「僕、とり天にする」
言ってから、清六は自分の声に驚いた。
注文を決めた覚えはなかった。
メニューの文字を見て、胸の奥がざわついて、油の匂いが濃くなって、それから口が勝手に動いた。
健太は気にした様子もなく笑った。
「お、九州限定いくじゃん。じゃあ俺もそれにしようかな」
「真似しないの」
真理がメニューを覗き込む。
康介はポテトのセットを指でなぞりながら、どれも同じに見える、と呟いた。
いつもの会話。
いつもの友人たち。
けれど清六だけが、その輪の外に一歩ずれて立っているような感覚だった。
沙織の視線が、清六の手元に落ちる。
メニューの端が、指の力で少し折れていた。
「清六くん」
沙織が低く呼んだ。
「頭、痛い?」
「少し」
そう答えたつもりだった。
けれど、自分の声が本当に出たのか分からなかった。
カウンターの奥で、油が弾ける音がした。
その音が、異様にはっきり聞こえた。
ぱち、と小さな泡が割れる。
衣の表面で水分が抜ける。
油の温度が、ほんのわずかに下がる。
そんなことが、なぜか分かる。
分かるはずがないのに、頭の中へ勝手に入ってくる。
清六は瞬きをした。
視界の端に、金色の光が走った。
「清六くん?」
沙織の声が少し強くなる。
清六は立ち上がっていた。
手が動いた。
違う。
僕は、頼んでいない。
椅子の脚が床を擦る音がする。健太が「え?」と顔を上げ、真理がメニューから視線を離す。康介が眉をひそめた。
清六自身にも、なぜ立ち上がったのか分からなかった。
ただ、厨房までの距離が分かった。
客席からカウンターまで、八歩。
カウンターの端から従業員用の扉まで、三歩半。
扉の向こう、右側にフライヤー。
左に調理台。
その奥に、銀色の箱。
床、カウンター、店員の立ち位置、油の音。
それらが細い線で結ばれ、店内の導線として頭の中に浮かび上がる。
見たことがないはずの配置まで、頭の中に浮かんでいた。
「おい、清六?」
健太の声が遠い。
清六の足は、もう動いていた。
自分の意思ではない。
いや、完全に違うとも言い切れなかった。歩くことを拒もうとする自分がいる。けれど同時に、歩かなければならないと知っている自分もいる。
その二つの間に挟まれて、清六は自分の身体の中から、少し離れた場所に追いやられていく。
「清六くん!」
沙織が立ち上がる音がした。
彼女はスマホを取り出した。
録画ボタンに触れた瞬間、画面が一度だけ乱れる。
砂を撒いたようなノイズが走り、すぐに戻った。
「何これ」
沙織の声が、ほんの少しだけ震えた。
清六はカウンターの横へ進んだ。
店員が驚いて振り返る。
「お客様、そちらは入れません」
その声が聞こえる。
意味も分かる。
止まらなければならないことも分かっている。
それでも、手が扉を押した。
従業員用の扉が開く。
厨房の空気が、顔にぶつかった。
熱。
油。
肉。
塩。
小麦粉。
それらの匂いが一度に押し寄せる。
普通なら、混ざり合った厨房の匂いとしてしか分からないはずだった。けれど今の清六には、それぞれが別々の線として見える。
鶏肉の水分。
衣の粘度。
油の古さ。
冷蔵庫から出してからの時間。
フライヤーの温度の癖。
情報が多すぎる。
多すぎるのに、身体は迷わなかった。
「ちょっと、君!」
店員が腕を伸ばす。
清六の身体は、その手を避けた。
避けようと思ったわけではない。相手の肩の向き、腕の速度、床の濡れた部分、それらを見た瞬間、どこを通れば触れずに抜けられるか分かってしまった。
「清六くん、止まって!」
沙織の声。
今度は、ちゃんと聞こえた。
止まりたい。
清六はそう思った。
けれど、手はもう調理台の上のボウルへ伸びている。
粉。
水。
卵。
