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第1章「福沢諭吉の教え」第2話「女が学ぶということ」

講義が終わった演説館は、しばらく火事の後のようだった。

もちろん、本当に燃えたわけではない。

だが、福沢諭吉の言葉は確かに学生たちの胸へ火をつけたらしい。あちらこちらで議論が始まり、廊下に出ても、庭へ下りても、誰もがまだ先ほどの講義の続きを口にしていた。

「女が学ぶことまで独立に含めるとはな」

「だが、福沢先生の言う通りだろう。国が男だけでできているわけではない」

「それより、越後の男だ。英語で質問したぞ」

「最後は思い切り訛っていたがな」

「あれはあれで勢いがあった」

新太郎は、木の柱の陰で頭を抱えた。

「忘れてください……今すぐ忘れてください……」

隣に立っていた例の学生が、にやにやしている。

名前はまだ聞いていない。だが、もう遠慮なく話しかけてくるあたり、東京の学生は距離の詰め方も坂道並みに急だった。

「無理だな。あれはしばらく語り草になる」

「やめてください」

「いいじゃないか。福沢先生に名前を覚えられたぞ、桐生」

「討ち死にした者の名としてです」

「生きてる生きてる。耳まで赤いが」

新太郎は両耳を押さえた。

「赤いですか」

「かなり」

「東京では耳にも訛りが出るんですか」

「出るな」

「もう信じません」

「成長が早い」

学生は満足そうに頷いた。

新太郎は小さく息を吐き、庭の方へ目を向けた。

学生たちの視線の先に、有馬つばきがいた。

彼女は福沢から受け取った洋書を胸に抱えている。深い藍の着物に、白い紙の表紙が妙に映えていた。近くの学生たちは話しかけるでもなく、しかし見ないふりもできず、彼女の周囲に半円のような空白を作っている。

