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第2章「蒸気機関の夜」第2話「鉄の獣と小さな手

赤い封蝋の箱は、開けられなかった。

田中久重の判断は早かった。

「裏の蔵に置いたまま、誰も触るな」

その一言で、職人たちの動きが変わった。

誰かが箱を運び出そうとするより早く、田中は蔵の戸に縄を張らせ、さらに自分の印を押した紙札を貼った。

紙札には、太い筆でこう書かれている。

不用意に開けた者、飯抜き。

新太郎は、その文字を見て少しだけ安心しかけた。

いや、安心していいのか分からない。

危険物かもしれない箱に対して、処罰が飯抜きで足りるのか。

それに、縄が張られても、箱はそこにある。

開けていない。

触れていない。

それでも、蔵の奥に置かれているだけで、工房の空気が少し重くなっている気がした。

まるで、閉じた箱の内側から、誰かがこちらの息を数えているようだった。

「田中先生」

新太郎は恐る恐る言った。

「もし本当に危険なものだった場合、飯抜きだけでは済まないのでは」

田中は振り返った。

「分かっとる」

「では、なぜ」

「職人に一番効くからだ」

工房の奥で、数人の職人がぎくりとした。

どうやら効くらしい。

「命より飯が重いわけではない。だが、命の危険を説くと妙に勇ましくなる馬鹿がいる。飯抜きと言うと、途端に慎重になる」

「人間心理が実用的すぎます」

「工房では実用が一番だ」

田中はそう言うと、千吉の手を掴んで影照の前へ押し出した。

「綾部。お前、さっきこの小僧の手を嗅いで顔をしかめたな」

「嗅いだのではない。分析したのだ」

「鼻でか」

「鼻は立派な分析器官だ」

影照は真面目な顔で言い切った。

千吉は両手を差し出したまま、目をきらきらさせている。

「俺の手、そんなにすごいんですか」

「すごくはない。だが、妙なものが付いている」

「妙なもの?」

「溶剤の匂いだ。封蝋を柔らかくするために使ったか、あるいは木箱の中に何か別の液体が漏れているか」

新太郎の背中に、また冷たいものが走った。

赤い封。

二度押し。

封蝋を嗅げ。

言葉は、こうして現実の匂いになるのか。

よく見ると、千吉の指先は、ほんの少し白く粉を吹いたようになっていた。

爪の脇だけ、乾いた糊のように皮膚が強張っている。

「痛みはあるか」

影照が千吉に聞く。

「さっきはちょっと、ぴりぴりしました。でも今は平気です」

「痒みは」

「ないです」

「舌は痺れるか」

「舌?」

千吉はなぜか舌を出した。

影照は真顔でそれを見た。

新太郎は慌てて止めた。

「綾部さん、何を確認しているんですか」

「毒性だ」

「言い方をもう少し穏やかにしてください。千吉君が舌を出したまま固まっています」

千吉は舌を出したまま、目だけで不安そうに新太郎を見る。

つばきがすっと横に膝をついた。

「千吉さん、大丈夫。まず手を水でよく洗いましょう。口に入れていなければ、すぐに危ないとは限りません」

「ひゃ、ひゃい」

舌を出したまま返事をしたせいで、何を言っているのか分からない。

つばきは少し笑い、桶の水へ千吉の指先をそっと導いた。

水に濡れると、白く見えたところだけ肌が薄く赤く浮き上がる。

つばきの表情がわずかに変わった。

「こすらないで。流すだけにしましょう」

「こすっちゃ駄目ですか」

「痛めた皮膚を余計に傷つけます」

「皮膚……」

千吉は急に自分の手が大事なものに思えてきたらしく、神妙な顔で水に浸した。

新太郎はその横顔を見た。

演説館で問いを投げる時とは違う。

工房の中で、少年の手を洗わせるつばきは、声を低く、動きをゆっくりにしている。

不安な相手を急かさない。

ああ、と新太郎は思った。

この人は、前へ進むだけではない。

立ち止まった人の歩幅にも、合わせられるのだ。

「桐生さん」

つばきが顔を上げた。

「はい」

「今、変なことを考えていませんでしたか」

「なぜ分かるんです」

「顔が少し、失礼なほど感心していました」

「失礼な感心とは」

「私が人に優しくできると、意外だったような顔です」

