明治四年、二月。
東京の坂道は、桐生新太郎にとって少々いじわるだった。
「……なんで東京の道は、こう、いちいち人を試すがろっか」
ぽつりと漏らした瞬間、新太郎は慌てて口を押さえた。
しまった。
また出た。
越後訛り。
誰かに聞かれていないかと左右を見る。荷車を押す男。袴姿の学生。慣れない革靴を鳴らす洋装の役人。犬を追いかける子ども。
誰も新太郎など見ていない。
ほっとした。
ほっとした自分が、少し情けなかった。
「通訳見習い候補が、自分の言葉に怯えてどうするんだ……」
懐に入れた任命書が、やけに重い。
使節団付き通訳見習い候補。
紙は薄い。だが、胸に入れているだけで胃が縮む。
英語は覚えた。フランス語も、まだ拙いが読める。辞書の角が丸くなるまで引いた。夜中に布団の中で発音練習をして、隣の部屋の叔父に「うなされているのか」と本気で心配されたこともある。
それでも、いざ東京の坂の上に立つと、自分の舌が信用できなかった。
故郷の音が、いつ飛び出すか分からない。
田舎者だと笑われるかもしれない。
いや、笑われるだけならまだいい。
言葉を扱う者として、軽んじられるのが怖かった。
新太郎は深呼吸して、坂の上の建物を見た。
慶應義塾。
福沢諭吉が講義をする場所。
「ここで震えて帰ったら、一生笑い話にもならないぞ、桐生新太郎」
自分に言い聞かせ、歩き出す。
演説館の中は、外よりもずっと熱かった。
いや、火鉢が多いわけではない。学生たちの目が熱いのだ。
和装の者。洋装の者。髷を落とした者。まだ迷うように髷を結った者。腰の刀を名残惜しそうに触る者。英語の本をこれ見よがしに開いている者。
新しい時代に乗り遅れまいとする若者たちが、ぎゅうぎゅうに詰まっている。
その中へ入った瞬間、新太郎は背筋を伸ばした。
標準語。標準語だ。
絶対に、余計な訛りを出さない。
「すみません、ここ、空いておりますか」
なるべく丁寧に言った。
隣の学生がちらりと見る。
「空いてる。けど、そこ、先生に当てられやすいぞ」
「えっ」
新太郎は座りかけた腰を止めた。
学生はにやりと笑う。
「冗談だ」
「……冗談ですか」
「お前、越後か」
新太郎は今度こそ固まった。
「なぜ分かるんです」
「今、顔に『がろっか』って書いてあった」
「顔に訛りが出るんですか」
「東京では出る」
「東京は恐ろしいところですね……」
「信じるなよ」
隣の学生は肩を震わせて笑った。
新太郎は真顔で信じかけた自分を恥じた。東京の冗談は、やはり高度すぎる。
そのとき、前列が妙にざわついていることに気づいた。
視線の先を追う。
そこに、女が座っていた。
しかも、遠慮がちに隅にいるのではない。
最前列。
教壇の真正面。
深い藍の着物に、きりりと締めた帯。膝の上には洋書。背筋はまっすぐで、周囲の男子学生の視線など、最初から存在しないもののように無視している。
新太郎は思わず見入った。
「あれ、有馬家のご令嬢らしいぞ」
隣の学生が小声で言う。
「有馬家?」
「知らないのか。開明派で有名だ。だが、娘までここに来るとはな」
少し離れた席の学生が鼻で笑った。
「女に学問をさせて、何になる」
その声は小さかった。
だが、最前列の彼女には聞こえていたらしい。
ほんの少しだけ、横顔がこちらを向いた。
笑ってはいない。
怒鳴り返しもしない。
ただ、目だけが言っていた。
では、あなたは学問を何に使うのですか。
新太郎はなぜか、自分が言われたわけでもないのに背筋が伸びた。
強い人だ。
ただ気が強いのではない。
自分の席を、自分で決めて座っている人だ。
けれど、そのとき新太郎は見てしまった。
彼女の指先が、膝の上の洋書の角を押さえている。
紙の端が、ほんの少し歪んでいた。
怖くないわけではないのだ。
笑われるのも、見られるのも、平気なわけではない。
それでも彼女は、背筋を伸ばして座っている。
震えを置き去りにするように。
その時だった。
演説館のざわめきが、急に沈んだ。
教壇に、福沢諭吉が立っていた。
写真で見た顔より、ずっと近い。ずっと大きい。いや、身体が大きいわけではない。場を掴む力が大きいのだ。
福沢は学生たちを見渡し、いきなり教卓を叩いた。
ぱん、と乾いた音が響く。
新太郎はびくっと肩を跳ねさせた。
福沢の目が、なぜかこちらを向いた気がした。
「驚いた者がいるな。よろしい。眠っていない証拠だ」
どっと笑いが起きる。
新太郎は耳まで熱くなった。
今のは、完全に自分だ。
福沢は教卓に手を置いた。
「諸君。この机が何でできているか、知っているか」
