田中久重の工房の灯が消えた。
そう聞けば、誰もが夜の闇を思い浮かべるだろう。
忍び込む影。
閉じられた障子。
火皿をつまむ煤けた指。
だが、翌朝の東京は、そんな不穏など知らぬ顔で晴れていた。
新太郎は昨夜、何度も目を覚ました。
目を閉じるたび、赤い封蝋が浮かぶ。
唐人お吉を名乗る女の香が、鼻の奥に戻る。
そして、誰かが田中久重の工房の灯を指でつまみ消す光景が、まるで見たことのある記憶のように浮かんだ。
もちろん、新太郎はその場にいたわけではない。
見たはずがない。
それでも一度想像してしまうと、闇の中で消える灯は、何度も何度も瞼の裏に戻ってきた。
冬の空は薄く青く、風はまだ頬に冷たい。通りには荷車の音が響き、魚売りが声を張り、どこかの家の軒先では女中が水を撒いている。
世の中は、昨日どこかで灯が消えたくらいでは止まらない。
それが少しだけ、桐生新太郎には怖かった。
「……眠れなかった顔をしています」
隣を歩く有馬つばきが言った。
新太郎は思わず自分の頬に触れる。
「顔に出ていますか」
「はい」
「東京では顔に何でも出るのですね」
「それは桐生さんだけでは?」
「今、かなり鋭いことを言いましたね」
「事実です」
つばきは平然としている。
深い藍の着物に、今日は動きやすいよう少し短めに整えた裾。胸には福沢から渡された洋書を抱えている。工房見学に洋書が必要なのかと聞きかけたが、新太郎はやめた。
たぶん、彼女にとって本は武器か弁当箱のようなものなのだ。
持っていないと落ち着かない。
「有馬さんは、よく眠れましたか」
「眠れませんでした」
即答だった。
「ですよね」
「ええ。父が横浜へ行くこと、封蝋のこと、唐人お吉を名乗る女のこと、田中久重製作所のこと。考えることが多すぎました」
「僕もです」
「ですが、眠れなかった理由はそれだけではありません」
「ほかにも?」
つばきはわずかに目を輝かせた。
「蒸気機関です」
新太郎は一瞬、返事に困った。
「……そちらの興奮も混ざっていましたか」
「当然です」
つばきは当然のように頷いた。
「田中久重ですよ。からくり儀右衛門ですよ。和時計に、弓曳童子に、万年自鳴鐘。さらに蒸気船模型まで見られるかもしれないのです。眠れる方がおかしいでしょう」
「僕は怖さで眠れませんでした」
「私は怖さと好奇心で眠れませんでした」
「好奇心の比率は」
「七割ほど」
「多い」
つばきは笑った。
だが、その笑みはすぐに少しだけ薄くなる。
「残り三割は、父のことです」
新太郎は返事を探した。
つばきは胸の洋書を抱え直す。
「あの封蝋の警告が、本当に父の仕事に関わるなら……私は、見ないふりができません」
その声には、好奇心だけではない硬さがあった。
父を心配する娘の声。
そして、心配しているだけでは足を止められない人の声だった。
「怖いものほど、確かめる価値があります」
言い切るつばきの横顔を見て、新太郎は少しだけ笑ってしまった。
彼女は怖がらないわけではない。
怖がったうえで、前へ出る。
その歩幅に、新太郎はまだ時々置いていかれそうになる。
「おう、若いの。朝から辛気臭い顔をしているな」
背後から、やけに明るい声が飛んできた。
振り返ると、背の高い男が大股でこちらへ歩いてくる。
綾部影照だった。
くしゃくしゃの髪。少し煤けた羽織。腰には工具袋。背には奇妙な金属筒をくくりつけている。片手には歯車のついた小箱、もう片方の手には湯気の立つ饅頭。
朝から情報量が多い。
「綾部さん、その背中の筒は何ですか」
「秘密兵器だ」
新太郎は身構えた。
「危ないものですか」
「使い方による」
「危ないものですね」
