講義が終わった演説館は、しばらく火事の後のようだった。
もちろん、本当に燃えたわけではない。
だが、福沢諭吉の言葉は確かに学生たちの胸へ火をつけたらしい。あちらこちらで議論が始まり、廊下に出ても、庭へ下りても、誰もがまだ先ほどの講義の続きを口にしていた。
「女が学ぶことまで独立に含めるとはな」
「だが、福沢先生の言う通りだろう。国が男だけでできているわけではない」
「それより、越後の男だ。英語で質問したぞ」
「最後は思い切り訛っていたがな」
「あれはあれで勢いがあった」
新太郎は、木の柱の陰で頭を抱えた。
「忘れてください……今すぐ忘れてください……」
隣に立っていた例の学生が、にやにやしている。
名前はまだ聞いていない。だが、もう遠慮なく話しかけてくるあたり、東京の学生は距離の詰め方も坂道並みに急だった。
「無理だな。あれはしばらく語り草になる」
「やめてください」
「いいじゃないか。福沢先生に名前を覚えられたぞ、桐生」
「討ち死にした者の名としてです」
「生きてる生きてる。耳まで赤いが」
新太郎は両耳を押さえた。
「赤いですか」
「かなり」
「東京では耳にも訛りが出るんですか」
「出るな」
「もう信じません」
「成長が早い」
学生は満足そうに頷いた。
新太郎は小さく息を吐き、庭の方へ目を向けた。
学生たちの視線の先に、有馬つばきがいた。
彼女は福沢から受け取った洋書を胸に抱えている。深い藍の着物に、白い紙の表紙が妙に映えていた。近くの学生たちは話しかけるでもなく、しかし見ないふりもできず、彼女の周囲に半円のような空白を作っている。
その中心で、つばきは一人、静かに立っていた。
先ほど演説館で見た時と同じように、凛としている。
けれど新太郎には、分かってしまった。
彼女の指が、洋書の背を少し強く握っている。
怖くないわけではない。
笑われても平気なわけではない。
それでも立つ。
そのことが、講義中よりも、今の方がずっと胸に刺さった。
「桐生」
隣の学生が肘でつついてくる。
「はい」
「今のうちに有馬君へ挨拶しておけ」
「なぜです」
「あとで勇気が尽きる顔をしている」
「顔に出ますか」
「お前はだいたい顔に出る。東京ではな」
「東京、怖すぎませんか」
「だが便利だろう」
「僕の顔を便利に使わないでください」
そう言いながらも、新太郎の足は動かなかった。
つばきへ話しかける。
それは、福沢へ英語で質問するより難しい気がした。
英語には文法がある。フランス語にも規則がある。相手が間違いを指摘してくれれば、直せばいい。
だが、彼女に何を言えばいい。
先ほどの問い、よかったです。
いや、上から目線ではないか。
火のつけ方がお見事でした。
放火の共犯みたいではないか。
洋書、お似合いですね。
何を言っているんだ、自分は。
新太郎が頭の中で十通りほど失敗していると、つばきの方がこちらを向いた。
目が合った。
逃げる間もなく、彼女が歩いてくる。
新太郎の隣の学生が「おお」と小さく声を上げ、さっと一歩引いた。逃げ足が速い。
つばきは新太郎の前で足を止めた。
近い。
思ったより、近い。
「桐生新太郎さん、でしたね」
「は、はい。桐生新太郎です」
声が裏返らなかった。
それだけで今日二度目の勝利と言っていい。
つばきは真っすぐ新太郎を見た。
「先ほどの問い、よかったです」
新太郎は、今度こそ声が出なかった。
褒められた。
有馬つばきに。
福沢先生の前で火をつけに来た人に。
「あ、ありがとうございます。ですが、その、最後に訛りましたし」
「訛りは、問いの価値を下げません」
即答だった。
新太郎は思わず顔を上げる。
つばきは少しだけ首を傾げた。
「それに、先生もおっしゃっていたでしょう。隠すな、背負え、と」
「……聞いていましたか」
「演説館の端まで響いていました」
「ですよね」
新太郎は片手で顔を覆った。
つばきの口元が、ほんの少し緩む。
「桐生さんは、英語で問いを立てました。あれは、私にはできません」
「でも、有馬さんの問いの方が、ずっと強かったです」
「そうでしょうか」
「はい。僕の問いは、自分のことです。生まれた場所や訛りを越えられるのか。けれど有馬さんの問いは、もっと多くの人の席を開ける問いでした」
言ってから、新太郎は自分で驚いた。
思ったより、すらすらと言葉が出た。
つばきも少しだけ目を見開いている。
「……桐生さんは、そういう風に聞いてくださったのですね」
「え?」
「多くの人の席を開ける問い、と」
つばきは胸元の洋書を抱え直した。
「笑われるのは、慣れているつもりでした」
その声は、先ほどより少し小さかった。
「でも、やっぱり慣れませんね」
新太郎は何か言おうとして、言葉を探した。
気の利いた慰め。
励まし。
福沢先生の言葉のような、胸に残る一言。
何か。
「でも、有馬さんは火をつけるとおっしゃっていましたし」
つばきの眉がぴくりと動いた。
「私を放火犯のように言わないでください」
「す、すみません」
失敗した。
見事に失敗した。
だが、つばきは少しだけ笑った。
声を立てない、小さな笑いだった。
「でも、そうですね。火をつけると言った以上、煙にむせたくらいで泣き言は言えません」
「煙にむせたら、泣いてもいいと思います」
「桐生さんは、変なところで真面目ですね」
「よく言われます」
「褒めてはいません」
「薄々分かっていました」
二人の間に、ほんの少しだけ柔らかい空気が生まれた。
新太郎は、それを壊さないように息をした。
つばきは胸に抱えていた洋書を見下ろす。
「福沢先生からいただいた本ですが」
表紙には、英字が並んでいる。
The Subjection of Women.