ほんの少しの塩。
混ぜる角度。
止めるタイミング。
頭の中に、言葉ではない指示が流れ込む。
清六はボウルを取った。
菜箸を握る。
指先が自分のものではないみたいに動く。
粉の粒が水を含み、粘りが出る直前で止まる。混ぜすぎない。空気を逃がしすぎない。鶏肉に絡む薄さを残す。
清六は内側から見ていた。
自分の手が、自分の知らない技術で動いている。
恐ろしいほど滑らかだった。
「何してるんだ、君!」
店員が叫ぶ。
別の店員が店長を呼ぶ声がした。
客席がざわめく。
健太が何か言っている。
真理が悲鳴に近い声を上げる。
康介が店員を止めようとしているのか、低い声で説明している。
「清六は客だろ、止めろって」
「止めたいのはこっちだよ」
「沙織、撮れてる?」
「分からない。画面がおかしい」
それらは全部、遠かった。
近いのは、油の音だけだった。
清六の視界に、金色が薄く広がる。
調理台の上の鶏肉。
筋の入り方。
切るべき角度。
火が通るまでの時間。
包丁を握る。
刃先が肉に入る。
柔らかい抵抗。
切る。
揃える。
衣をまとわせる。
油へ落とす。
じゅ、と音がした。
その瞬間、清六の胸の奥が強く震えた。
懐かしい。
そう感じてしまった。
こんなことをした覚えはない。
家で料理を手伝うことはある。味噌汁の具を切ったり、食器を洗ったり、簡単な炒め物を作ったりする程度だ。
こんな動きは知らない。
この温度の見方も、この衣のまとわせ方も、この油の音の聞き分け方も、知らない。
知らないのに、懐かしい。
それが一番怖かった。
「清六くん!」
沙織の声が、今度はすぐ近くで響いた。
厨房の入口に立っている。
店員に止められながら、それでも清六を見ている。
「聞こえてるなら、返事して!」
返事。
清六は口を動かそうとした。
「……」
声は出なかった。
手は、揚げ具合を見ている。
衣の泡が細かくなる。
色が淡い黄色から、少し深い黄金色へ変わる。
今だ。
そう思った瞬間、手が網を取った。
一つ。
二つ。
三つ。
油から引き上げ、余分な油を切る。
皿に置く。
白い湯気が立ち上がった。
その香りが厨房から客席へ流れていく。
ざわめきが、一瞬止まった。
清六の視界から、金色がすっと引いた。
音が戻る。
店員の怒鳴り声。
客席のざわめき。
沙織の息遣い。
自分の心臓の音。
清六は菜箸を握ったまま、立ち尽くしていた。
「僕」
喉が乾いている。
「何を……」
手の中の菜箸が、急に重く感じた。
清六はそれを調理台に置こうとして、指が震えていることに気づいた。
自分の手だ。
なのに、さっきまで自分のものではなかった。
「清六くん」
沙織が近づこうとする。
店員が慌てて止める。
その時、店長らしき男が厨房へ入ってきた。四十代くらいで、白い調理服の袖をまくっている。顔は明らかに怒っていた。
「何の騒ぎだ」
店員が一斉に説明しようとする。
「客が勝手に」
「厨房に入って」
「止めたんですけど」
店長の視線が、調理台の皿で止まった。
黄金色のとり天。
形は不揃いではない。
大きさも、衣のつき方も、揚がり方も、妙に整っている。
店長は怒りを忘れたように、皿へ近づいた。
「これを、君が?」
清六は答えられなかった。
作ったのは自分だ。
でも、自分が作ったと言っていいのか分からない。
店長は一切れを箸で持ち上げた。
「待ってください」
沙織が言った。
「食べない方が」
店長は一瞬だけ沙織を見た。
けれど、香りに引かれるように、とり天を口へ運んだ。
噛んだ瞬間、店長の表情が変わった。
怒りでも、驚きでもない。
最初に浮かんだのは、理解できないものを見た時の顔だった。
「……衣が、軽い」
店長は呟いた。
