「父さんに」

そこまで言って、清六は口を閉じた。

相談しなければならない。

そう思う。

けれど、最初の不在着信から胸に残っている疑いが、すぐに足元を冷たくする。

父さんは何を知っているのか。

何を隠しているのか。

今日のことを話したら、どんな顔をするのか。

「一人で行かなくていいよ」

沙織が言った。

清六は横を見る。

沙織は、まっすぐ前を見ていた。

「お父さんに話すなら、私も一緒に行く。清六くんが嫌じゃなければ」

沙織が隣にいることに、清六の胸が少しだけ緩む。

でも、すぐにまた怖さが戻ってきた。

自分の手を見る。

指先は、まだかすかに震えていた。

「沙織」

「うん」

「僕、何なんだろう」

沙織はすぐには答えなかった。

答えられないことを、無理に答えようとしなかった。

「分からない」

彼女は正直に言った。

「でも、清六くんが怖がってることは分かる」

その一言で、清六は少しだけ呼吸ができた。

誰かが自分を分析するのではなく、怖がっている人間として見てくれている。

それだけで、まだこちら側に立っていられる気がした。

チキンハウスの中から、楽しそうな声が漏れてくる。

誰かが美味しいと言っている。

誰かが笑っている。

それは本来なら、いいことのはずだった。

美味しいものを作って、人が喜ぶ。

それが悪いはずはない。

けれど清六には、その喜びが自分のものだと思えなかった。

自分の日常が崩れ始めている。

その奥で、眠っていた何かが目を覚まそうとしていた。

「清六くん」

沙織の声が、急に低くなった。

彼女はスマホの画面を見ていた。

「動画、撮れてる」

録画された映像には、健太たちの顔も、店内の照明も、皿の上のとり天も映っていた。

健太が叫び、真理が息を呑み、康介が店員に何かを説明している。

けれど、清六の手元だけが砂嵐のように乱れている。

菜箸も、包丁も、油の上へ伸びる指先も、そこだけが黒くざらついていた。

沙織が音量を上げる。

油の弾ける音に混じって、短い電子音が鳴った。

ピッ。

そのすぐあと、低い声が入っていた。

「反応、開始」

次の話に進む

前の話に戻る

作品トップに戻る

カテゴリーが設定されていません。

おすすめゲーム

SHESAIDのイラスト

お兄ちゃんの命令は絶対!?

お兄ちゃんの命令は絶対!?

黄門様エクリプス道中

黄門様エクリプス道中

おすすめサービス

AmazonのオーディオブックAudible

Clip Studio Paint(クリップスタジオ)

キャラ&ホビー格安あみあみ

-