学問とは、静かなものだと新太郎は思っていた。
机に向かう。
辞書を引く。
紙に書く。
分からない単語の前で唸る。
それが学問だと思っていた。
だが、有馬つばきと知り合ってから、学問は妙に足が速くなった。
「桐生さん、この訳注は細かすぎます」
三田から少し離れた書肆の軒先で、つばきは新太郎の書いた紙束を見下ろしていた。
彼女の手には、福沢から渡された『The Subjection of Women』がある。まだ数日も経っていないのに、表紙にはすでに何度も開いた跡がついていた。
「細かすぎますか」
「一文に注が五つあります」
「必要かと思いまして」
「ここなど、単語の語源まで書いてあります」
「語源は大切です」
「大切ですが、本文に戻る前に日が暮れます」
新太郎は紙束を覗き込んだ。
確かに、我ながら少し多い。
いや、少しではない。
「ですが、有馬さんもずいぶん読み進めていますね」
「負けたくありませんから」
「何にですか」
「学問に」
「学問は勝負でしたか」
「違うのですか」
つばきは真顔だった。
新太郎は返答に詰まった。
この人は、ときどき真正面から無茶を言う。
「少なくとも、福沢先生はそうはおっしゃっていなかったような」
「では、私がそう決めます」
「決めてしまうのですか」
「はい」
つばきは当然のように頷いた。
新太郎は笑ってしまった。
「有馬さんは、本当に負けず嫌いですね」
「桐生さんもです」
「僕が?」
「そうでなければ、一文に注を五つも書きません」
それは反論しづらかった。
二人は書肆の軒先を離れ、通りへ出た。
使節団事務方からの正式な配属通知は、今日か明日にも届くと聞いている。新太郎は通りを行く役所の使いを見るたび、つい懐の任命書に触れてしまった。
冬の風はまだ冷たい。だが、三田の坂道ほどいじわるではない。横を荷車が通り、魚売りが声を張り、洋装の役人が急ぎ足で過ぎていく。
江戸の名残と、新しい東京の音が混じっていた。
つばきは本を胸に抱えたまま、ふと声を落とした。
「父が、また横浜へ向かうそうです」
「お父上が?」
「はい。使節団に関わる文書のことで、相談を受けているようです」
新太郎の足が少し緩んだ。
「国書の件ですか」
「正式な外交官ではありません。ただ、父は横浜の外国商館との取引があります。上質な紙、封蝋、輸送箱、防湿のための薬剤……そういった準備で、役所から意見を求められていると聞きました」
「封蝋」
新太郎はその言葉を繰り返した。
赤い蝋。
印章。
一度閉じれば、開けた痕跡を残す封。
文書の喉元を守るもの。
そんな比喩が、ふと頭に浮かんだ。
「興味がありますか」
つばきが少し意外そうに見る。
「はい。言葉は紙に書かれて初めて残ります。でも、封が破られれば、その言葉が本物かどうか分からなくなる。通訳が口で伝える言葉とは違う怖さがあります」
「言葉の怖さ、ですか」
「紙の言葉は、本人がいなくても人を動かしますから」
つばきは少し黙った。
「父は、私には危ない仕事だと言います」
「危ないのですか」
「危ないかどうかも、教えてもらえないのです」
その声には、静かな苛立ちがあった。
けれど、ただの反発ではなかった。
つばきは少しだけ声を落とす。
「父は、私を馬鹿にしているわけではありません」
「ええ」
「むしろ、大切にしてくれているのだと思います。だから余計に困るのです」
「困る?」
「優しさで遠ざけられると、怒るこちらが悪者のようでしょう」
新太郎は言葉に詰まった。
つばきは父を尊敬している。
だからこそ、壁が痛い。
守られていると分かるからこそ、その守りをただ破ればいいわけではない。
「私は学びたいだけではありません。父が何をしているのか、国がどんな言葉を異国へ渡そうとしているのか、それを知りたい。けれど、女だからと遠ざけられる」