影照は愉快そうに笑った。
「安心しろ。今はまだ試作品だ。爆発は三回に一回くらいしかせん」
「まったく安心できません」
影照は笑った。
だが、爆発という言葉を口にした瞬間だけ、笑いの端がほんの少し欠けた。
新太郎はそれに気づいた。
すぐに影照はいつもの調子へ戻ったが、饅頭を持つ指が、一瞬だけ固くなっていた。
この人は、爆発というものをただ面白がっているわけではない。
そう思いかけたところで、影照はもう筒を揺らしていた。
つばきがじっと筒を見た。
「蒸気圧を使うのですか」
影照の顔がぱっと明るくなった。
「お、分かるか、お嬢さん」
「先端の弁が圧を逃がす形に見えます。ですが、固定具が少し細すぎませんか。振動で外れそうです」
影照は饅頭を口にくわえたまま、背中の筒を下ろした。
「……新太郎」
「はい」
「このお嬢さん、いい目をしている」
「今さらですか」
「いや、昨日までは口が達者な娘だと思っていた」
「それ、かなり失礼ですよ」
つばきは笑わず、筒の留め具を指差した。
「ここです」
影照は身を乗り出す。
「確かに。いや待て、ここを真鍮ではなく鋼で締めれば……」
「重くなりすぎます」
「では竹の積層材で」
「熱に弱いのでは」
「そこは漆で固める」
「蒸気で湿気ます」
「むう」
二人が道端で急に設計会議を始めた。
新太郎は少し離れて、空を見た。
東京の朝は、やはり油断ならない。
昨日まで女性の学問について話していたと思ったら、今日は道端で蒸気筒の補強材について議論している。
「行くぞ」
低い声がした。
今度は前方の角から、真田義経が現れた。
黒に近い紺の羽織。腰には愛刀、水心子正秀。表情はいつも通り、雪をかぶった石灯籠のように動かない。
新太郎は軽く頭を下げた。
「おはようございます、真田さん」
「朝から騒がしい」
義経の視線は、影照の背中の筒に向いていた。
「また鉄屑を背負っているのか」
影照がむっとする。
「鉄屑ではない。小型蒸気圧式多目的噴射装置だ」
「長い。鉄屑で十分だ」
「分からん者ほど名を縮めたがる」
「危ないものほど名を長くしてごまかす」
「何だと、この古式ゆかしい人間切断機め」
義経の眉がほんの少し動いた。
「誰が人間切断機だ」
「刀を下げている時点で、おぬしの分類はだいたいそれだ」
「貴様の背中の筒も、分類上は爆発未遂だ」
「まだ爆発しておらん」
「未遂だと言った」
つばきが小さく咳払いをした。
「お二人とも、工房に着く前から壊し合わないでください」
新太郎はその横で、感心していた。
義経と影照は相性が悪い。
だが、不思議と会話の呼吸は合っている。
火打石と火薬のようなものだ。
近づけると危ないが、離しすぎても役に立たない。
「ところで、桐生」
義経が不意に言った。
「はい」
「昨夜、妙な女に会ったそうだな」
新太郎の背筋が少し伸びた。
「唐人お吉を名乗る女です。菊……いえ、誰かは分かりません」
つばきも表情を引き締める。
「封蝋に気をつけろと警告されました」
義経は歩きながら、短く言った。
「女の警告は、軽く見るな」
影照が意外そうに目を向けた。
「ほう。おぬしにしては柔らかいことを言う」
「昔、軽く見て痛い目を見た」
義経の指が、ほんの一瞬だけ刀ではなく、懐の奥へ動いた。
そこに何があるのか、新太郎には見えなかった。
だが義経の目は、目の前の東京ではない場所を見ていた。
夜の路地。
濡れた石畳。
誰かの笑い声。
そんなものを、遠くで思い出しているようだった。
義経はそれ以上語らなかった。
新太郎は、その横顔を見た。
硬い。
だが、ただ無口なだけではない。
何かを、意図して口の奥へ押し込んでいる。