「違います。いや、違わないかもしれませんが、違います」

「どちらですか」

「ええと……有馬さんは、強いだけではないのだなと」

言ってから、新太郎は自分の言葉の危うさに気づいた。

つばきは瞬きをする。

それから少しだけ、頬を赤くした。

「それは、褒めているのですか」

「褒めています。たぶん」

「たぶんを付けないでください」

「褒めています」

「よろしい」

つばきはそう言って視線を逸らした。

その横で、千吉がきょとんとしている。

「お二人は仲がいいんですね」

新太郎とつばきは同時に言った。

「違います」

「違います」

ぴたりと揃った。

千吉は不思議そうに首を傾げた。

「違うのに、息は合うんですね」

新太郎とつばきは、今度こそ何も言えなかった。

影照が笑いを噛み殺す。

義経は何も言わなかったが、目が少しだけ面倒くさそうだった。

田中久重は、からからと笑った。

「若いな」

「先生、今は千吉君の手の話です」

つばきが少し強めに言う。

「分かっとる。千吉、今日はしばらく細かい作業をするな。手袋をつけろ」

「へい。でも、鳳凰丸の調整が」

「鳳凰丸?」

新太郎が聞き返す。

千吉の顔がぱっと明るくなった。

「蒸気船の模型です! 先生が見せてくれるって言ってたやつです!」

田中は顎で工房の奥を示した。

「見たいか」

つばきの目が輝いた。

影照の目も輝いた。

千吉の目も輝いた。

三人分の光で、工房の一角が少し明るくなった気がする。

義経だけが、まったく輝かない。

「蒸気の船など、陸の上で見ても仕方あるまい」

影照が振り返った。

「おぬし、海に浮かべるまで何も分からんと思っているのか」

「浮かばぬ船は、船ではない」

「模型という概念を学べ」

「斬れぬ刀を刀と呼ぶか」

「比喩がすぐ物騒になるな」

「刀の話をしている」

「だから物騒なのだ」

千吉が目を丸くしていた。

「お侍さまって、ずっと喧嘩するんですか」

新太郎は少し考えた。

「このお二人が特別です」

「へえ」

千吉は妙に納得した。

工房の奥には、大きな水槽があった。

水槽と言っても、ただの桶ではない。長く浅い木枠の中に水を張り、片側には小さな滑車と測定用の目盛りがついている。

その水面に、黒く塗られた小さな船が浮かんでいた。

鳳凰丸。

船体は木製だが、中央には小さな金属の釜があり、細い煙突が立っている。船尾には水車のようなものが取り付けられ、細い管が船腹を走っていた。

新太郎は思わず息を呑んだ。

「これが、蒸気船の模型……」

「船とは呼ぶには小さいがな」

田中が言った。

「だが、小さくても理屈は同じだ。水を熱する。蒸気が生まれる。圧が逃げ場を求める。その力を車へ伝える。車が水を掻く。船が進む」

影照が水槽に張り付くように見ている。

「圧力弁はどこだ。釜の腹か。いや、ここか。小さい。小さすぎる。だが綺麗だ。むう、これは悔しいな」

「何が悔しいのですか」

つばきが聞く。

「自分で思いつく前に、先に作られている」

「それは悔しいのですか」

「悔しい」

影照は真顔だった。

「だが、同時に嬉しい」

新太郎はその言葉に少し驚いた。

「嬉しい?」

「自分より先に誰かが同じ山を登っていると分かれば、道があると知れる。悔しいが、嬉しい。嬉しいが、悔しい」

「複雑ですね」

影照は鳳凰丸を見ながら、珍しく少し黙った。

「俺が未来だと思っていた道に、もう足跡がある」

それから、少しだけ笑う。

「だが、足跡があるなら、そこから先へ行ける」

「発明家とは、だいたい面倒くさい生き物だ」

田中が横から言った。

影照は素直に頷いた。

「それは認める」

義経が低く呟く。

「認めるのか」

「事実だからな」

「分かっていて直さないところが厄介だ」

「おぬしも似たようなものだぞ、刀の人」

「俺は厄介ではない」

新太郎、つばき、千吉が同時に義経を見た。

義経はわずかに眉を寄せた。

「何だ」

誰も答えなかった。

田中は鳳凰丸の横にある小さな圧力計を指で弾いた。

「千吉。昨日の針の戻りはどうだった」

「少し遅かったです」

「どれくらい」

「半拍くらい」

影照の目が変わった。