新太郎は、三田の坂道でつばきが言った言葉を思い出した。
女が学ぶということは、自分の問いを持つこと。
そして、その問いで誰かの席を一つ増やすこと。
「有馬さん」
「はい」
「危ないかどうかも教えてもらえないのは、確かに困りますね」
「でしょう」
「ただ、本当に危ない場合は、一人で確かめに行かないでください」
「なぜです」
「危ないからです」
「それは父と同じ言い方です」
「あ」
新太郎はしまったと思った。
つばきの目が少し細くなる。
「桐生さんも、女は危ない場所へ行くべきではないと?」
「違います。そうではなく」
「では」
「僕が止めるためではありません」
新太郎は慌てて続けた。
「有馬さんが見ようとするなら、僕はその言葉を読みます。僕が立ち止まったら、有馬さんが前を見てください。そういう意味です」
言ってから、新太郎は固まった。
なぜ言った。
なぜ自然に言った。
つばきも一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「一緒に探すと、先日言いましたものね」
「はい。言いました。言いましたが、今、自分で自分の勇気に驚いています」
「顔に出ています」
「またですか」
「はい。今日もよく出ています」
新太郎は額に手を当てた。
その時だった。
人混みの向こうから、鈴のような笑い声が聞こえた。
魚売りの声が、半拍遅れた。
荷車を押す男が、なぜか道を譲った。
洋装の役人が一瞬だけ女を見て、すぐに目を逸らした。
その女は、ただ立っているだけで、道の流れを変えていた。
「まあまあ、若いお二人さん。道の真ん中で睨み合いかい?」
声だけで、空気が変わった。
甘く、柔らかい。
だが、どこか刃物の背で頬を撫でられたような冷たさがある。
新太郎とつばきが振り向く。
そこに、派手な着物の女が立っていた。
艶やかな紅の着物に、異国風の簪。目元には笑み。唇には薄い紅。片手には三味線箱。もう片方の手には、小さな包み。
旅芸者のようにも見える。
だが、普通の芸者ではない。
横浜の港町を思わせるような、どこか異国の匂いをまとっている。
新太郎は思わず息を止めた。
甘い香。
三田の坂道で嗅いだ、あの香りだ。
甘いのに、奥に薬品めいた冷たさがある。
新太郎の喉の奥が、ひやりとした。
花の香りではない。
香で隠した薬の匂いだ。
辞書では引けない単語を、鼻が先に読んでいた。
つばきも気づいたのか、ほんの少し眉を寄せた。
女はつばきへ近づく。
「お嬢さん、いい本を抱えてるねえ。けれど本ばかり見ていると、足元の罠を踏むよ」
つばきが本を抱え直す。
「どなたですか」
「名乗るほどの者じゃないよ。人は私を、お吉に似ていると言うけれどね」
唐人お吉。
異国と日本の狭間で噂になった女の名。
つばきの指が、洋書の表紙を押さえた。
異国に近づいた女として、好奇の目で語られる名。
女が異国を知ると、尊敬より先に噂になる。
つばきは、その名の響きに小さく眉を動かした。
新太郎は女の目を見た。
笑っている。
けれど、目は笑っていない。
いや。
笑っていないだけではない。
周囲を見ている。
屋根。
路地。
荷車の位置。
人の流れ。
誰かに追われている者の目だった。
福沢の声が、新太郎の中で蘇る。
相手が何を恐れているかを見なさい。
この女は何かを恐れている。
それでも、ここに来た。
「お嬢さん」
女はつばきのすぐ横をすれ違う。
ぶつかったように見えた。
つばきが小さく息を呑む。
女の唇が、つばきの耳元へ寄った。
「綺麗な赤ほど、裏で腐るものよ」
つばきの目が見開かれる。
「あんたの親父さんが触れる赤い封。あれは一度、死んだ匂いを吸っている」
新太郎は一歩踏み出した。
「待ってください」
女はちらりと新太郎を見る。
「坊やも、よく鼻を利かせることだね。国書の封は、開けずに殺せる。赤い蝋を信じすぎるんじゃないよ」