福沢の声が、ふと頭の中で響いた。
相手が何を恐れているかを見なさい。
真田義経は、何を恐れているのだろう。
死ではない気がした。
自分の死を恐れる人間の歩き方ではない。
では、何を。
新太郎が考えているうちに、通りの先に大きな屋根が見えてきた。
田中久重製作所。
工房は、想像していたよりもずっと賑やかだった。
まず音が来る。
金槌の音。
鋸の音。
蒸気の抜ける音。
誰かが数字を読み上げる声。
子どもが叱られて「へい」と返事をする声。
油と木屑と鉄粉の匂いが混じり、ところどころに炭の匂いがある。
新太郎は門の前で立ち止まった。
そこは、建物というより、生き物の腹の中の入口のようだった。
「鉄の獣だな」
義経が呟いた。
影照がすぐに振り返る。
「獣ではない。知恵の巣だ」
「巣なら、なおさら何かが潜んでいそうだ」
「それは否定せん」
「否定しないのですか」
新太郎が思わず言う。
影照は楽しそうに笑った。
「発明の巣には、たいてい失敗作が潜んでいる。失敗作は時々、成功作より元気だ」
「元気な失敗作ほど怖いものはありませんね」
「だから面白い」
「その感覚、僕にはまだ難しいです」
「慣れろ」
「慣れたくはないです」
門の脇には、横浜商館の焼印が入った空き箱がいくつか積まれていた。
新太郎はそこへ目を留めた。
焼印の周りに、赤い蝋の欠片がこびりついている。
それだけなら、ただの輸入荷の名残にすぎない。
だが、昨夜の紙片を思い出した途端、その赤がやけに鮮やかに見えた。
門番に書状を見せると、中へ案内された。
工房の中は、外から聞こえた以上に忙しかった。
和時計の部品が並ぶ机。
木製の歯車。
真鍮の管。
輸入物らしい圧力計。
壁に貼られた図面。
天井から吊るされた滑車。
火鉢の横で乾かされている薄い紙。
棚には、からくり人形の腕や首が布に包まれて置かれている。
一見すると雑然としている。
しかし、よく見るとすべてに場所がある。
職人たちは誰も迷わず動き、必要な工具へ手を伸ばし、声を交わし、次の作業へ移っていく。
新太郎には、その会話が半分ほどしか分からなかった。
「三分の一寸、詰めろ」
「弁が鳴いてます」
「鳴くならまだ生きてる。黙ったら危ねえ」
「銅板、焼き戻し足りねえぞ」
「こっちの歯、半目ずれてる」
半目。
弁が鳴く。
歯がずれる。
新太郎は思わず、どこかに子犬でもいるのかと周囲を見た。
つばきが小声で言う。
「弁とは、蒸気の弁のことです」
「分かっています」
「今、犬を探しましたね」
「東京では弁も鳴くのかと」
「ここは工房です」
同じ日本語なのに、まるで別の国の言葉のようだった。
辞書には載っていない。
だが、彼らには通じている。
工房の中には、工房だけの言葉があった。
「すごい」
つばきが小さく言った。
その声は、いつものように強くはなかった。
ただ、素直な驚きがあった。
「学問が、手を持って動いているみたいです」
新太郎はその言葉に、胸の奥を軽く叩かれた気がした。
学問が、手を持って動く。
なるほど。
彼女は本当に、物を見る時に自分の言葉を持っている。
「いい言い方ですね」
「そうですか」
「はい。僕なら、職人用語が難しい、で終わっていました」
「それも大事です。桐生さんは、その難しい言葉を拾ってくれるでしょう」
つばきはそう言って、少しだけ笑った。
新太郎は返事に詰まった。
さらりと言われた言葉が、思ったより嬉しかった。
「おや」
工房の奥から、明るい声がした。
「若い客人がずいぶん来たな。機械を見に来たのか、それとも機械に食われに来たのか」
その手が、最初に目に入った。
老人の手だった。