「半拍?」

「へい。先生に言われて見てたんです。圧を抜いたあと、針が戻るまで半拍遅れるんです」

「それに気づいたのか」

千吉は誇らしげに胸を張った。

「見てましたから」

影照は、初めて千吉を子ども扱いしない目で見た。

「いい目だ」

千吉の頬がぱっと赤くなる。

「へ?」

「機械は大きな音や派手な動きだけを見るものではない。戻りが遅い。音が濁る。匂いが変わる。そういう小さな嘘を拾える目は、いい目だ」

千吉は口を開けたまま固まった。

褒められたのだと、少し遅れて分かったらしい。

「先生! 俺、いい目ですか!」

「一回言えば分かる」

「もう一回お願いします!」

「調子に乗るな」

影照はそう言ったが、口元は少しだけ緩んでいた。

つばきが小さく笑う。

「綾部さん、先生らしいです」

「当然だ。俺は変な先生だからな」

「そこは認めるのですね」

「尊称だ」

「違うと思います」

新太郎は、影照と千吉を見ていた。

影照はいつも、機械そのものにしか興味がないように見える。

だが、今の彼は、千吉の中にある小さな観察力を見つけていた。

人の中にある芽を見つけるのも、技術者の仕事なのかもしれない。

「圧力計の戻りが遅い理由は、何でしょう」

新太郎が聞く。

影照は圧力計を横から見た。

「まず考えられるのは、内部のばねの疲労。次に、針の軸に油が固まっている。あるいは、管のどこかに水滴が入り、圧の抜け方が遅れている」

田中が頷く。

「よく見ている」

「当然だ」

「だが、もう一つある」

影照の眉が動いた。

田中は圧力計の根元を指差した。

「針が遅れているのではない。釜の中で、圧そのものが遅れて抜けている場合だ」

「圧の逃げ道が詰まっている?」

「そうだ」

田中は小さな針金を取り出し、管の継ぎ目を示した。

「小さな詰まりでも、蒸気は怒る。怒った蒸気は、人の都合を聞かん」

義経がぼそりと言った。

「やはり獣だ」

田中は笑った。

「獣と思って扱うくらいでちょうどいい。鉄の獣は、撫で方を間違えれば噛む」

つばきは水槽の中の鳳凰丸を見つめていた。

「でも、正しく扱えば、人を遠くへ運ぶ」

「そうだ」

田中は頷いた。

「それが厄介で、面白い」

新太郎は鳳凰丸を見た。

小さな船。

小さな釜。

小さな水車。

この小さな仕組みが、やがて人と荷を海の向こうへ運ぶ大きな船になる。

学問が手を持つ。

技術が足を持つ。

そして国は、海を越える。

その時、新太郎はふと、工房の隅に立つ女中の視線に気づいた。

彼女は鳳凰丸ではなく、つばきを見ていた。

年は二十を少し過ぎたくらいだろうか。袖をたすきで留め、油紙の束を抱えている。目元は穏やかだが、話しかけるには少し勇気がいりそうな慎ましさがある。

つばきもその視線に気づいた。

「桐生さん」

「はい」

「少し、あちらの方と話してきます」

新太郎は頷いた。

「僕も」

「いえ」

つばきは少しだけ笑った。

「女同士の話です」

新太郎は口を閉じた。

「分かりました」

「ただし、あとで必要なら言葉を拾ってください」

「はい。拾います」

つばきは女中の方へ歩いていった。

新太郎は少し離れて、その様子を見守る。

女中は最初、つばきが近づくと慌てて頭を下げた。

「あの、何か粗相が」

「いいえ。少し、お話を聞かせていただきたくて」

「私に、ですか」

「はい。工房で働く方の目から、この場所がどう見えているのか知りたいのです」

女中は困ったように笑った。

「私など、ただ紙を畳んだり、油を拭いたり、皆さんのお茶を用意したりするだけです」

「その仕事がなければ、工房は回りますか」

女中は答えに詰まった。

つばきは、急かさずに待った。

「……回らない、と思います」

「お名前を伺っても?」

「お初と申します」

「お初さん。機械は怖いですか」

お初はちらりと鳳凰丸を見た。

「怖いです。音も大きいですし、熱いですし。けれど、嫌いではありません」

「なぜですか」

「ここにいる人たちは、機械の話をしている時、子どもみたいな顔になります」

つばきは瞬きをした。

お初は少し恥ずかしそうに笑う。

