赤い封蝋の箱は、開けられなかった。
田中久重の判断は早かった。
「裏の蔵に置いたまま、誰も触るな」
その一言で、職人たちの動きが変わった。
誰かが箱を運び出そうとするより早く、田中は蔵の戸に縄を張らせ、さらに自分の印を押した紙札を貼った。
紙札には、太い筆でこう書かれている。
不用意に開けた者、飯抜き。
新太郎は、その文字を見て少しだけ安心しかけた。
いや、安心していいのか分からない。
危険物かもしれない箱に対して、処罰が飯抜きで足りるのか。
それに、縄が張られても、箱はそこにある。
開けていない。
触れていない。
それでも、蔵の奥に置かれているだけで、工房の空気が少し重くなっている気がした。
まるで、閉じた箱の内側から、誰かがこちらの息を数えているようだった。
「田中先生」
新太郎は恐る恐る言った。
「もし本当に危険なものだった場合、飯抜きだけでは済まないのでは」
田中は振り返った。
「分かっとる」
「では、なぜ」
「職人に一番効くからだ」
工房の奥で、数人の職人がぎくりとした。
どうやら効くらしい。
「命より飯が重いわけではない。だが、命の危険を説くと妙に勇ましくなる馬鹿がいる。飯抜きと言うと、途端に慎重になる」
「人間心理が実用的すぎます」
「工房では実用が一番だ」
田中はそう言うと、千吉の手を掴んで影照の前へ押し出した。
「綾部。お前、さっきこの小僧の手を嗅いで顔をしかめたな」
「嗅いだのではない。分析したのだ」
「鼻でか」
「鼻は立派な分析器官だ」
影照は真面目な顔で言い切った。
千吉は両手を差し出したまま、目をきらきらさせている。
「俺の手、そんなにすごいんですか」
「すごくはない。だが、妙なものが付いている」
「妙なもの?」
「溶剤の匂いだ。封蝋を柔らかくするために使ったか、あるいは木箱の中に何か別の液体が漏れているか」
新太郎の背中に、また冷たいものが走った。
赤い封。
二度押し。
封蝋を嗅げ。
言葉は、こうして現実の匂いになるのか。
よく見ると、千吉の指先は、ほんの少し白く粉を吹いたようになっていた。
爪の脇だけ、乾いた糊のように皮膚が強張っている。
「痛みはあるか」
影照が千吉に聞く。
「さっきはちょっと、ぴりぴりしました。でも今は平気です」
「痒みは」
「ないです」
「舌は痺れるか」
「舌?」
千吉はなぜか舌を出した。
影照は真顔でそれを見た。
新太郎は慌てて止めた。
「綾部さん、何を確認しているんですか」
「毒性だ」
「言い方をもう少し穏やかにしてください。千吉君が舌を出したまま固まっています」
千吉は舌を出したまま、目だけで不安そうに新太郎を見る。
つばきがすっと横に膝をついた。
「千吉さん、大丈夫。まず手を水でよく洗いましょう。口に入れていなければ、すぐに危ないとは限りません」
「ひゃ、ひゃい」
舌を出したまま返事をしたせいで、何を言っているのか分からない。
つばきは少し笑い、桶の水へ千吉の指先をそっと導いた。
水に濡れると、白く見えたところだけ肌が薄く赤く浮き上がる。
つばきの表情がわずかに変わった。
「こすらないで。流すだけにしましょう」
「こすっちゃ駄目ですか」
「痛めた皮膚を余計に傷つけます」
「皮膚……」
千吉は急に自分の手が大事なものに思えてきたらしく、神妙な顔で水に浸した。
新太郎はその横顔を見た。
演説館で問いを投げる時とは違う。
工房の中で、少年の手を洗わせるつばきは、声を低く、動きをゆっくりにしている。
不安な相手を急かさない。
ああ、と新太郎は思った。
この人は、前へ進むだけではない。
立ち止まった人の歩幅にも、合わせられるのだ。
「桐生さん」
つばきが顔を上げた。
「はい」
「今、変なことを考えていませんでしたか」
「なぜ分かるんです」
「顔が少し、失礼なほど感心していました」
「失礼な感心とは」
「私が人に優しくできると、意外だったような顔です」
「違います。いや、違わないかもしれませんが、違います」
「どちらですか」