皺があり、節が太く、爪の間に黒い油が残っている。
だが、その指先だけは若者のように速かった。
声の主は、話しながら机の上の小さな歯車を一つ拾い、光にかざし、欠けを見つけ、迷いなく別の箱へ投げ入れた。
目だけでなく、手まで考えている人だった。
現れたのは、小柄な老人だった。
だが、小柄という印象は最初だけだった。
目が若い。
いや、若いというより、忙しい。
次に何を作るか、今この瞬間も頭の中で部品が回っているような目をしている。
田中久重。
からくり儀右衛門。
日本中に名を知られた発明家が、にこにことこちらを見ていた。
新太郎たちは慌てて頭を下げる。
「桐生新太郎と申します。本日は使節団事務方の命により、視察に同行いたしました」
「有馬つばきです。父が手配の件でお世話になっております」
「綾部影照だ」
「真田義経」
義経だけが短い。
田中は四人を順に見た。
「通訳見習いに、開明派のお嬢さんに、火薬臭い若造に、刀の似合う番犬か」
新太郎は一瞬、息を呑んだ。
言い方が遠慮なさすぎる。
しかし田中は笑っていた。
影照も笑った。
「火薬臭いとは心外だ。今日は蒸気臭いはずだ」
「どちらも近づけすぎると家が燃える」
「分かっているではないか」
「分かっているから言っとる」
田中はひょいと手招きした。
「まあ入れ。ちょうど面白いものを動かすところだ」
そう言って田中が指を鳴らす。
すると、奥の台の上で、小さな人形が動き出した。
茶を運ぶからくり人形だった。
小さな足が畳の上を滑るように進み、盆に乗せた茶碗を揺らさず、客の前でぴたりと止まる。
つばきが息を呑んだ。
新太郎も思わず見入った。
小さな木と糸と歯車が、まるで意思を持っているかのように動いている。
義経だけが、半歩後ろへ引いた。
「どうした、番犬殿。人形が怖いか」
田中が面白そうに言う。
義経は眉をひそめた。
「怖くはない」
「では、嫌いか」
「人でないものが人の真似をするのは、落ち着かん」
影照が噴き出した。
「刀を振り回す者が、人形を怖がるとは」
「怖くはないと言った」
「今、半歩下がったぞ」
「床板を見ただけだ」
「床板は逃げん」
「黙れ」
つばきは笑いをこらえて肩を震わせていた。
新太郎も危うく笑いそうになり、咳でごまかす。
田中はからからと笑った。
「よいよい。怖いと思うのは悪いことではない。機械を怖がらん者ほど、機械に指を食われる」
義経の目が少しだけ動いた。
田中は茶運び人形を止め、背中の蓋を開けた。
中には、歯車とぜんまいが美しく収まっている。
田中は近くの作業台へ目を向けた。
そこでは、左腕を布で吊った職人が、片手で木片を固定しながら、足踏み式の小さな治具を使って部品を削っていた。
片腕では難しいはずの作業が、機械の助けで、ゆっくりだが確かに進んでいる。
「見ろ。こいつは人間の代わりではない。人間の手から生まれた、もう一つの手だ」
田中は歯車を指で軽く回す。
「機械は人間の手を奪うものではない。人間の手が届かなかった場所へ伸びる、もう一本の手だ。もっとも、その手で人を撫でるか殴るかは、作った者と使う者次第だがな」
その言葉に、影照の顔から少しだけ笑みが消えた。
つばきも真剣に聞いている。
新太郎は、今の言葉を書き留めたいと思った。
機械は、もう一本の手。
言葉も同じかもしれない。
自分の声が届かない場所へ伸びる、もう一本の手。
だが、その手で誰かを救うことも、傷つけることもできる。
第1章で聞いた「紙の言葉は、本人がいなくても人を動かす」という自分の言葉が、少し違う形で返ってきた気がした。
福沢の教卓では、言葉が人を立たせると知った。