「怒鳴ることもありますけど、悪い怒鳴り方ばかりではありません。危ない時に大きな声を出す人もいます。だから、怖いけど……ここは、生きている場所だと思います」

新太郎は離れた場所で、その言葉を聞いていた。

生きている場所。

田中の工房を表すのに、これほど素直な言葉はない気がした。

つばきは深く頷いた。

「ありがとうございます」

「いえ、そんな」

「お初さんは、学びたいと思うことはありますか」

お初は驚いた。

まるで、その問いを自分に向けられるとは思っていなかったように。

「私が、ですか」

「はい」

「字は少し読めます。でも、図面は分かりません。数字も苦手です」

「分かるようになりたいですか」

お初は、油紙の束をぎゅっと抱えた。

「……分かるなら、分かりたいです。皆さんが何を見ているのか、少しでも」

お初は小さく息を吸った。

「図面が読めたら、危ない時に先に気づけるかもしれません」

「危ない時?」

「火が強すぎるとか、管が変だとか、今は誰かが怒鳴ってからでないと分かりません。でも、私も先に分かれば、誰かを呼べるかもしれない」

お初は油紙の束を抱え直した。

「ここで働く人たちの顔を、私は毎日見ていますから」

つばきの表情が柔らかくなった。

「では、いつか一緒に勉強しましょう」

「え」

「私もまだ学んでいる途中です。一人では、すぐ意地を張りますから」

お初はぽかんとして、それから小さく笑った。

「お嬢さまも、意地を張るんですか」

「かなり」

新太郎は思わず頷きかけ、慌てて止めた。

しかし、つばきの目がこちらを向いた。

見られていた。

新太郎は何事もなかった顔で鳳凰丸を見た。

つばきは少しだけ目を細めた。

後で何か言われるかもしれない。

その頃、義経は工房の別の一角にいた。

蒸気船模型には興味を示さなかった彼が、そこだけは足を止めている。

そこには、古い鍛冶道具が並んでいた。

金床。

火箸。

焼き入れに使う水桶。

そして、刃物を研ぐための砥石。

田中がいつの間にか義経の横に立っていた。

「そちらは見るのだな、番犬殿」

「番犬ではない」

「では、刀の似合う若いの」

「長い」

「お前さんも略すのが好きではないか」

義経は答えず、砥石を見ていた。

「機械の工房に、なぜ鍛冶道具がある」

「機械も刃物も、金属と火と手が要る。別物の顔をしているが、根は近い」

田中は金床に手を置いた。

「からくりも蒸気も、突然空から降ってきたものではない。古い手の上に、新しい手を継いだだけだ」

義経は黙っていた。

その目は、ほんの少しだけ柔らかくなっている。

義経の親指が、刀の鍔を軽く押した。

抜くためではない。

そこにまだあることを確かめるような触れ方だった。

「古い手は、捨てられるだけではないのか」

その問いは、低かった。

新太郎は少し離れた場所で聞いていた。

義経がそんなことを聞くのは意外だった。

田中はすぐには答えなかった。

「捨てる者もいる。捨てられたと思い込む者もいる。だが、古い手がなければ新しい手は作れん」

義経は、腰の刀に触れた。

「ならば、刀は」

「刀も手だ。ただし、伸ばす方向を間違えると、人を斬るだけの手になる」

義経の指が止まった。

田中は続けた。

「お前さんがその刀で何を守るかは、刀ではなく、お前さんが決めることだ」

義経は何も言わなかった。

だが、新太郎には分かった。

今の言葉は、義経のどこかへ届いた。

同時に、届いたからこそ、彼は黙ったのだ。

「先生!」

千吉の声が工房に響いた。

「鳳凰丸、火を入れていいですか!」

田中が振り向く。

「待て。お前は今日、細かい作業はするなと言った」

「火入れは細かくありません!」

「馬鹿者。火入れほど細かい仕事はない」

「では見てます! 見るだけです!」

千吉が必死に言う。

田中は少しだけ考えた。

「見るだけだぞ」

「へい!」

千吉が小さな漏斗で水を注ぐ。

田中が火皿を入れる。

影照が圧力計の針を睨む。

つばきが息を止める。

新太郎も、知らず知らず背筋を伸ばしていた。

まるで、小さな船の出航式だった。

鳳凰丸の釜に小さな火が入った。