「ええと……有馬さんは、強いだけではないのだなと」
言ってから、新太郎は自分の言葉の危うさに気づいた。
つばきは瞬きをする。
それから少しだけ、頬を赤くした。
「それは、褒めているのですか」
「褒めています。たぶん」
「たぶんを付けないでください」
「褒めています」
「よろしい」
つばきはそう言って視線を逸らした。
その横で、千吉がきょとんとしている。
「お二人は仲がいいんですね」
新太郎とつばきは同時に言った。
「違います」
「違います」
ぴたりと揃った。
千吉は不思議そうに首を傾げた。
「違うのに、息は合うんですね」
新太郎とつばきは、今度こそ何も言えなかった。
影照が笑いを噛み殺す。
義経は何も言わなかったが、目が少しだけ面倒くさそうだった。
田中久重は、からからと笑った。
「若いな」
「先生、今は千吉君の手の話です」
つばきが少し強めに言う。
「分かっとる。千吉、今日はしばらく細かい作業をするな。手袋をつけろ」
「へい。でも、鳳凰丸の調整が」
「鳳凰丸?」
新太郎が聞き返す。
千吉の顔がぱっと明るくなった。
「蒸気船の模型です! 先生が見せてくれるって言ってたやつです!」
田中は顎で工房の奥を示した。
「見たいか」
つばきの目が輝いた。
影照の目も輝いた。
千吉の目も輝いた。
三人分の光で、工房の一角が少し明るくなった気がする。
義経だけが、まったく輝かない。
「蒸気の船など、陸の上で見ても仕方あるまい」
影照が振り返った。
「おぬし、海に浮かべるまで何も分からんと思っているのか」
「浮かばぬ船は、船ではない」
「模型という概念を学べ」
「斬れぬ刀を刀と呼ぶか」
「比喩がすぐ物騒になるな」
「刀の話をしている」
「だから物騒なのだ」
千吉が目を丸くしていた。
「お侍さまって、ずっと喧嘩するんですか」
新太郎は少し考えた。
「このお二人が特別です」
「へえ」
千吉は妙に納得した。
工房の奥には、大きな水槽があった。
水槽と言っても、ただの桶ではない。長く浅い木枠の中に水を張り、片側には小さな滑車と測定用の目盛りがついている。
その水面に、黒く塗られた小さな船が浮かんでいた。
鳳凰丸。
船体は木製だが、中央には小さな金属の釜があり、細い煙突が立っている。船尾には水車のようなものが取り付けられ、細い管が船腹を走っていた。
新太郎は思わず息を呑んだ。
「これが、蒸気船の模型……」
「船とは呼ぶには小さいがな」
田中が言った。
「だが、小さくても理屈は同じだ。水を熱する。蒸気が生まれる。圧が逃げ場を求める。その力を車へ伝える。車が水を掻く。船が進む」
影照が水槽に張り付くように見ている。
「圧力弁はどこだ。釜の腹か。いや、ここか。小さい。小さすぎる。だが綺麗だ。むう、これは悔しいな」
「何が悔しいのですか」
つばきが聞く。
「自分で思いつく前に、先に作られている」
「それは悔しいのですか」
「悔しい」
影照は真顔だった。
「だが、同時に嬉しい」
新太郎はその言葉に少し驚いた。
「嬉しい?」
「自分より先に誰かが同じ山を登っていると分かれば、道があると知れる。悔しいが、嬉しい。嬉しいが、悔しい」
「複雑ですね」
影照は鳳凰丸を見ながら、珍しく少し黙った。
「俺が未来だと思っていた道に、もう足跡がある」
それから、少しだけ笑う。
「だが、足跡があるなら、そこから先へ行ける」
「発明家とは、だいたい面倒くさい生き物だ」
田中が横から言った。
影照は素直に頷いた。
「それは認める」
義経が低く呟く。
「認めるのか」
「事実だからな」
「分かっていて直さないところが厄介だ」
「おぬしも似たようなものだぞ、刀の人」
「俺は厄介ではない」
新太郎、つばき、千吉が同時に義経を見た。
義経はわずかに眉を寄せた。
「何だ」
誰も答えなかった。
田中は鳳凰丸の横にある小さな圧力計を指で弾いた。
「千吉。昨日の針の戻りはどうだった」
「少し遅かったです」
「どれくらい」
「半拍くらい」
影照の目が変わった。
「半拍?」
