
事件から三日後、大分市内の大学病院。消毒液の匂いが漂い、モニターの電子音が静かに響く。重傷を負った由布厚生は個室で治療を受けていた。
複数の骨折と内臓損傷で、しばらくの入院が必要な状態だ。部屋の外には警官が無言で立ち、彼が逃亡しないよう見張っている。
「お名前は?」
受付で看護師が尋ねた。
「春日凪子です。由布厚生さんにインタビューの許可をいただいています」
凪子は記者証と面会許可証を提示した。許可証はGFOの西園寺の計らいで発行されたもので、由布が体調の許す限り、事件の真相を語ることを条件に面会が認められていた。
「どうぞ、308号室です」
看護師の案内で、凪子は由布の部屋へと向かう。ドアノブを握る手が一瞬止まり、後ろの清六と沙織も無言で顔を見合わせた。二人も真相を知りたいという強い希望があり、凪子のインタビューに同行することが許可されていた。
「緊張する…」
清六は小声で言い、無意識に拳を握りしめていた。沙織はそっとその手を包み、静かに微笑む。
「大丈夫よ。もう彼に力はないわ」
308号室のドアを開けると、ベッドに横たわる由布厚生の姿があった。一週間前までは威厳に満ちていた彼も、今は包帯と点滴に囲まれ、弱々しく見える。
だが、その目だけは、かつての鋭い光を失っていなかった。由布はベッドの上で身動きできず、包帯越しに手を握りしめていた。
「来たか」
由布は凪子を見つめた。病室にはモニターの電子音が静かに響き、消毒液の匂いが漂っている。
「春日凪子。君が『真相』を記事にするのか」
「はい」
凪子は録音機器を準備しながら答えた。
「世界は真実を知る権利があります」
由布の目が清六と沙織に移る。一瞬だけ驚いたように眉を上げる。
「FCT-1も来たのか。興味深い」
「僕の名前は天野清六です」
清六は由布をまっすぐに見つめ、静かながらも強い口調で言った。
「もうFCTなんて呼ばないでください」
由布は小さく苦笑し、咳き込んだ。
「失礼。習慣というものは中々抜けないものだな…天野君」
三人は椅子に座り、インタビューの準備を整えた。凪子はノートを広げ、録音機器の電源を入れる。病室には一瞬、静寂が流れる。
「では、お話を伺っていいですか?」
由布は静かに頷いた。
「構わん。もう隠すことはない」
「まず、『プロジェクト・ガストロノミックマター』の真の目的は何だったのでしょうか」
凪子の最初の質問に、由布はしばらく天井を見上げ、思い出を探るように静かに息を吐いた。
「私は大分の食文化を世界に広めたかっただけだ」
彼の声には、かつての熱意の残響があった。
「最初は本当に単純な思いだった。大分県の観光振興策の一環としてね」
「それがなぜ、人体実験にまで発展したのですか?」
凪子の問いに、由布は手を握りしめ、目を伏せて言葉を選ぶ。
「それは…」
短い間を置いて、由布は静かに続けた。
「私自身の野心が膨らんでいったからだろう。最初は単なる文化保存の手段だったものが、次第に政治的な道具になっていった」
彼は自分の過ちを認めるかのように、声を低くして続けた。目の奥には、誇りと後悔が複雑に浮かんでいた。
「ある時、FCT-0…宇佐美玲の作る料理を食べた政府高官が、異常なほど彼女の料理に執着し始めた。その時に私は気付いたんだ。『食』が持つ力にね」
「『催眠効果』についてお聞きしたいのですが」
凪子が本題に入った。清六も身を乗り出して聞き入った。これは彼自身の体に関わる重大な問題だった。
「『活性化された人間』が作る料理には、食べた人の意識を操作する効果があるとされていましたが、それは本当なのでしょうか?」
この質問に、予想外のことが起きた。由布が笑い出したのだ。最初は小さな笑いだったが、やがて大きな笑いになり、彼は痛みで顔をゆがめながらも笑い続けた。