水が温まり、やがて細い煙突から白い湯気が立つ。

つばきが息を呑む。

影照は身を乗り出す。

新太郎も、気づけば水槽に近づいていた。

白い息。

小さな鉄の獣が、眠りから覚めるようだった。

圧力計の針がゆっくり動く。

田中が目盛りを見る。

「まだだ」

影照が針を見る。

「上がりが少し鈍い」

「分かるか」

「分かる」

千吉が小さく言った。

「昨日も、そんな感じでした」

田中の表情が少しだけ変わった。

影照は管の継ぎ目へ顔を近づける。

まず、音が変わった。

しゅう、という白い息の音に、かすかな濁りが混じる。

次に、水面に細かな泡が浮いた。

船尾ではない。

船腹の下からだった。

圧力計の針が、上がりかけた位置でわずかに震えたまま戻らない。

影照の目が鋭くなる。

彼は管の継ぎ目へ顔を近づけた。

「油か。いや、焦げ臭い。継ぎ目の内側に何か入っている」

影照がさらに鼻を近づけ、顔をしかめた。

「同じ匂いだ」

「同じ?」

新太郎が聞く。

「千吉の手についていた溶剤と似ている」

「火を落とせ」

田中の声が鋭くなった。

職人がすぐに火を弱める。

その瞬間、鳳凰丸の船体が小さく震えた。

ぽん、と軽い音がした。

水面が小さく跳ねる。

つばきが一歩下がり、新太郎が反射的にその前へ出た。

「有馬さん」

「大丈夫です」

声は落ち着いている。

だが、つばきの手は本の角を強く握っていた。

影照は鳳凰丸を睨んでいる。

「おかしい」

「何がだ」

義経が聞く。

「詰まり方が自然ではない。昨日の調整不良なら、もっと緩く症状が出る。これは……誰かが意図して、細い異物を入れた時の詰まり方だ」

工房の空気が変わった。

金槌の音が、一つ、二つと止まる。

千吉の顔から血の気が引いた。

「俺、触ってません」

その声が、思ったより小さく工房に落ちた。

誰も千吉を責めていない。

だが、責められる前に言わずにいられないほど、彼は青ざめていた。

「分かっている」

影照の声は短かったが、優しかった。

「お前の目が正しかった。戻りが遅いと気づいたから、今止められた」

千吉は唇を噛んだ。

褒められているのに、泣きそうな顔をしている。

田中は鳳凰丸を見て、低く言った。

「工房の中に、手を入れた者がいるな」

その言葉は、赤い封蝋の箱よりも重かった。

箱だけではない。

すでに工房そのものへ、誰かの手が入っている。

新太郎は周囲を見た。

職人たち。

お初。

千吉。

田中。

影照。

つばき。

義経。

誰もが、同じ空間にいる。

だが、誰かが見えない場所から、この工房の息を詰まらせようとしている。

「戸口を閉めろ」

義経が言った。

その声は静かだった。

だが、工房の中の誰よりも早く危険を掴んでいた。

職人が戸口へ走る。

その直前、外の土間で、小さな音がした。

砂を踏む音。

軽い。

しかし、ただ逃げる者の足ではない。

義経の目が細くなった。

工房の裏手で聞いた、あの足音。

剣を知る者の足音。

「またか」

義経は低く呟いた。

新太郎が振り返る。

戸口の外には、冬の日差しが落ちている。

人影はない。

ただ、土間の隅に、黒い布の繊維が一本だけ引っかかっていた。

義経はそれを拾い上げる。

指先で布をこすった瞬間、その顔がわずかに強張った。

粗い。

だが、縦糸の締め方に覚えがある。

会津の冬に、風を通さぬよう選ばれる織り。

まだ義経と景久が同じ家の中にいた頃、母がよく手に取っていた布に似ていた。

「知っている織りだ」

「真田さん?」

義経は答えなかった。

まさか、と思うには早い。

だが、早すぎると思いたい時ほど、嫌な勘はよく当たる。

工房の奥で、鳳凰丸の煙突から最後の白い湯気が消えていく。

鉄の獣は、ひとまず眠った。

だが、新太郎には分かっていた。

千吉の小さな手は、機械の異変を見つけた。

だが、別の小さな手が、工房の息を詰まらせていた。

眠ったのは、鳳凰丸だけだ。

工房の外で、別の何かが目を覚まし始めている。

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