「題名は読めます。ですが、本文は少し難しくて」
「ジョン・スチュアート・ミルですね」
「ご存じなのですか」
「少しだけ。辞書と格闘しながらですが」
「では、教えてください」
「えっ」
つばきは当然のように本を開いた。
「この一文です」
「ここで、ですか」
「ここで、です」
つばきはまっすぐだった。
本当にまっすぐだった。
新太郎は周囲を見た。学生たちがまだちらちらこちらを見ている。隣の学生は少し離れた柱の陰から、ものすごく楽しそうに見守っていた。
やめてほしい。
しかし、つばきはもう本文を指差している。
新太郎は観念して、彼女の横へ少し近づいた。
近い。
本が近い。
肩が近い。
いや、本より肩が近い。
字を読め。
英文を読め。
肩を読むな。
「桐生さん?」
「はい。主語は……ええと、私です」
つばきが瞬きをした。
「あなたが主語なのですか」
「違います」
「では、どなたが主語なのですか」
「本文です」
「本文が主語なのですか」
「違います。少々お待ちください。僕が今、文法上たいへん不名誉な混乱をしています」
つばきは口元を押さえた。
笑われている。
だが、不思議と嫌ではなかった。
新太郎は改めて英文を見た。
書かれているのは、女性の自由と社会の習慣についての一節だった。単語は難しい。文も長い。だが、言わんとしていることは分かる。
新太郎は少し考えてから、ゆっくり訳した。
「これは……女性の従属は、生まれながらのものではなく、社会の習慣がそう見せている、という意味だと思います」
つばきの表情が変わった。
先ほどまでのからかうような目ではない。
本当に、その言葉を受け取ろうとしている目だった。
「生まれながら、ではなく」
「はい」
「当然に見せられているだけ」
「そう読めます」
つばきは本の行を指でなぞった。
「では、習慣を変えればよいのですね」
「簡単にはいかないと思います」
「なぜですか」
「習慣は、法律よりしぶといからです」
つばきは顔を上げた。
「では、法律より先に、人の考え方を変える必要がある」
「有馬さんは、すぐ結論へ走りますね」
「桐生さんは、すぐ立ち止まりますね」
二人は同時に黙った。
気まずい沈黙ではなかった。
互いに、相手の言葉をもう一度考えている沈黙だった。
新太郎は小さく息を吐いた。
「……でも、立ち止まらなければ見えないものもあります」
「走らなければ変わらないものもあります」
「どちらも必要、ということですか」
「たぶん」
つばきは少しだけ笑った。
「悔しいですが、たぶん」
新太郎もつられて笑った。
この人は、ただ強く進むだけではない。
反論されれば、ちゃんと考える。
そして、考えた上でまた前へ進もうとする。
つばきは本を閉じずに、ふと声を落とした。
「以前、父の客人に言われたことがあります」
「客人に?」
「女が英語を覚えても、よい嫁ぎ先で外国人の奥方と茶を飲むくらいにしか役に立たない、と」
新太郎は言葉を失った。
つばきは指先で英文の行を押さえた。
「その時、私は何も言い返せませんでした。悔しかったのは、馬鹿にされたことではありません」
「では、何が」
「自分でも、何のために学んでいるのか、まだ答えられなかったことです」
風が廊下を抜け、紙の端を小さく揺らした。
つばきはその紙を押さえながら続ける。
「だから今日、福沢先生に問いたかったのです。女が学ぶことは、この国の独立に含まれるのか。もし含まれるなら、私はその答えから逃げずに済むと思ったから」
新太郎は、つばきが最前列に座っていた理由を、少しだけ知った気がした。
彼女は目立ちたかったのではない。
勝ちたかっただけでもない。
自分の問いを、誰かに預けず、自分で持つためにあの席へ座っていたのだ。
「当然だと思われているものを疑うことが、学問なのですね」
つばきは、先ほどより静かな声で言った。
新太郎は頷いた。
「きっと、そうです」
「通訳とは」
つばきが言った。
「ただ言葉を置き換えるだけではないのですね」
新太郎は胸の奥が熱くなった。
福沢に褒められた時とも違う。
自分の学んできたものが、初めて誰かの手に渡ったような感覚だった。
辞書の中で眠っていた単語が、つばきの目の中で火になる。