田中の工房では、技術が人の手を伸ばすのだと知った。
だが、どちらも同じだった。
使う者次第で、人を助けもするし、傷つけもする。
「田中先生」
つばきが一歩前に出た。
「何だ、お嬢さん」
「この機械で、女の仕事も変わりますか」
工房の音が、ほんの少しだけ遠くなった気がした。
近くにいた職人の一人がちらりとつばきを見た。
女中らしい女性も、手を止めかける。
奥で部品を数えていた職人の妻らしい女も、つばきへ視線を向けた。
男たちのためだけの問いではなかった。
その場にいる、声を出さない女たちのための問いでもあった。
新太郎は、つばきの横顔を見た。
第1章の演説館と同じだ。
彼女はまた、席の真ん中に問いを置いた。
田中は笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、少し目を細めた。
「変わる」
短い答えだった。
つばきの表情が引き締まる。
「ただし、楽になるとは限らん」
「え」
「新しい機械は、古い苦労を減らす。だが、新しい苦労も連れてくる。楽になる者もいれば、仕事を失う者もいる。学ぶ者は機械を使う側へ回れるが、学ばぬ者は機械に追われる側へ回るかもしれん」
田中は茶運び人形の頭を軽く叩いた。
「たとえば、糸を紡ぐ機械が入れば、早くたくさん作れる。だが、手で紡いで食っていた者はどうなる。楽になるのは商いか、暮らしか。そこを見ずに機械を褒める者は、ただの見物人だ」
「だから、機械だけを見てはならん。機械のそばにいる人間を見ろ」
つばきは黙った。
その瞳に、ただの興奮ではない光が宿っている。
新太郎は、彼女が今、工房の女中や職人の妻や、まだ名も知らぬ誰かの姿を思い浮かべているのだと分かった。
「ありがとうございます」
つばきは深く頭を下げた。
田中は少し照れたように鼻を鳴らした。
「礼を言うほどのことではない。難しいことを聞く娘だな。福沢のところの火が移ったか」
「はい」
つばきは即答した。
「かなり」
新太郎は思わず吹き出しそうになった。
田中も愉快そうに笑う。
「ならば、燃えすぎぬよう気をつけろ。火は湯を沸かすが、家も焼く」
その言葉に、新太郎の胸が小さく冷えた。
火。
昨日から、何度その言葉を聞いただろう。
学問の火。
復讐の火。
封蝋を溶かす火。
工房の灯。
その時、影照が工房の奥へ勝手に進みかけた。
「待て」
義経が襟首を掴む。
「ぐえっ」
「勝手に触るな」
「目の前に圧力弁があるのだぞ。触らずにいられるか」
「犬の前に肉を置いたような言い方をするな」
「おぬし、時々たとえがひどいな」
田中は二人を眺め、腹を抱えて笑った。
「よいよい。触りたいなら触れ。ただし壊したら直せ。直せぬなら働け。働けぬなら飯抜きだ」
影照の顔が輝く。
「よし」
義経が低く言った。
「なぜ今の条件で喜ぶ」
「壊さねばよい」
「壊す者の台詞だ」
影照は聞いていない。
圧力弁の前にしゃがみ込み、目を輝かせている。
「これは和式ぜんまいを戻り止めに応用しているのか。いや、違うな。弁の戻りが半拍遅い。蒸気が急に上がった時、逃げ道を二つに分ける仕組みか。ふむ。ふむふむ。なるほど。これは面白い。いや、待て。ここに小型の振動板をつければ」
「綾部さん」
つばきが静かに言った。
「質問は一度に一つです」
影照はぴたりと止まった。
「……はい」
新太郎は目を丸くした。
義経も少し驚いたように見る。
田中はますます楽しそうだった。
「お嬢さん、その男の扱いがうまいな」
「慣れ始めました」
「慣れられるほど分かりやすいのは屈辱だ」
影照が不満そうに言う。
つばきはさらりと返した。