その瞬間、女はつばきの帯へ何かを差し込んだ。
紙片。
新太郎の目がそれを捉える。
つばきも追おうとした。
だが、帯に差し込まれた紙片が指に触れる。
追うべきか。
読むべきか。
一瞬の迷いの後、つばきは紙片を抜いた。
女を追う足は新太郎に任せる。
自分は、残された言葉を読む。
「あなたは、いったい」
新太郎が問う。
「知りたがりは嫌いじゃないよ」
女はくすりと笑う。
「けれど、答えを先にもらう癖は、早死にのもとさ」
「なぜ私たちに教えるのですか」
つばきの声に、女は足を止めた。
「私たち?」
女はおかしそうに笑った。
「お嬢さん、もう自分と坊やを一まとめにしているのかい」
つばきの頬がわずかに赤くなる。
新太郎はそれどころではなく固まった。
女は扇子で口元を隠した。
「助けてやるとは言ってないよ。あんたが火に近づけば、こっちも都合がいい。それだけさ」
「都合?」
「火はね、暗い場所を照らす。けれど照らされたくない者は、先に火を消そうとする」
女の目から、笑みが消えた。
「消される前に、嗅ぎな。赤い封の匂いを」
言い終えるより早く、女は人混みへ身を滑らせた。
「待ってください!」
新太郎は追いかけた。
荷車が横切る。
馬がいななく。
魚売りが怒鳴る。
洋装の役人たちが通りを塞ぐ。
女はそのすべてを、まるで水の流れを読むようにかわしていく。
振り向きもしない。
ただ一度だけ、袖口が揺れた。
小さな女児用の髪紐が見えた。
演説館の門の外。
三田の坂道。
同じ髪紐。
新太郎がもう一歩踏み出そうとした瞬間、荷箱を積んだ荷車が目の前を塞いだ。
「危ねえぞ、若旦那!」
「す、すみません!」
荷車が過ぎた時には、女の姿はどこにもなかった。
香りだけが残っている。
甘く、薬品めいた香り。
やがてそれも、冬の風に薄れて消えた。
新太郎は息を切らして戻った。
つばきは通りの端に立ち、帯から取り出した紙片を見つめている。
「有馬さん」
「これを」
つばきが紙片を差し出す。
細い筆跡だった。
墨は薄い。
だが、文字は鋭い。
封蝋を嗅げ。赤き封は二度押される。
新太郎は、声に出さずに読んだ。
封蝋を嗅げ。
赤き封は二度押される。
「二度押し……」
「どういう意味でしょう」
つばきの声には、怯えよりも苛立ちが混じっていた。
知らないことへの怒り。
自分の父が危険に近づいているかもしれないのに、何も分からないことへの怒り。
「二つ、考えられます」
新太郎は紙片を見つめた。
「二つ?」
「一つは、封を一度開けて、中身を入れ替えた後に押し直したという意味」
つばきの顔が強張る。
「もう一つは」
「本物の印の上から、別の何かを塗ったという意味です。香りで気づけ、というなら……後者かもしれません」
「別の何か」
「分かりません。毒なのか、薬なのか、それともただの合図なのか」
新太郎は正直に言った。
「でも、あの人はただの悪戯でこれを渡したのではないと思います」
「なぜそう思うのですか」
「笑っていました。でも、恐れていました」
つばきが新太郎を見る。
「恐れていた?」
「周囲をずっと見ていました。逃げ道を確かめていた。誰かに追われているのか、あるいは、誰かに見られてはいけなかったのか」
新太郎は、女の目を思い出す。
からかうような口調。
艶やかな笑み。
だが、その奥にあった冷たい焦り。
新太郎は初めて、辞書に載らないものを訳そうとしていた。
香り。
逃げ道を見る目。
封蝋という一語に隠された、誰かの悪意。
言葉は、紙の上だけにあるわけではない。
「福沢先生が言っていました。言葉を訳す前に、相手が何を恐れているかを見なさい、と」
つばきは紙片を握った。
「では、あの方は何を恐れていたのでしょう」
「それが分かれば、もう少し訳せるのですが」
「訳す?」
「はい」
新太郎は紙片を見る。