新太郎は初めて知った。
翻訳とは、言葉を右から左へ運ぶことではない。
誰かの中に、まだなかった窓を開けることなのだ。
「僕はまだ、そんな大層なものでは」
「でも、今の一文は、私一人ではここまで読めませんでした」
つばきは新太郎を見た。
「ありがとうございます、桐生さん」
今度こそ、新太郎は完全に固まった。
有馬つばきに、礼を言われた。
しかも、真っすぐ。
「い、いえ。僕は、その、辞書の代わりみたいなもので」
「辞書は照れません」
「すみません」
「なぜ謝るのですか」
「分かりません」
遠くで隣の学生が腹を抱えているのが見えた。
絶対に後で何か言われる。
その時、背後から声がした。
「辞書より役に立つなら、まずは上等だ」
二人は同時に振り返った。
福沢諭吉が立っていた。
新太郎は慌てて背筋を伸ばす。
「ふ、福沢先生」
「桐生君。君は言葉を訳す前に、相手が何を恐れているかを見なさい」
新太郎は息を呑んだ。
「恐れているもの、ですか」
「人は、言いたいことだけを言葉にするわけではない。隠したいものも、恐れているものも、言葉の端に出る。通訳をするなら、そこを聞き落とすな」
相手が何を恐れているか。
新太郎は、つばきの指が本の背を強く握っていたことを思い出した。
自分は英語の単語ばかり見ていた。
けれど彼女が本当に読もうとしていたのは、文字だけではなかったのかもしれない。
福沢の目が、今度はつばきへ向く。
「有馬君」
「はい」
「君は火をつけるなら、燃え残った者をどう守るかも考えなさい」
つばきの表情が引き締まった。
「燃え残った者、ですか」
「火は人を照らすが、扱いを誤れば家も焼く。学問も同じだ。正しさだけで人は救えん」
つばきは、先ほど自分を笑った学生たちを見た。
彼らを黙らせれば勝ちだと思っていた。
けれど、黙らせた後に何を残すのか。
そこまでは、まだ考えていなかった。
つばきは洋書を胸に抱えたまま、深く頭を下げた。
「覚えておきます」
「忘れたころに、また思い出せばよい」
福沢はそう言って、二人の間に視線を落とした。
「それから」
「はい」
「二人で本を読むなら、人の通り道を塞がない場所で読みなさい」
新太郎とつばきは同時に周囲を見た。
いつの間にか、廊下の真ん中で本を広げていた。
学生たちが実に通りにくそうにしている。
「す、すみません!」
新太郎が飛び退く。
つばきも一歩下がった。
その拍子に、二人の肩が軽くぶつかった。
「あっ」
「失礼しました」
「こちらこそ」
二人が同時に頭を下げ、また同時に顔を上げる。
そして、なぜか二人とも少し笑ってしまった。
福沢はそれを見て、軽く教卓の方へ戻っていく。
「若い者は、通り道も時代も塞がぬようにな」
廊下にまた笑いが広がった。
演説館を出るころには、空は少し白く曇っていた。
三田の坂道に、冷たい風が流れている。
新太郎とつばきは、自然と並んで歩いていた。
いや、自然ではない。
新太郎の側はかなり不自然だった。
右手と右足が一緒に出そうになるのを、必死で押さえている。
つばきは気づいているのか、いないのか、洋書を抱えたまま前を見ていた。
「女が学ぶということは」
つばきがぽつりと言った。
「男と同じ机に座ることだけではないのですね」
新太郎は彼女を見る。
「では、何だと思いますか」
つばきは少し考えた。
「誰かに与えられた答えではなく、自分の問いを持つことです」
坂道を下りる足音が、二人分重なった。
「そして、その問いで誰かの席を一つ増やすこと」
新太郎は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
「有馬さんの問いは、もう一つ席を増やしたと思います」
「だといいのですが」
「少なくとも、僕の中には増えました」
つばきは足を止めた。
「桐生さんは、時々とても真っすぐなことを言いますね」
「いけませんか」
「いいえ」
つばきは少しだけ視線を逸らした。
「少し、驚くだけです」
新太郎は、それ以上何を言えばいいか分からなくなった。
とりあえず黙った。
黙ったら黙ったで、鼓動がうるさかった。
「桐生さんは、使節団に関わるのですよね」