「では、もう少し分かりにくくしてください」
「努力する」
「努力の方向を間違えないでください」
新太郎は、工房の空気が少し柔らかくなったのを感じた。
昨日まで、彼らはまだ並んで歩き始めたばかりだった。
新太郎、つばき、影照、義経。
ばらばらの言葉を持つ四人。
だが、この騒がしい工房の中で、少しだけ一つの輪になっている。
そう思えた。
その時、工房の奥から少年が走ってきた。
「先生! 横浜からの箱、裏の蔵へ運びました!」
まだ十二、三ほどの丁稚だった。
頬に煤がつき、袖をまくり、腰には小さな工具袋をぶら下げている。影照の小型版のような格好だが、目はもっと素直だった。
田中が頷く。
「千吉、ご苦労。だが走るな。お前はよく転ぶ」
「今日は転んでません!」
少年、千吉は胸を張った。
その瞬間、足元の木片につまずきかけた。
義経が無言で襟を掴み、倒れる前に止める。
千吉は宙ぶらりんになった。
「……転ぶ前です」
「転んでからでは遅い」
義経は静かに下ろした。
千吉は目を輝かせた。
「すげえ。今の、どうやったんですか」
「足元を見ろ」
「剣術ですか」
「足元を見ろと言った」
「はい!」
返事だけはいい。
影照が千吉の工具袋を見た。
「その袋、自分で作ったのか」
「へい! 先生の真似です」
「ほう。どの先生だ」
千吉は迷わず影照を指差した。
「そこの変な先生です」
影照は得意げに胸を張った。
「聞いたか、義経。俺は先生だ」
「変な、が頭についていた」
「尊称だ」
「違う」
千吉は影照の背中の筒を見て、目を輝かせた。
「それ、何ですか」
「小型蒸気圧式多目的噴射装置だ」
「すげえ!」
「分かるか」
「全然分かんねえです!」
「正直でよろしい」
つばきが小さく笑った。
新太郎もつられて笑う。
この少年がいるだけで、工房の空気が少し温かくなる。
横浜からの箱。
その言葉を、笑いの奥で新太郎は聞き逃さなかった。
「千吉君」
「へい?」
「横浜からの箱というのは」
「裏です。でっかいやつです。赤い封がしてあるやつ」
新太郎の背中に、冷たいものが走った。
赤い封。
つばきも同じ言葉に反応した。
「でも、あの箱、少し変でした」
千吉が首をかしげた。
影照の目がすっと細くなる。
「変?」
「部品の箱だって聞いたんですけど、思ったより軽いんです。あと、運んだあと、手が少しぴりぴりしました」
「手を見せろ」
影照の声から、ふざけた調子が消えた。
千吉はきょとんとしながら両手を差し出す。
指先に目立つ傷はない。
だが、影照はその手を鼻へ近づけ、すぐに眉を寄せた。
「石炭酸……いや、違うな。溶剤か」
「痛いのですか」
つばきが千吉の手を見る。
「ちょっとだけです。もう平気です」
千吉は笑った。
その笑顔が、かえって新太郎の胸を冷やした。
「田中先生、その箱は」
田中は少し顔を引き締めた。
「輸入部品だ。圧力計と、耐熱の小部品が入っている。横浜の商館経由で届いた」
「封蝋を、確認してもよろしいでしょうか」
つばきが言った。
田中は彼女を見た。
それから新太郎を見る。
「何かあるのか」
新太郎は一瞬迷った。
唐人お吉の警告をどこまで話すべきか。
まだ確証はない。
だが、福沢の言葉がまた頭をよぎる。
相手が何を恐れているか。
今、田中が恐れるべきものは何か。
工房の誇りを疑われることか。
それとも、工房の中に危険が入り込んでいることか。
「昨日、警告を受けました」
新太郎は言った。
「赤い封蝋に気をつけろと」
田中の目から、笑みが消えた。
影照も立ち上がる。
義経の手が、わずかに刀の柄へ近づいた。
「誰からだ」
田中が問う。