「へい。先生に言われて見てたんです。圧を抜いたあと、針が戻るまで半拍遅れるんです」
「それに気づいたのか」
千吉は誇らしげに胸を張った。
「見てましたから」
影照は、初めて千吉を子ども扱いしない目で見た。
「いい目だ」
千吉の頬がぱっと赤くなる。
「へ?」
「機械は大きな音や派手な動きだけを見るものではない。戻りが遅い。音が濁る。匂いが変わる。そういう小さな嘘を拾える目は、いい目だ」
千吉は口を開けたまま固まった。
褒められたのだと、少し遅れて分かったらしい。
「先生! 俺、いい目ですか!」
「一回言えば分かる」
「もう一回お願いします!」
「調子に乗るな」
影照はそう言ったが、口元は少しだけ緩んでいた。
つばきが小さく笑う。
「綾部さん、先生らしいです」
「当然だ。俺は変な先生だからな」
「そこは認めるのですね」
「尊称だ」
「違うと思います」
新太郎は、影照と千吉を見ていた。
影照はいつも、機械そのものにしか興味がないように見える。
だが、今の彼は、千吉の中にある小さな観察力を見つけていた。
人の中にある芽を見つけるのも、技術者の仕事なのかもしれない。
「圧力計の戻りが遅い理由は、何でしょう」
新太郎が聞く。
影照は圧力計を横から見た。
「まず考えられるのは、内部のばねの疲労。次に、針の軸に油が固まっている。あるいは、管のどこかに水滴が入り、圧の抜け方が遅れている」
田中が頷く。
「よく見ている」
「当然だ」
「だが、もう一つある」
影照の眉が動いた。
田中は圧力計の根元を指差した。
「針が遅れているのではない。釜の中で、圧そのものが遅れて抜けている場合だ」
「圧の逃げ道が詰まっている?」
「そうだ」
田中は小さな針金を取り出し、管の継ぎ目を示した。
「小さな詰まりでも、蒸気は怒る。怒った蒸気は、人の都合を聞かん」
義経がぼそりと言った。
「やはり獣だ」
田中は笑った。
「獣と思って扱うくらいでちょうどいい。鉄の獣は、撫で方を間違えれば噛む」
つばきは水槽の中の鳳凰丸を見つめていた。
「でも、正しく扱えば、人を遠くへ運ぶ」
「そうだ」
田中は頷いた。
「それが厄介で、面白い」
新太郎は鳳凰丸を見た。
小さな船。
小さな釜。
小さな水車。
この小さな仕組みが、やがて人と荷を海の向こうへ運ぶ大きな船になる。
学問が手を持つ。
技術が足を持つ。
そして国は、海を越える。
その時、新太郎はふと、工房の隅に立つ女中の視線に気づいた。
彼女は鳳凰丸ではなく、つばきを見ていた。
年は二十を少し過ぎたくらいだろうか。袖をたすきで留め、油紙の束を抱えている。目元は穏やかだが、話しかけるには少し勇気がいりそうな慎ましさがある。
つばきもその視線に気づいた。
「桐生さん」
「はい」
「少し、あちらの方と話してきます」
新太郎は頷いた。
「僕も」
「いえ」
つばきは少しだけ笑った。
「女同士の話です」
新太郎は口を閉じた。
「分かりました」
「ただし、あとで必要なら言葉を拾ってください」
「はい。拾います」
つばきは女中の方へ歩いていった。
新太郎は少し離れて、その様子を見守る。
女中は最初、つばきが近づくと慌てて頭を下げた。
「あの、何か粗相が」
「いいえ。少し、お話を聞かせていただきたくて」
「私に、ですか」
「はい。工房で働く方の目から、この場所がどう見えているのか知りたいのです」
女中は困ったように笑った。
「私など、ただ紙を畳んだり、油を拭いたり、皆さんのお茶を用意したりするだけです」
「その仕事がなければ、工房は回りますか」
女中は答えに詰まった。
つばきは、急かさずに待った。
「……回らない、と思います」
「お名前を伺っても?」
「お初と申します」
「お初さん。機械は怖いですか」
お初はちらりと鳳凰丸を見た。
「怖いです。音も大きいですし、熱いですし。けれど、嫌いではありません」
「なぜですか」
「ここにいる人たちは、機械の話をしている時、子どもみたいな顔になります」
つばきは瞬きをした。
お初は少し恥ずかしそうに笑う。