「中まで火が入ってるのに、固くなってない。何だ、これ」
その声に、客席のざわめきが大きくなる。
健太が厨房の入口から覗き込んだ。
「清六、お前、料理できたのか?」
「知らない」
清六は小さく言った。
「知らないって何だよ」
健太の声には笑いが混ざっていなかった。
店長は、店員に小皿を持ってこさせた。
「少しだけ、客席にも」
「店長」
沙織が止めようとした。
「清六くんの様子、見てください。普通じゃないんです」
店長はようやく清六を見た。
清六は調理台に片手をついていた。
息が浅い。
指先はまだ震えている。
「……確かに、顔色が悪いな」
それでも、店長は皿から目を離せないでいる。
清六はその視線が怖かった。
人ではなく、皿を見ている。
自分が何をしたのかより、出来上がったものを見ている。
数切れのとり天が、小皿に分けられて客席へ運ばれた。
「すごい香り」
「何これ、限定メニュー?」
「一口だけ?」
客たちは最初、面白がっていた。
一人が口に入れる。
目を見開く。
「うまい」
別の客が笑う。
「ほんとだ、何これ」
「外は軽いのに、中がすごく柔らかい」
多くの声は、純粋な驚きだった。
美味しいものを食べた時の、無防備な反応。
けれど、入口近くの男だけは違った。
彼は配られた小皿を受け取る前から、店内を見回していた。とり天を口に入れても、味わうというより、周囲の客の反応を確認しているようだった。
沙織はそれを見逃さなかった。
「あの人」
彼女が小さく呟く。
男はスマホを手に取り、何かを短く打ち込んだ。
店の奥から、誰かの低い声が聞こえた気がした。
「……反応確認」
本当に聞こえたのか、油の音に混じっただけなのか分からない。
その後、皿を置き、何事もなかったように立ち上がる。
「待って」
沙織が言った。
男は振り返らなかった。
店の扉が開き、外の光が一瞬差し込む。
男はそのまま出ていった。
清六には追う余裕がなかった。
沙織は一瞬迷ったが、清六の方へ戻ってきた。
「清六くん」
今度は、店員も止めなかった。
沙織は清六の前に立つ。
「聞こえる?」
清六は頷いた。
「うん」
声がかすれていた。
沙織は皿の上のとり天を見た。
それから、清六の顔を見る。
「これ、すごく美味しいんだと思う」
「うん」
「でも、今のは普通じゃない」
清六は自分の手を見た。
指先に、衣の粉が少し残っている。
油の熱が、まだ皮膚の奥にある気がした。
「体が」
言葉が詰まる。
「勝手に動いた」
沙織の表情が硬くなる。
「自分で作ろうと思ったんじゃないの?」
「思ってない」
清六は首を横に振った。
「メニューを見て、匂いがして、それから……分かったんだ」
「何が?」
「厨房の場所とか、油の温度とか、衣の混ぜ方とか」
言葉にすると、余計におかしかった。
「知ってるみたいだった。でも、知らない。僕は、こんなの知らない」
沙織は黙って聞いていた。
健太たちも、いつの間にか近くに来ている。
真理は青ざめていた。
康介は店員に事情を説明しながらも、清六から目を離さない。
健太は何か言おうとして、言えずにいる。
店長が困ったように口を開いた。
「とにかく、勝手に厨房へ入られたのは困る。だが、その、具合が悪いなら」
「すみません」
清六は頭を下げた。
謝ることしかできなかった。
何を謝ればいいのかも、よく分かっていない。
厨房に入ったこと。
店を騒がせたこと。
勝手に料理を作ったこと。
それとも、自分でも分からない何かを持っていること。
「出よう」
沙織が言った。
「ここにいるより、外の方がいい」
清六は頷いた。
健太たちには、沙織が体調不良だと説明した。健太は最後まで納得していない顔をしていたが、清六の顔色を見て何も言わなかった。