その中心で、つばきは一人、静かに立っていた。

先ほど演説館で見た時と同じように、凛としている。

けれど新太郎には、分かってしまった。

彼女の指が、洋書の背を少し強く握っている。

怖くないわけではない。

笑われても平気なわけではない。

それでも立つ。

そのことが、講義中よりも、今の方がずっと胸に刺さった。

「桐生」

隣の学生が肘でつついてくる。

「はい」

「今のうちに有馬君へ挨拶しておけ」

「なぜです」

「あとで勇気が尽きる顔をしている」

「顔に出ますか」

「お前はだいたい顔に出る。東京ではな」

「東京、怖すぎませんか」

「だが便利だろう」

「僕の顔を便利に使わないでください」

そう言いながらも、新太郎の足は動かなかった。

つばきへ話しかける。

それは、福沢へ英語で質問するより難しい気がした。

英語には文法がある。フランス語にも規則がある。相手が間違いを指摘してくれれば、直せばいい。

だが、彼女に何を言えばいい。

先ほどの問い、よかったです。

いや、上から目線ではないか。

火のつけ方がお見事でした。

放火の共犯みたいではないか。

洋書、お似合いですね。

何を言っているんだ、自分は。

新太郎が頭の中で十通りほど失敗していると、つばきの方がこちらを向いた。

目が合った。

逃げる間もなく、彼女が歩いてくる。

新太郎の隣の学生が「おお」と小さく声を上げ、さっと一歩引いた。逃げ足が速い。

つばきは新太郎の前で足を止めた。

近い。

思ったより、近い。

「桐生新太郎さん、でしたね」

「は、はい。桐生新太郎です」

声が裏返らなかった。

それだけで今日二度目の勝利と言っていい。

つばきは真っすぐ新太郎を見た。

「先ほどの問い、よかったです」

新太郎は、今度こそ声が出なかった。

褒められた。

有馬つばきに。

福沢先生の前で火をつけに来た人に。

「あ、ありがとうございます。ですが、その、最後に訛りましたし」

「訛りは、問いの価値を下げません」

即答だった。

新太郎は思わず顔を上げる。

つばきは少しだけ首を傾げた。

「それに、先生もおっしゃっていたでしょう。隠すな、背負え、と」

「……聞いていましたか」

「演説館の端まで響いていました」

「ですよね」

新太郎は片手で顔を覆った。

つばきの口元が、ほんの少し緩む。

「桐生さんは、英語で問いを立てました。あれは、私にはできません」

「でも、有馬さんの問いの方が、ずっと強かったです」

「そうでしょうか」

「はい。僕の問いは、自分のことです。生まれた場所や訛りを越えられるのか。けれど有馬さんの問いは、もっと多くの人の席を開ける問いでした」

言ってから、新太郎は自分で驚いた。

思ったより、すらすらと言葉が出た。

つばきも少しだけ目を見開いている。

「……桐生さんは、そういう風に聞いてくださったのですね」

「え?」

「多くの人の席を開ける問い、と」

つばきは胸元の洋書を抱え直した。

「笑われるのは、慣れているつもりでした」

その声は、先ほどより少し小さかった。

「でも、やっぱり慣れませんね」

新太郎は何か言おうとして、言葉を探した。

気の利いた慰め。

励まし。

福沢先生の言葉のような、胸に残る一言。

何か。

「でも、有馬さんは火をつけるとおっしゃっていましたし」

つばきの眉がぴくりと動いた。

「私を放火犯のように言わないでください」

「す、すみません」

失敗した。

見事に失敗した。

だが、つばきは少しだけ笑った。

声を立てない、小さな笑いだった。

「でも、そうですね。火をつけると言った以上、煙にむせたくらいで泣き言は言えません」

「煙にむせたら、泣いてもいいと思います」

「桐生さんは、変なところで真面目ですね」

「よく言われます」

「褒めてはいません」

「薄々分かっていました」

二人の間に、ほんの少しだけ柔らかい空気が生まれた。

新太郎は、それを壊さないように息をした。

つばきは胸に抱えていた洋書を見下ろす。

「福沢先生からいただいた本ですが」

表紙には、英字が並んでいる。

The Subjection of Women.