「怒鳴ることもありますけど、悪い怒鳴り方ばかりではありません。危ない時に大きな声を出す人もいます。だから、怖いけど……ここは、生きている場所だと思います」
新太郎は離れた場所で、その言葉を聞いていた。
生きている場所。
田中の工房を表すのに、これほど素直な言葉はない気がした。
つばきは深く頷いた。
「ありがとうございます」
「いえ、そんな」
「お初さんは、学びたいと思うことはありますか」
お初は驚いた。
まるで、その問いを自分に向けられるとは思っていなかったように。
「私が、ですか」
「はい」
「字は少し読めます。でも、図面は分かりません。数字も苦手です」
「分かるようになりたいですか」
お初は、油紙の束をぎゅっと抱えた。
「……分かるなら、分かりたいです。皆さんが何を見ているのか、少しでも」
お初は小さく息を吸った。
「図面が読めたら、危ない時に先に気づけるかもしれません」
「危ない時?」
「火が強すぎるとか、管が変だとか、今は誰かが怒鳴ってからでないと分かりません。でも、私も先に分かれば、誰かを呼べるかもしれない」
お初は油紙の束を抱え直した。
「ここで働く人たちの顔を、私は毎日見ていますから」
つばきの表情が柔らかくなった。
「では、いつか一緒に勉強しましょう」
「え」
「私もまだ学んでいる途中です。一人では、すぐ意地を張りますから」
お初はぽかんとして、それから小さく笑った。
「お嬢さまも、意地を張るんですか」
「かなり」
新太郎は思わず頷きかけ、慌てて止めた。
しかし、つばきの目がこちらを向いた。
見られていた。
新太郎は何事もなかった顔で鳳凰丸を見た。
つばきは少しだけ目を細めた。
後で何か言われるかもしれない。
その頃、義経は工房の別の一角にいた。
蒸気船模型には興味を示さなかった彼が、そこだけは足を止めている。
そこには、古い鍛冶道具が並んでいた。
金床。
火箸。
焼き入れに使う水桶。
そして、刃物を研ぐための砥石。
田中がいつの間にか義経の横に立っていた。
「そちらは見るのだな、番犬殿」
「番犬ではない」
「では、刀の似合う若いの」
「長い」
「お前さんも略すのが好きではないか」
義経は答えず、砥石を見ていた。
「機械の工房に、なぜ鍛冶道具がある」
「機械も刃物も、金属と火と手が要る。別物の顔をしているが、根は近い」
田中は金床に手を置いた。
「からくりも蒸気も、突然空から降ってきたものではない。古い手の上に、新しい手を継いだだけだ」
義経は黙っていた。
その目は、ほんの少しだけ柔らかくなっている。
義経の親指が、刀の鍔を軽く押した。
抜くためではない。
そこにまだあることを確かめるような触れ方だった。
「古い手は、捨てられるだけではないのか」
その問いは、低かった。
新太郎は少し離れた場所で聞いていた。
義経がそんなことを聞くのは意外だった。
田中はすぐには答えなかった。
「捨てる者もいる。捨てられたと思い込む者もいる。だが、古い手がなければ新しい手は作れん」
義経は、腰の刀に触れた。
「ならば、刀は」
「刀も手だ。ただし、伸ばす方向を間違えると、人を斬るだけの手になる」
義経の指が止まった。
田中は続けた。
「お前さんがその刀で何を守るかは、刀ではなく、お前さんが決めることだ」
義経は何も言わなかった。
だが、新太郎には分かった。
今の言葉は、義経のどこかへ届いた。
同時に、届いたからこそ、彼は黙ったのだ。
「先生!」
千吉の声が工房に響いた。
「鳳凰丸、火を入れていいですか!」
田中が振り向く。
「待て。お前は今日、細かい作業はするなと言った」
「火入れは細かくありません!」
「馬鹿者。火入れほど細かい仕事はない」
「では見てます! 見るだけです!」
千吉が必死に言う。
田中は少しだけ考えた。
「見るだけだぞ」
「へい!」
千吉が小さな漏斗で水を注ぐ。
田中が火皿を入れる。
影照が圧力計の針を睨む。
つばきが息を止める。
新太郎も、知らず知らず背筋を伸ばしていた。