真理は口元を押さえたまま、小さく言った。
「ねえ、今の、ほんとに清六くんなの?」
康介が即座に首を横に振る。
「今それ言うな」
健太は清六を見て、笑おうとして失敗した。
「あとで、ちゃんと説明しろよ」
その声が震えていた。
店長には、沙織が連絡先を残した。
「あとで必要なら、大学を通して連絡してください」
その言い方は落ち着いていた。
清六には、とてもそんな対応はできなかった。
***
店を出ると、外の空気は思ったより涼しかった。
午後の光が歩道に落ちている。さっきまで明るく見えていた街が、今は少し遠い。車の音も、人の声も、薄い膜の向こうから聞こえるようだった。
清六は店の前で立ち止まり、自分の手を見た。
右手。
左手。
いつもの手だった。
本をめくる手。
ノートを取る手。
誠司の食器を洗う手。
沙織に資料を渡す手。
それなのに、さっきその手は、自分の意思を置き去りにして動いた。
怖い。
その言葉だけが、はっきりしていた。
「清六くん」
沙織が隣に立つ。
彼女はすぐに「大丈夫?」とは聞かなかった。
たぶん、大丈夫ではないと分かっていたからだ。
「あの男の人」
清六はようやく言った。
「見てた?」
「うん」
沙織は頷いた。
「食べる前から、周りを見てた。味じゃなくて、反応を見てる感じだった」
「店の人じゃない」
「たぶん」
沙織は店の入口を振り返った。
「銀色の箱も、気になる」
清六は息を吐いた。
ソラティア。
プロトコル。
とり天。
また言葉が増えた。
今度は、ノートの上ではない。
自分の身体に刻まれた言葉だった。
「父さんに」
そこまで言って、清六は口を閉じた。
相談しなければならない。
そう思う。
けれど、最初の不在着信から胸に残っている疑いが、すぐに足元を冷たくする。
父さんは何を知っているのか。
何を隠しているのか。
今日のことを話したら、どんな顔をするのか。
「一人で行かなくていいよ」
沙織が言った。
清六は横を見る。
沙織は、まっすぐ前を見ていた。
「お父さんに話すなら、私も一緒に行く。清六くんが嫌じゃなければ」
沙織が隣にいることに、清六の胸が少しだけ緩む。
でも、すぐにまた怖さが戻ってきた。
自分の手を見る。
指先は、まだかすかに震えていた。
「沙織」
「うん」
「僕、何なんだろう」
沙織はすぐには答えなかった。
答えられないことを、無理に答えようとしなかった。
「分からない」
彼女は正直に言った。
「でも、清六くんが怖がってることは分かる」
その一言で、清六は少しだけ呼吸ができた。
誰かが自分を分析するのではなく、怖がっている人間として見てくれている。
それだけで、まだこちら側に立っていられる気がした。
チキンハウスの中から、楽しそうな声が漏れてくる。
誰かが美味しいと言っている。
誰かが笑っている。
それは本来なら、いいことのはずだった。
美味しいものを作って、人が喜ぶ。
それが悪いはずはない。
けれど清六には、その喜びが自分のものだと思えなかった。
自分の日常が崩れ始めている。
その奥で、眠っていた何かが目を覚まそうとしていた。
「清六くん」
沙織の声が、急に低くなった。
彼女はスマホの画面を見ていた。
「動画、撮れてる」
録画された映像には、健太たちの顔も、店内の照明も、皿の上のとり天も映っていた。
健太が叫び、真理が息を呑み、康介が店員に何かを説明している。
けれど、清六の手元だけが砂嵐のように乱れている。
菜箸も、包丁も、油の上へ伸びる指先も、そこだけが黒くざらついていた。
沙織が音量を上げる。
油の弾ける音に混じって、短い電子音が鳴った。
ピッ。
そのすぐあと、低い声が入っていた。
「反応、開始」