「これは言葉ですが、まだ意味になっていません。封蝋、二度押し、国書、有馬家。ばらばらの単語です。でも、きっと繋がっています」
つばきは少し黙った。
それから、決意したように顔を上げる。
「父の文書を確かめます」
「一人でですか」
「一人で行くな、と言うのでしょう」
「はい」
「父が危険に巻き込まれているかもしれないなら、私は待っていられません」
その言葉で、新太郎は止める言葉を一つ失った。
つばきは無謀なのではない。
父を案じている。
そして、知らされない場所に自分だけ取り残されることを拒んでいる。
「では、桐生さんも一緒に来てください」
「えっ」
「一緒に探すと、先日言ったではありませんか」
「言いました。言いましたが、それはもう少し、こう、書物の続きを探すような意味で」
「学問は現実に出ていくものなのでしょう」
つばきは紙片を懐にしまった。
「私は知らない方がもっと危険だと思います」
その言葉は危うかった。
だが、新太郎は止められなかった。
つばきが無謀だからではない。
自分も知りたいと思ってしまったからだ。
国書。
封蝋。
二度押し。
あの女の香り。
そして、目に見えないところで動いている何か。
「分かりました」
新太郎は頷いた。
「ただし、確かめるなら、できるだけ慎重に」
「私が慎重でないと?」
「結論へ走るところがあります」
「桐生さんは立ち止まりすぎます」
「では、ちょうどよいのかもしれません」
つばきは一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、少し笑った。
「そうですね。ちょうどよいのかもしれません」
二人の間に、先ほどとは違う空気が流れた。
学びの相棒。
それだけではない。
危険な言葉の封を、一緒に開けようとしている。
その時、通りの向こうから若い事務方らしき男が走ってきた。
「桐生新太郎殿!」
新太郎は振り返る。
「僕です」
男は息を切らしながら、折り畳んだ書状を差し出した。
「使節団事務方より伝達です。明朝、田中久重製作所の視察に同行せよとのこと。通訳見習いとして、輸入部品や外国語資料の確認を補助せよと」
「田中久重製作所……」
新太郎は書状を受け取った。
田中久重。
からくり儀右衛門。
新時代の機械と、旧い技の境目に立つ発明家。
「それと……妙な話ですが」
事務方の男が声を落とした。
「妙な話?」
「工房の周辺で、横浜帰りの荷運びが出入りしているとの噂がありまして。役所としては念のため、視察の人数を増やすそうです」
「横浜帰り……」
新太郎とつばきは、思わず顔を見合わせた。
「私も参ります」
つばきが言った。
新太郎は驚いて見る。
「有馬さんも?」
「父が、工房の視察に関わる手配をしています。蒸気機関の模型を見る機会があると聞いていました」
事務方の男が頷く。
「有馬家にも同様の知らせが向かっているはずです」
新太郎の手の中で、書状が少し重くなった。
国書。
封蝋。
田中久重の工房。
横浜帰りの荷運び。
あの女の警告。
まだ繋がっていない。
しかし、繋がる時が近い。
つばきは紙片を懐にしまい直し、書状を見る。
「桐生さん」
「はい」
「明日、確かめることが増えましたね」
「増えすぎではありませんか」
「学問です」
「便利な言葉ですね、それ」
つばきは小さく笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
父を案じる不安。
封蝋への疑念。
それでも前へ進もうとする意志。
新太郎は紙片の言葉をもう一度思い出した。
封蝋を嗅げ。
赤き封は二度押される。
言葉は、まだ開かれていない。
だがその封の向こうで、何かがもう腐り始めている気がした。
その夜。
東京の別の場所で、田中久重の工房の灯が一つ、ふっと消えた。