「題名は読めます。ですが、本文は少し難しくて」

「ジョン・スチュアート・ミルですね」

「ご存じなのですか」

「少しだけ。辞書と格闘しながらですが」

「では、教えてください」

「えっ」

つばきは当然のように本を開いた。

「この一文です」

「ここで、ですか」

「ここで、です」

つばきはまっすぐだった。

本当にまっすぐだった。

新太郎は周囲を見た。学生たちがまだちらちらこちらを見ている。隣の学生は少し離れた柱の陰から、ものすごく楽しそうに見守っていた。

やめてほしい。

しかし、つばきはもう本文を指差している。

新太郎は観念して、彼女の横へ少し近づいた。

近い。

本が近い。

肩が近い。

いや、本より肩が近い。

字を読め。

英文を読め。

肩を読むな。

「桐生さん?」

「はい。主語は……ええと、私です」

つばきが瞬きをした。

「あなたが主語なのですか」

「違います」

「では、どなたが主語なのですか」

「本文です」

「本文が主語なのですか」

「違います。少々お待ちください。僕が今、文法上たいへん不名誉な混乱をしています」

つばきは口元を押さえた。

笑われている。

だが、不思議と嫌ではなかった。

新太郎は改めて英文を見た。

書かれているのは、女性の自由と社会の習慣についての一節だった。単語は難しい。文も長い。だが、言わんとしていることは分かる。

新太郎は少し考えてから、ゆっくり訳した。

「これは……女性の従属は、生まれながらのものではなく、社会の習慣がそう見せている、という意味だと思います」

つばきの表情が変わった。

先ほどまでのからかうような目ではない。

本当に、その言葉を受け取ろうとしている目だった。

「生まれながら、ではなく」

「はい」

「当然に見せられているだけ」

「そう読めます」

つばきは本の行を指でなぞった。

「では、習慣を変えればよいのですね」

「簡単にはいかないと思います」

「なぜですか」

「習慣は、法律よりしぶといからです」

つばきは顔を上げた。

「では、法律より先に、人の考え方を変える必要がある」

「有馬さんは、すぐ結論へ走りますね」

「桐生さんは、すぐ立ち止まりますね」

二人は同時に黙った。

気まずい沈黙ではなかった。

互いに、相手の言葉をもう一度考えている沈黙だった。

新太郎は小さく息を吐いた。

「……でも、立ち止まらなければ見えないものもあります」

「走らなければ変わらないものもあります」

「どちらも必要、ということですか」

「たぶん」

つばきは少しだけ笑った。

「悔しいですが、たぶん」

新太郎もつられて笑った。

この人は、ただ強く進むだけではない。

反論されれば、ちゃんと考える。

そして、考えた上でまた前へ進もうとする。

つばきは本を閉じずに、ふと声を落とした。

「以前、父の客人に言われたことがあります」

「客人に?」

「女が英語を覚えても、よい嫁ぎ先で外国人の奥方と茶を飲むくらいにしか役に立たない、と」

新太郎は言葉を失った。

つばきは指先で英文の行を押さえた。

「その時、私は何も言い返せませんでした。悔しかったのは、馬鹿にされたことではありません」

「では、何が」

「自分でも、何のために学んでいるのか、まだ答えられなかったことです」

風が廊下を抜け、紙の端を小さく揺らした。

つばきはその紙を押さえながら続ける。

「だから今日、福沢先生に問いたかったのです。女が学ぶことは、この国の独立に含まれるのか。もし含まれるなら、私はその答えから逃げずに済むと思ったから」

新太郎は、つばきが最前列に座っていた理由を、少しだけ知った気がした。

彼女は目立ちたかったのではない。

勝ちたかっただけでもない。

自分の問いを、誰かに預けず、自分で持つためにあの席へ座っていたのだ。

「当然だと思われているものを疑うことが、学問なのですね」

つばきは、先ほどより静かな声で言った。

新太郎は頷いた。

「きっと、そうです」

「通訳とは」

つばきが言った。

「ただ言葉を置き換えるだけではないのですね」

新太郎は胸の奥が熱くなった。

福沢に褒められた時とも違う。

自分の学んできたものが、初めて誰かの手に渡ったような感覚だった。

辞書の中で眠っていた単語が、つばきの目の中で火になる。

新太郎は初めて知った。

翻訳とは、言葉を右から左へ運ぶことではない。

誰かの中に、まだなかった窓を開けることなのだ。

「僕はまだ、そんな大層なものでは」

「でも、今の一文は、私一人ではここまで読めませんでした」

つばきは新太郎を見た。

「ありがとうございます、桐生さん」

今度こそ、新太郎は完全に固まった。

有馬つばきに、礼を言われた。

しかも、真っすぐ。

「い、いえ。僕は、その、辞書の代わりみたいなもので」

「辞書は照れません」

「すみません」

「なぜ謝るのですか」

「分かりません」

遠くで隣の学生が腹を抱えているのが見えた。

絶対に後で何か言われる。

その時、背後から声がした。

「辞書より役に立つなら、まずは上等だ」

二人は同時に振り返った。

福沢諭吉が立っていた。

新太郎は慌てて背筋を伸ばす。

「ふ、福沢先生」

「桐生君。君は言葉を訳す前に、相手が何を恐れているかを見なさい」

新太郎は息を呑んだ。

「恐れているもの、ですか」

「人は、言いたいことだけを言葉にするわけではない。隠したいものも、恐れているものも、言葉の端に出る。通訳をするなら、そこを聞き落とすな」

相手が何を恐れているか。

新太郎は、つばきの指が本の背を強く握っていたことを思い出した。

自分は英語の単語ばかり見ていた。

けれど彼女が本当に読もうとしていたのは、文字だけではなかったのかもしれない。

福沢の目が、今度はつばきへ向く。

「有馬君」

「はい」

「君は火をつけるなら、燃え残った者をどう守るかも考えなさい」

つばきの表情が引き締まった。

「燃え残った者、ですか」

「火は人を照らすが、扱いを誤れば家も焼く。学問も同じだ。正しさだけで人は救えん」

つばきは、先ほど自分を笑った学生たちを見た。

彼らを黙らせれば勝ちだと思っていた。

けれど、黙らせた後に何を残すのか。

そこまでは、まだ考えていなかった。

つばきは洋書を胸に抱えたまま、深く頭を下げた。

「覚えておきます」

「忘れたころに、また思い出せばよい」

福沢はそう言って、二人の間に視線を落とした。

「それから」

「はい」