「あ、痛い…」
彼は肋骨の骨折の痛みを堪えながら、ようやく笑いを収めた。
「すまない。それはね…実は大げさな表現だったんだよ」
「え?」
凪子だけでなく、清六も沙織も驚きの声を上げた。
「どういうことですか?」
「実際には、『活性化された人間』が作る料理は単に『異常に美味しい』だけだったんだ。プロの料理人が一生かけて到達するような極上の味を、彼らは本能的に再現できる。それだけのことさ」
「でも、僕が作った料理を食べた人は意識を失いました」
清六が食い入るように尋ねた。
「フライドチキン店で、それから料亭でも…」
「ああ、あれは…」
由布は少し居心地悪そうな表情を見せた。
「別府が君たちの料理に特殊な薬物を混ぜていたんだ。催眠作用のある物質をね。君が働いていた店にも彼の協力者がいて、食材に細工をしていた。本来の『活性化料理』にはそんな効果はない」
「何ですって?」
凪子は驚きのあまり、ペンを落としそうになった。
「でも…どうやって?」
清六の声が震えた。
「調理場のスタッフや食材配達業者に指示を出していた。君たちが『活性化状態』で作った料理に特別な効果があると思わせるためだ」
由布は苦々しい表情を浮かべた。
「別府はデータを捏造し、『料理遺伝子人間』の価値を誇張して政治家を説得していた。全てはプロジェクトの予算確保と、君たちを兵器として売り込むためだった」
誰かが小さく息を呑む音が聞こえ、病室の空気がぴんと張り詰めていた。
「では、『共鳴タンク』も…?」
「あれも大袈裟な演出だ」
由布は深いため息をつき、疲れたように言った。
「確かに料理の香りや味を増幅する効果はあったが、大分市全域に催眠効果を与えるなどというのは不可能だった。せいぜい会場内の人間が『とても美味しい』と感じる程度だろう」
「それなら…」
凪子の声が震えた。
「なぜそこまでの大規模な研究を?なぜ人体実験までして?」
由布は苦笑し、視線を窓の外に落とした。その表情には自嘲と後悔が入り混じっている。
「政治家というのは、単純なことを複雑に見せたがるものでね」
彼は静かに続けた。
「私は官僚時代、政治家たちが予算を獲得するために、いかに簡単なことを複雑で重要そうに見せるか、目の当たりにしてきた。『大分の食文化を守り広める』という単純な目的は、『遺伝子レベルの文化保存』『食による国家影響力の確保』などと言い換えれば、莫大な予算がつくんだ。別府はさらに、その予算を悪用して『催眠効果』という幻想を政治家に売り込んだ」
「嘘だ…」
清六の声はかすれていた。拳を握りしめ、視線を落とす。
「僕たちは…ただのマーケティングツールだったというんですか?」
「そうとも言える」
由布は清六を見つめ、その目にわずかに申し訳なさが浮かんだ。
「だが、君たちが作る料理は確かに素晴らしいものだった。食べた人は『また食べたい』と思う。それだけだ。洗脳でも催眠でもない。単に『もう一度あの味を味わいたい』と思わせるだけ」
「でも、別府はなぜそこまでしたの?」 沙織が鋭く尋ねた。
「彼は『料理遺伝子人間』を兵器として売り込みたかった」 由布の声に怒りが滲む。「催眠効果があると偽れば、軍事的価値が生まれる。それで予算を拡大し、自分の権力を強化しようとしたんだ」
部屋にはしばらく沈黙が落ちた。遠くで機械の電子音だけが響いていた。
「軍事的価値だ。政治家や軍関係者は『催眠効果のある料理』に目を付けた。別府は彼らに『人間兵器』として君たちを売り込んだ。料理で敵国要人を操れるとね」
「でも実際には…?」
沙織が割り込む。
「実際には薬物混入のトリックだった」
由布は舌打ちした。
「だが彼らは『遺伝子操作による生物兵器』という幻想に踊らされた。私も最初は『食文化保護』のつもりだったが…」