まるで、小さな船の出航式だった。
鳳凰丸の釜に小さな火が入った。
水が温まり、やがて細い煙突から白い湯気が立つ。
つばきが息を呑む。
影照は身を乗り出す。
新太郎も、気づけば水槽に近づいていた。
白い息。
小さな鉄の獣が、眠りから覚めるようだった。
圧力計の針がゆっくり動く。
田中が目盛りを見る。
「まだだ」
影照が針を見る。
「上がりが少し鈍い」
「分かるか」
「分かる」
千吉が小さく言った。
「昨日も、そんな感じでした」
田中の表情が少しだけ変わった。
影照は管の継ぎ目へ顔を近づける。
まず、音が変わった。
しゅう、という白い息の音に、かすかな濁りが混じる。
次に、水面に細かな泡が浮いた。
船尾ではない。
船腹の下からだった。
圧力計の針が、上がりかけた位置でわずかに震えたまま戻らない。
影照の目が鋭くなる。
彼は管の継ぎ目へ顔を近づけた。
「油か。いや、焦げ臭い。継ぎ目の内側に何か入っている」
影照がさらに鼻を近づけ、顔をしかめた。
「同じ匂いだ」
「同じ?」
新太郎が聞く。
「千吉の手についていた溶剤と似ている」
「火を落とせ」
田中の声が鋭くなった。
職人がすぐに火を弱める。
その瞬間、鳳凰丸の船体が小さく震えた。
ぽん、と軽い音がした。
水面が小さく跳ねる。
つばきが一歩下がり、新太郎が反射的にその前へ出た。
「有馬さん」
「大丈夫です」
声は落ち着いている。
だが、つばきの手は本の角を強く握っていた。
影照は鳳凰丸を睨んでいる。
「おかしい」
「何がだ」
義経が聞く。
「詰まり方が自然ではない。昨日の調整不良なら、もっと緩く症状が出る。これは……誰かが意図して、細い異物を入れた時の詰まり方だ」
工房の空気が変わった。
金槌の音が、一つ、二つと止まる。
千吉の顔から血の気が引いた。
「俺、触ってません」
その声が、思ったより小さく工房に落ちた。
誰も千吉を責めていない。
だが、責められる前に言わずにいられないほど、彼は青ざめていた。
「分かっている」
影照の声は短かったが、優しかった。
「お前の目が正しかった。戻りが遅いと気づいたから、今止められた」
千吉は唇を噛んだ。
褒められているのに、泣きそうな顔をしている。
田中は鳳凰丸を見て、低く言った。
「工房の中に、手を入れた者がいるな」
その言葉は、赤い封蝋の箱よりも重かった。
箱だけではない。
すでに工房そのものへ、誰かの手が入っている。
新太郎は周囲を見た。
職人たち。
お初。
千吉。
田中。
影照。
つばき。
義経。
誰もが、同じ空間にいる。
だが、誰かが見えない場所から、この工房の息を詰まらせようとしている。
「戸口を閉めろ」
義経が言った。
その声は静かだった。
だが、工房の中の誰よりも早く危険を掴んでいた。
職人が戸口へ走る。
その直前、外の土間で、小さな音がした。
砂を踏む音。
軽い。
しかし、ただ逃げる者の足ではない。
義経の目が細くなった。
工房の裏手で聞いた、あの足音。
剣を知る者の足音。
「またか」
義経は低く呟いた。
新太郎が振り返る。
戸口の外には、冬の日差しが落ちている。
人影はない。
ただ、土間の隅に、黒い布の繊維が一本だけ引っかかっていた。
義経はそれを拾い上げる。
指先で布をこすった瞬間、その顔がわずかに強張った。
粗い。
だが、縦糸の締め方に覚えがある。
会津の冬に、風を通さぬよう選ばれる織り。
まだ義経と景久が同じ家の中にいた頃、母がよく手に取っていた布に似ていた。
「知っている織りだ」
「真田さん?」
義経は答えなかった。
まさか、と思うには早い。
だが、早すぎると思いたい時ほど、嫌な勘はよく当たる。
工房の奥で、鳳凰丸の煙突から最後の白い湯気が消えていく。
鉄の獣は、ひとまず眠った。
だが、新太郎には分かっていた。
千吉の小さな手は、機械の異変を見つけた。
だが、別の小さな手が、工房の息を詰まらせていた。
眠ったのは、鳳凰丸だけだ。
工房の外で、別の何かが目を覚まし始めている。