「二人で本を読むなら、人の通り道を塞がない場所で読みなさい」

新太郎とつばきは同時に周囲を見た。

いつの間にか、廊下の真ん中で本を広げていた。

学生たちが実に通りにくそうにしている。

「す、すみません!」

新太郎が飛び退く。

つばきも一歩下がった。

その拍子に、二人の肩が軽くぶつかった。

「あっ」

「失礼しました」

「こちらこそ」

二人が同時に頭を下げ、また同時に顔を上げる。

そして、なぜか二人とも少し笑ってしまった。

福沢はそれを見て、軽く教卓の方へ戻っていく。

「若い者は、通り道も時代も塞がぬようにな」

廊下にまた笑いが広がった。

演説館を出るころには、空は少し白く曇っていた。

三田の坂道に、冷たい風が流れている。

新太郎とつばきは、自然と並んで歩いていた。

いや、自然ではない。

新太郎の側はかなり不自然だった。

右手と右足が一緒に出そうになるのを、必死で押さえている。

つばきは気づいているのか、いないのか、洋書を抱えたまま前を見ていた。

「女が学ぶということは」

つばきがぽつりと言った。

「男と同じ机に座ることだけではないのですね」

新太郎は彼女を見る。

「では、何だと思いますか」

つばきは少し考えた。

「誰かに与えられた答えではなく、自分の問いを持つことです」

坂道を下りる足音が、二人分重なった。

「そして、その問いで誰かの席を一つ増やすこと」

新太郎は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。

「有馬さんの問いは、もう一つ席を増やしたと思います」

「だといいのですが」

「少なくとも、僕の中には増えました」

つばきは足を止めた。

「桐生さんは、時々とても真っすぐなことを言いますね」

「いけませんか」

「いいえ」

つばきは少しだけ視線を逸らした。

「少し、驚くだけです」

新太郎は、それ以上何を言えばいいか分からなくなった。

とりあえず黙った。

黙ったら黙ったで、鼓動がうるさかった。

「桐生さんは、使節団に関わるのですよね」

突然言われ、新太郎は足を滑らせかけた。

「な、なぜそれを」

「先ほど、任命書らしきものを大事そうに触っていましたから」

見られていた。

やはり顔だけでなく、手元にも全部出るらしい。

「まだ候補です。通訳見習いですし、本当に役に立てるかどうか」

「役に立てます」

「即答ですね」

「先ほど役に立ちました」

新太郎は何も言えなくなった。

つばきは少しだけ声を落とす。

「私の父も、使節団に関わる国書の準備について、相談を受けているようです」

「お父上は、政府の方なのですか」

「正式な役人ではありません。ただ、横浜の外国商館との取引があるため、紙や封蝋、輸送の手配で相談を受けていると聞いています」

「封蝋……」

新太郎は思わず反応した。

「はい。外交文書です。封蝋を施し、決して改ざんされぬよう厳重に保管すると」

封蝋。

赤い蝋で閉じられた文書。

国と国との約束を包む、小さな赤い印。

新太郎は任命書の端を思い出した。

紙は薄い。

だが、そこに乗る言葉は重い。

つばきは坂の下へ目を向けた。

「桐生さん。私、学びたいだけではありません」

風が、彼女の髪を少し揺らした。

「学んだもので、何かを変えたいのです」

新太郎は、その横顔を見た。

演説館の最前列にいた少女。

怖くても立つ人。

火をつけると言った人。

今は、その火をどう使うかを考え始めている人。

新太郎は、ゆっくりと言った。

「僕は、変えるための言葉を、まだ持っていません」

つばきがこちらを見る。

新太郎は少しだけ笑った。

「でも、探したいとは思います」

つばきは、ほんの少し目を細めた。

「なら、一緒に探しましょう」

その言葉は、あまりにも自然に出てきた。

一緒に。

新太郎の中で、その二文字だけが妙に大きく響いた。

「……一緒に」

「嫌ですか」

「いえ! 嫌ではありません。まったく。むしろ、その、たいへん光栄で」

「また顔に出ています」

「どのように」

「通訳見習いというより、叱られた犬のように」

「犬ですか」

「褒めています」

「本当ですか」

「少しだけ」

つばきはそう言って、今度ははっきり笑った。

新太郎は、もう学問の熱のせいにするのを諦めかけた。

そのとき、坂の向こうの人波がふと揺れた。

三味線箱を抱えた旅芸者風の女が、辻の陰に立っている。

演説館の門の外で見た女。

艶やかな着物。

笑っているようで、何も笑っていない目。

女は新太郎ではなく、つばきを見ていた。

いや、つばきの口から出た「国書」と「封蝋」という言葉を聞いていたように見えた。

新太郎が一歩踏み出す。

「あの」

女の姿が、人波に紛れた。

追いかけようとしたが、荷車が横切り、洋装の役人たちが通り過ぎ、次の瞬間にはもうどこにもいない。

ただ、風の中にかすかな香が残った。

甘い。

けれど、どこか薬品めいた匂い。

新太郎は思わず鼻を押さえた。

つばきが首を傾げる。

「どうかしましたか」

「いえ……香の匂いが」

「香?」

つばきは周囲を見た。

だが、坂道にはもう、荷車の土埃と冬の風の匂いしかなかった。

「桐生さんの知り合いですか」

「たぶん、違います」

「それは知り合いとは言わないのでは」

「おっしゃる通りです」

新太郎は苦笑した。

だが、胸の奥に小さな棘が残った。

旅芸者風の女。

女児用の髪紐。

国書と封蝋。

そして、甘く薬品めいた香。

それらはまだ、何の文章にもなっていない。

けれど、新太郎にはなぜか、それらがいつか一つの意味に結ばれるような気がした。

坂の下で、東京の町がざわめいている。

新しい時代の音。

まだ誰にも訳されていない、不穏な音。

つばきは洋書を抱き直し、前を向いた。

「桐生さん」

「はい」

「次にお会いする時までに、この本の続きを少しでも読んでおきます」

「では、僕も続きを訳せるようにしておきます」

「競争ですね」

「えっ」

「負けません」

「僕は何に巻き込まれているのでしょうか」

「学問です」

つばきはそう言って、軽やかに坂を下り始めた。

新太郎は少し遅れて、その背中を追う。

東京の坂道は、やはり少々いじわるだ。

足もとには、まだ知らない時代の影が伸びている。

それでも今は、先ほどより少しだけ、足取りが軽かった。

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