「バカバカしい…」
沙織が呟いた。彼女の目には怒りと涙が浮かんでいた。
誰もが言葉を失い、ただ由布の顔を見つめていた。夕暮れの光が病室の壁を静かに染めていた。
「それだけのために、清六くんたちの人生を奪ったんですか?」
「そう言われれば、その通りだ」
由布は肩をすくめようとしたが、痛みに顔をゆがめ、深く息を吐いた。
「プロジェクトが進むにつれ、別府の狂気が全てを歪めた。私は『食文化の継承』を望んでいたが、彼は『国家の武器』に変質させた。気づいた時には、もう止められなかった」
凪子はさらに質問を続けた。インタビューは一時間以上続き、由布は予想以上に率直に答えた。「食の平和利用」という理想が、「軍事転用」という悪夢に変わっていった過程が静かに明かされていった。
インタビューを終え、病室を出た三人は言葉少なだった。
エレベーターに乗り、病院を後にする道中、ようやく清六が口を開いた。
「なんだか…バカバカしいね」
彼の声には複雑な感情が混ざっていた。拳を握りしめ、視線を落とす。
「僕たちが恐れていたものは…ただの『美味しい料理』だった」
「それでも、あなたたちが被害者であることには変わりないわ」
凪子は真剣な表情で言った。沙織は唇を噛み、目に涙を浮かべていた。
「由布と別府は人体実験を行い、薬物で『催眠効果』を偽装した。それ自体が犯罪よ」
「うん…でも、なんだか肩の荷が下りた気がする」
清六は少し微笑んだ。
「僕たちは『世界を支配する兵器』じゃなかった。ただ『美味しい料理を作れる人間』だったんだ」
***
病院を出ると、玲と千尋、そして誠司と彩乃が待っていた。彼らも真相を知りたがっていたのだ。
「どうだった?」
玲が即座に尋ねた。
「信じられないことがわかったわ」
凪子は病院の外にあるカフェに皆を案内し、インタビューの内容を詳しく説明した。
「由布の告白によると、『催眠効果』は全て別府の仕組んだ偽物だった。調理場のスタッフに薬物を混入させ、軍関係者を騙して予算を引き出していたの」
部屋にはしばらく沈黙が落ちた。遠くで機械の電子音だけが響いていた。
「嘘でしょ?」
玲は手をテーブルの上で握りしめ、目を泳がせていた。
「私たちが恐れていたのは、そんな単純なことだったの?」
「そうみたいです」
凪子は録音した内容の一部を再生して聞かせた。
「『料理遺伝子人間』の真の能力は『極上の美味しさ』だけ。別府が『兵器』に見せるため、薬物とデータ捏造で演出していた」
カフェのBGMが静かに流れる中、皆が耳を傾けている。
「『活性化された人間』が作る料理には特別な『美味しさ』があるだけで、それ以上の効果はない。料亭での出来事は、別府がスタッフを使って薬物を混入させたせいだった」
「まあ…」
千尋は膝の上で手を組み、視線を落としながら小さく息を吐いた。彼女はまだ完全に回復しておらず、活性化の影響から解放されたばかりだった。
「私が作った料理で人を喜ばせることはできても、支配することはできなかったってこと?」
「そういうことです」
凪子は頷いた。
しばらく誰も言葉を発せず、カフェのBGMだけが静かに流れていた。
「由布の野心が、単純な事実を恐ろしいものに見せかけていた」
「それでも、私たちの自由は奪われていた」
玲の声には怒りがあった。手が小さく震えている。
「『活性化』状態で作った料理に薬物を混ぜられ、結果的に人を操る道具にされた。それが事実よ」
「ええ、そこは変わりません」
彩乃が穏やかな声で言った。
「別府が仕組んだ薬物投与は、明らかな犯罪です」
「でも、なんだか…拍子抜けだね」
清六は肩の力が抜け、深く息を吐いた。その笑いには解放感があった。