学生たちが顔を見合わせる。
福沢は愉快そうに言った。
「英国軍艦の甲板材だ」
演説館がどよめいた。
「砲撃に耐えた木だ。波をかぶり、火を浴び、鉄の玉を受けた木だ。それが今、ここで学問を支えている」
福沢は、教卓の傷を指でなぞった。
「面白いと思わんか。昨日まで戦の上にあったものが、今日は学問の下にある。世の中は変わる。変わるなら、人も変われる」
新太郎は教卓を見た。
黒ずんだ厚い木材。深い傷。焦げたような跡。裂け目。黒ずんだ木目。
新太郎には、その傷が文字に見えた。
辞書には載っていない。
英語でも、フランス語でも、日本語でもない。
けれど確かに、何かを語っている。
戦が残した、まだ誰にも訳されていない文章。
その上に、福沢は手を置いていた。
福沢の声が強くなる。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」
その一言で、部屋の温度がさらに上がった気がした。
「だが、現実を見よ。上に立つ者がいる。下に置かれる者がいる。なぜか。天が決めたのではない。学ぶ者と、学ばぬ者が分かれただけだ」
新太郎の胸が、どきりと鳴った。
学ぶ者。
学ばぬ者。
では、自分はどちらだ。
英語を覚えた。仏語も読んだ。だが、それは自分の訛りを隠すためだった。田舎者だと笑われないためだった。
福沢の言う学問は、もっと前へ進むためのものなのではないか。
「先生」
声がした。
最前列の女だった。
周囲の空気が、一瞬で変わる。
女が、講義の途中で手を挙げている。
それだけで事件のようだった。
福沢は面白そうに目を細めた。
「名は」
「有馬つばきと申します」
つばき。
新太郎はその名を心の中で繰り返した。
有馬つばき。
名前まで、まっすぐ立っているような響きだった。
福沢が頷く。
「よろしい。有馬君、問うてみなさい」
つばきは立ち上がった。
ざわ、と学生たちが揺れる。
「女が質問するぞ」
「本気か」
「家で習えばよかろうに」
小さな声があちこちで漏れる。
新太郎はむっとした。
だが、何も言えない。
言えば、自分の訛りが出るかもしれない。笑われるかもしれない。そう考えた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
自分は、何を恐れているのだろう。
つばきは恐れていない。
いや、違う。
恐れていても、立っている。
彼女は、まっすぐ福沢を見ていた。
「先生。女性が学ぶことは、この国の独立に含まれますか」
演説館が、凍った。
新太郎は息を忘れた。
その問いは、許しを乞う声ではなかった。
席を与えてください、という願いでもなかった。
そこにある扉を、自分の手で叩く音だった。
新太郎は、その音を聞いた気がした。
言葉にも、足音があるのだと思った。
福沢はしばらく黙っていた。
それから、にやりと笑った。
「有馬君」
「はい」
「君は、なかなか面白い火種を投げ込む」
教室の何人かが笑った。
つばきは笑わなかった。
「火をつけるつもりで参りました」
今度こそ、演説館が大きくざわめいた。
新太郎は、ぽかんとした。
そして次の瞬間、こらえきれずに小さく笑ってしまった。
すごい。
この人は、本当にすごい。
福沢は満足げに教卓を叩いた。
「よろしい。では、諸君」
その目が、学生たちをぐるりと射抜く。
「この問いに答える前に、まず聞こう。女が学ぶことを笑った者は、自分が何を学ぶためにここへ来たのか、説明できるか」
誰も答えなかった。
「学ぶとは、誰のものか。男のものか。武士のものか。金持ちのものか。東京の者だけのものか」
福沢の声が、演説館の奥まで届いた。
誰も手を挙げない。
先ほどまで笑っていた学生たちも、今は教卓の傷を見るばかりだった。
新太郎は膝の上で拳を握った。
言うな。
余計なことを言うな。
訛りが出る。
笑われる。
だが、つばきは言った。
女性が学ぶことは、この国の独立に含まれるのか、と。
ならば、自分は何を問う。
越後の雪の中で、辞書を抱えて震えていた自分は、何を聞きにここへ来た。
新太郎は立ち上がった。
椅子が小さく鳴る。
隣の学生が「おい」と小声で言った。
だが、新太郎はもう座れなかった。
“Sir.”
自分の声とは思えないほど、硬い声だった。
福沢の眉が少し上がる。
つばきも、こちらを見た。
心臓が跳ねた。
跳ねるな。今は跳ねるな。
新太郎は息を吸った。
“Can learning change the place where a man was born?”