新太郎は答えに迷い、正直に言った。
「分かりません。唐人お吉を名乗る女です」
工房の奥で、金槌の音が一つ、外れた拍子で響いた。
田中は少し考えた後、短く言った。
「見に行くぞ」
裏の蔵は、工房の喧騒から少し離れていた。
木戸を開けると、乾いた木と油紙の匂いがした。
いくつもの木箱が積まれている。
その一番手前に、横浜の商館印が押された箱があった。
蓋には、赤い封蝋。
印章の跡。
新太郎は息を止めた。
唐人お吉の声が、耳の奥で蘇る。
綺麗な赤ほど、裏で腐るものよ。
封蝋を嗅げ。
赤き封は二度押される。
「触るな」
義経が言った。
新太郎は頷き、顔だけ近づけた。
甘い匂いはしない。
だが、鼻の奥に、かすかに刺すような匂いがあった。
薬品。
それとも、封蝋を溶かすための何か。
分からない。
分からないが、何かが違う。
「有馬さん」
「はい」
「昨日の紙片を」
つばきは懐から折り畳んだ紙を出した。
新太郎は箱の封を見比べる。
新太郎は、紙片の言葉を思い出していた。
つばきは、父から聞いた封蝋の扱いと、輸送箱の手配を思い出しているようだった。
影照は、蝋の流れと匂いを見ていた。
義経だけが、箱ではなく戸口を見ていた。
四人は同じ赤い封を見ているようで、それぞれ別の危険を見ていた。
封蝋は、一見すると綺麗に押されている。
だが、縁の一部がわずかに厚い。
まるで、一度固まった蝋の上に、もう一度薄く溶かした蝋を重ねたように。
「二度押し……」
新太郎が呟く。
影照が横から覗き込んだ。
「ふむ。確かに、縁の流れが妙だ。最初の蝋と後の蝋で、冷え方が違う」
「分かるのですか」
「蝋も金属も、冷える時に嘘をつく。いや、正確には、嘘をついた人間の痕を残す」
田中は箱を睨んでいた。
「誰かが開けたか」
新太郎は喉を鳴らした。
「可能性はあります」
つばきの手が、洋書の表紙を強く押さえている。
怖いのだ。
彼女も。
新太郎も。
だが、見なければならない。
田中は職人を呼ぼうとした。
その時だった。
蔵の外で、鐘の音がした。
工房の時計塔から、時を告げる鐘。
一つ。
二つ。
三つ。
澄んだ音が、朝の空気を震わせる。
その音に混じって、義経がわずかに目を細めた。
「……誰かいる」
「え?」
新太郎が振り向く。
蔵の外。
工房の裏手。
そこに一瞬だけ、人影が走った気がした。
黒い布。
低い姿勢。
そして、足音。
武士の足音ではない。
だが、剣を知る者の足音。
義経は何も言わず、一歩外へ出た。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。
冬の風が、蔵の戸をかすかに揺らしているだけだった。
義経は地面に膝をつき、土の上に残った浅い跡を見た。
足跡は軽い。
だが、逃げ足ではない。
斬る者の足跡だった。
義経の目が、わずかに細くなる。
「……知っているような足だ」
「え?」
新太郎が聞き返す。
義経は答えなかった。
新太郎は、赤い封蝋の箱を見た。
つばきは、時計塔の方を見た。
影照は、封の縁を凝視していた。
田中久重は、低く呟いた。
「面白くないな」
その言葉には、先ほどまでのからかうような響きがなかった。
工房の奥では、まだ金槌の音が続いている。
蒸気の音も。
職人たちの声も。
千吉の元気な返事も。
何も起きていないように、工房は動いている。
だが新太郎には、見えない歯車が一つ、音もなく噛み合ったように思えた。
学問の火は、机の上を離れた。
今、その火は鉄と油と木屑の間にある。
そして夜になれば、蒸気の白い息の中で、別の火種が目を覚ます。
誰もまだ、その音を聞いていなかった。