「僕たちが持つ力は、世界を変えるようなものじゃなかった。ただ人を喜ばせる料理を作れるだけ」
「それでも十分素晴らしいことじゃない」
沙織は清六の手をそっと握り、優しく微笑んだ。
「料理で人を幸せにする能力って、すごいことよ」
「確かにね」
清六は沙織を見つめ、自然と笑みがこぼれた。
「だからこそ、僕は『活性化回路』の除去手術を受けないことにしたんだ」
「え?」
皆が驚いた顔で清六を見た。清六は一度大きく息を吸い、
「この能力は僕の一部。薬物に汚されていない本当の力で、人を幸せにしたい」
と力強く宣言した。
「いつ決めたの?」
「さっき、由布の話を聞いて」
清六は真剣な表情で説明した。
「この能力は薬物に汚されていない。本来はただ人を幸せにするためのものだ。自分の意思で正しく使いたい」
玲はしばらく視線を落とし、ゆっくりと頷いた。
「私も同じ考えよ。別府の薬物とは関係ない、純粋な『美味しさ』を追求したい」
千尋は膝の上で手を組み、静かに言葉を紡いだ。
「私は…手術を受けるわ。薬物で汚された記憶が怖い。でも、自分の手で本当の料理を作りたい」
それぞれが自分の道を選ぶ。それこそが、彼らが勝ち取った自由だった。
「本当に…バカバカしい話だったね」
誠司は少し苦笑し、肩の力を抜いて深く息を吐いた。
「20年間の研究は、別府に『兵器』に歪められていた。でも本来は…」
彼の目が清六の料理を見つめた。
「こんなに素晴らしいものを生み出すためだったんだ」
沙織は清六の手をそっと握り、優しく微笑んだ。
「でも、私は清六くんと出会えた。それだけでも、この事件には意味があったと思う」
清六の頬が少し赤くなり、自然と笑みがこぼれた。
「うん…僕も、沙織と出会えたことは感謝してる」
玲がからかうように言った。
「あら、いい雰囲気ね。『活性化』より強い力が働いているみたいね」
皆の肩から力が抜け、自然と笑い声がこぼれる。カフェの窓から差し込む午後の光が、薬物のない清らかな未来を照らしていた。
「さて、この真相をどう記事にしましょうか」
凪子がノートを見返しながら言った。
「『人体実験の真相は…滅茶苦茶に彩られた幻想だった』なんてタイトルでどう?」
「それいいね」
清六は笑った。
「由布さんの話を聞いて、なんだか肩の荷が下りた気がする。僕たちは兵器じゃない。薬物に依存しない、本当の料理人だったんだ」
「いいえ、それだけじゃないわ」
沙織は清六の手をそっと握り、優しく微笑んだ。
「あなたたちは特別な人たち。薬物に頼らず、純粋な腕前で人を幸せにする力を持っている」
その言葉に、清六も玲も千尋も静かに頷いた。肩の力が抜け、皆の表情が柔らかくなる。彼らの能力は、人工的な操作ではなく、努力と才能が生み出す真実のものだった。
「それじゃあ、『天ぷら屋みれい』に戻りましょうか」
玲が大きく伸びをして立ち上がった。
「本物の『活性化』料理を食べたい人、いる?薬物なしの、純粋に美味しいだけの天ぷらよ」
「ぜひ!」
全員が声を揃え、笑顔が広がった。
彼らはカフェを後にし、玲の店へと向かった。夕焼けが街をオレンジ色に染め、心地よい風が頬を撫でる。遠くで子どもたちの笑い声が響いていた。
「清六くん」
歩きながら、沙織が小声で言った。彼女は一瞬だけ清六を見上げ、照れくさそうに微笑む。
「私、あなたの料理、食べてみたいな」
「いいよ」
清六は微笑み、沙織の手をしっかりと握った。
「僕の『活性化』料理。でも、効果は『美味しい』だけだからね」
「それで十分よ」
沙織は彼の腕にそっと手を添えた。
「美味しい料理と、大切な人たち。人生に必要なのはそれだけかもしれないわ」
清六は頷き、沙織の手を取った。夕暮れの空の下、バカバカしい真相が明らかになった今、彼らの前には新しい未来が広がっていた。