言えた。
言えた、と思った。
演説館が静まり返る。
新太郎は日本語で続けようとした。
「学問は、人の生まれた場所を変えられますか。身分や、言葉や、訛りを……越えられるのでしょうか」
最後の一語が、少しだけ越後に戻った。
新太郎は、しまった、と思った。
しかも最悪なことに、つばきがこちらを見ている。
先ほどよりも、はっきりと。
頭の中が真っ白になった。
「つまり、その……生まれたところも、身分も、言葉も、学問で越えられるがろっか……いえ、越えられるのでしょうか」
どっと笑いが起きた。
新太郎の耳が熱くなる。
ああ、終わった。
通訳見習い候補、三田にて討ち死に。
故郷の叔父に何と書けばいい。
福沢はしばらく新太郎を見ていた。
それから、にやりと笑った。
「英語より日本語の方が難しそうだな、桐生君」
さらに笑いが起きる。
新太郎は、もう消えてしまいたかった。
だが、福沢はすぐに教卓を叩いた。
ぱん。
笑いが止まる。
「笑うな。今のは、よい問いだ」
演説館が静かになった。
福沢の目は、もう笑っていなかった。
「学問は、生まれた土地を消すものではない。身分を飾るものでもない。己の足で立つために使うものだ」
福沢は教卓の傷を指で叩いた。
「この木は、英国の海を知っている。砲撃も、波も、異国の風も知っている。だが今は、三田で学問を支えている。過去が消えたのではない。役目が変わったのだ」
そして、新太郎を見た。
「君の越後も同じだ」
新太郎は息を呑んだ。
「隠すな。背負え」
その言葉は、教卓を叩く音より強く、新太郎の胸に響いた。
隠すな。
背負え。
新太郎は、自分の口元に手をやりかけて、やめた。
ずっと隠そうとしていた。
訛りを。
生まれを。
雪国から来た自分を。
けれど、それは消すものではないのかもしれない。
背負って、前へ出るものなのかもしれない。
福沢は今度はつばきへ目を向けた。
「有馬君の問いにも答えよう。女が学ぶことは、この国の独立に含まれるか」
つばきはまばたきもせずに福沢を見ている。
「含まれるに決まっている」
小さなどよめきが起きた。
福沢は構わず続ける。
「国とは、男だけでできているのか。武士だけでできているのか。役人だけでできているのか。違う。ならば学問も同じだ。学ぶ者が増えれば、国の足腰は強くなる」
つばきの指が、洋書の角から離れた。
紙はもう歪んでいない。
福沢は教卓の上から一冊の洋書を取り上げた。
「有馬君。これを読みなさい」
つばきが受け取る。
表紙に英字が並んでいた。
The Subjection of Women.
新太郎は題名を読んで、目を見開いた。
女性の従属。
つばきも題名を見て、一瞬だけ息を止めた。
福沢は言った。
「火をつけに来たのなら、薪は多い方がよかろう」
つばきの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「ありがたく、燃やします」
「本まで燃やすな。読みなさい」
今度は演説館が素直に笑った。
新太郎も笑った。
つばきも、ほんの少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、新太郎の胸がまた跳ねた。
これは学問の熱だ。
たぶん。
おそらく。
そういうことにしておきたい。
講義が終わっても、新太郎はしばらく席を立てなかった。
学生たちは興奮した様子で議論しながら出口へ向かっていく。
「女にも学問か」
「福沢先生は大胆すぎる」
「いや、面白い。世の中、本当に変わるのかもしれん」
隣の学生が新太郎の肩を叩いた。
「越後」
「桐生です」
「いい問いだったぞ、桐生」
新太郎は驚いて隣を見た。
学生は少し照れたように笑った。
「俺は何も言えなかった。だから、少し悔しい」
「……ありがとうございます」
今度は訛らなかった。
いや、少し訛ったかもしれない。
でも、不思議と先ほどほど怖くなかった。
演説館を出ると、坂道に冷たい風が吹いていた。
新太郎は胸の奥に、まだ教卓を叩く音を聞いていた。
さっきまで自分を試していた坂道は、どうやらまだ続いているらしい。
ただし今度は、少しだけ、登ってみたいと思えた。
そのときだった。
門の外に、女が一人立っていた。
三味線箱を抱えた、旅芸者のような女だった。
艶やかな着物。結い上げた髪。目元には笑み。
だが、どこか影のように薄い。
新太郎は一瞬、その女と目が合った気がした。
いや、違う。
女が見ていたのは、新太郎ではない。
少し前を歩く、有馬つばきだった。
女は、ほんの少しだけ笑った。
「火種が二つ。さて、どちらが先に燃えるやら」
風が吹いた。
女の袖口から、小さな女児用の髪紐が覗いた。
新太郎が瞬きをした次の瞬間、女の姿は人波に紛れて消えていた。
坂の下では、東京の町がざわめいている。
江戸の名残と、新しい時代の音が混ざり合う町。
新太郎は無意識に、自分の舌で小さく呟いた。
「……始まった、がろっか」
今度は、口を押さえなかった。