突然言われ、新太郎は足を滑らせかけた。
「な、なぜそれを」
「先ほど、任命書らしきものを大事そうに触っていましたから」
見られていた。
やはり顔だけでなく、手元にも全部出るらしい。
「まだ候補です。通訳見習いですし、本当に役に立てるかどうか」
「役に立てます」
「即答ですね」
「先ほど役に立ちました」
新太郎は何も言えなくなった。
つばきは少しだけ声を落とす。
「私の父も、使節団に関わる国書の準備について、相談を受けているようです」
「お父上は、政府の方なのですか」
「正式な役人ではありません。ただ、横浜の外国商館との取引があるため、紙や封蝋、輸送の手配で相談を受けていると聞いています」
「封蝋……」
新太郎は思わず反応した。
「はい。外交文書です。封蝋を施し、決して改ざんされぬよう厳重に保管すると」
封蝋。
赤い蝋で閉じられた文書。
国と国との約束を包む、小さな赤い印。
新太郎は任命書の端を思い出した。
紙は薄い。
だが、そこに乗る言葉は重い。
つばきは坂の下へ目を向けた。
「桐生さん。私、学びたいだけではありません」
風が、彼女の髪を少し揺らした。
「学んだもので、何かを変えたいのです」
新太郎は、その横顔を見た。
演説館の最前列にいた少女。
怖くても立つ人。
火をつけると言った人。
今は、その火をどう使うかを考え始めている人。
新太郎は、ゆっくりと言った。
「僕は、変えるための言葉を、まだ持っていません」
つばきがこちらを見る。
新太郎は少しだけ笑った。
「でも、探したいとは思います」
つばきは、ほんの少し目を細めた。
「なら、一緒に探しましょう」
その言葉は、あまりにも自然に出てきた。
一緒に。
新太郎の中で、その二文字だけが妙に大きく響いた。
「……一緒に」
「嫌ですか」
「いえ! 嫌ではありません。まったく。むしろ、その、たいへん光栄で」
「また顔に出ています」
「どのように」
「通訳見習いというより、叱られた犬のように」
「犬ですか」
「褒めています」
「本当ですか」
「少しだけ」
つばきはそう言って、今度ははっきり笑った。
新太郎は、もう学問の熱のせいにするのを諦めかけた。
そのとき、坂の向こうの人波がふと揺れた。
三味線箱を抱えた旅芸者風の女が、辻の陰に立っている。
演説館の門の外で見た女。
艶やかな着物。
笑っているようで、何も笑っていない目。
女は新太郎ではなく、つばきを見ていた。
いや、つばきの口から出た「国書」と「封蝋」という言葉を聞いていたように見えた。
新太郎が一歩踏み出す。
「あの」
女の姿が、人波に紛れた。
追いかけようとしたが、荷車が横切り、洋装の役人たちが通り過ぎ、次の瞬間にはもうどこにもいない。
ただ、風の中にかすかな香が残った。
甘い。
けれど、どこか薬品めいた匂い。
新太郎は思わず鼻を押さえた。
つばきが首を傾げる。
「どうかしましたか」
「いえ……香の匂いが」
「香?」
つばきは周囲を見た。
だが、坂道にはもう、荷車の土埃と冬の風の匂いしかなかった。
「桐生さんの知り合いですか」
「たぶん、違います」
「それは知り合いとは言わないのでは」
「おっしゃる通りです」
新太郎は苦笑した。
だが、胸の奥に小さな棘が残った。
旅芸者風の女。
女児用の髪紐。
国書と封蝋。
そして、甘く薬品めいた香。
それらはまだ、何の文章にもなっていない。
けれど、新太郎にはなぜか、それらがいつか一つの意味に結ばれるような気がした。
坂の下で、東京の町がざわめいている。
新しい時代の音。
まだ誰にも訳されていない、不穏な音。
つばきは洋書を抱き直し、前を向いた。
「桐生さん」
「はい」
「次にお会いする時までに、この本の続きを少しでも読んでおきます」
「では、僕も続きを訳せるようにしておきます」
「競争ですね」
「えっ」
「負けません」
「僕は何に巻き込まれているのでしょうか」
「学問です」
つばきはそう言って、軽やかに坂を下り始めた。
新太郎は少し遅れて、その背中を追う。
東京の坂道は、やはり少々いじわるだ。
足もとには、まだ知らない時代の影が伸びている。
それでも今は、先ほどより少しだけ、足取りが軽かった。


