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第2章「蒸気機関の夜」第4話「時計塔の鐘」

三つ目の鐘が鳴った時、千吉は夢の中にいた。

夢の中で、鳳凰丸は本物の船になっていた。

水槽ではなく、広い海の上を進んでいる。

黒い船体は波を割り、細い煙突から白い蒸気を吐き、船尾の水車がきらきらと水を掻いている。

甲板には田中久重が立っていた。

綾部影照もいた。

有馬つばきも、桐生新太郎も、真田義経もいた。

なぜか義経だけは、船の上でも「浮かばぬ模型は船ではない」と言っていた。

影照が「これはもう浮いているだろうが」と怒鳴る。

つばきが笑う。

新太郎が困った顔で間に入る。

千吉は甲板の端で工具袋を抱え、自分もいつかこんな船を作るのだと思っていた。

その時、海の向こうで鐘が鳴った。

一つ。

二つ。

三つ。

夢の中の海が、赤く光った。

千吉は目を開けた。

最初に見えたのは、火鉢の赤だった。

次に、お初がかけてくれた上着。

それから、膝の上の圧力計の写し図。

「……寝てた」

千吉は慌てて身を起こした。

工房の奥では、職人たちが遅い夕飯を取っている。湯気の立つ味噌汁。握り飯。漬物。疲れた笑い声。

昼間の緊張はまだ消えていない。

赤い封蝋の箱は蔵に置かれたままだし、鳳凰丸の管に誰かが細工したことも分かっている。

それでも、人は腹が減る。

腹が減れば飯を食う。

飯を食えば、少し笑える。

工房という場所は、そうやって動いている。

田中久重は味噌汁の椀を片手に、図面の端を見ていた。

綾部影照は飯粒を頬につけたまま、まだ圧力計の戻りがどうのと職人に語っている。

義経は誰とも話さない。

しかし千吉が火鉢に近づきすぎると、無言で椀を少し横へずらした。

つばきはお初に、油紙の余白を使って「圧」という字の読み方を教えている。

新太郎はその横で、職人たちが使っていた「弁が鳴く」「歯がずれる」という言葉を手帳に写していた。

誰も大きなことはしていない。

ただ、食べ、話し、学び、少し笑っていた。

そのすべてが、次の瞬間、火の音に破られた。

「千吉さん、起きましたか」

お初が茶碗を持って近づいてきた。

「手は痛みません?」

「平気です」

千吉は慌てて両手を見せた。

指先は少し赤いが、つばきに洗ってもらってから、ぴりぴりした痛みはほとんど消えていた。

「有馬さまが、こすらずに流せって言ってました」

「言ってましたね」

「あの人、すげえですね」

「何がです?」

「怖くても、声がまっすぐです」

お初は少しだけ笑った。

「そうですね」

千吉は写し図を抱え直した。

「綾部先生もすげえです。俺の目、いいって言ってくれた」

「もう三回聞きました」

「あと七回は言います」

「十回で済みますか」

二人が小さく笑った、その時だった。

外で、何かが割れた。

陶器ではない。

瓦でもない。

薄い硝子が割れるような、乾いた音。

次の瞬間、裏手の方で赤い光が跳ねた。

「火だ!」

誰かが叫んだ。

工房の空気が、一瞬で変わった。

飯を持っていた職人が立ち上がる。

火鉢のそばにいた者が水桶を掴む。

田中久重が奥の机から顔を上げる。

「どこだ!」

「裏手です! 蔵の方!」

蔵。

赤い封蝋の箱。

千吉の胸が跳ねた。

外でまた、硝子の割れる音。

続けて、油に火が移る低い唸り。

お初が息を呑んだ。

「千吉さん、下がって」

「でも」

「下がって!」

お初の声は、いつもより強かった。

千吉は反射的に一歩下がる。

その直後、裏の戸が蹴破られた。

黒い影がいくつも流れ込んでくる。

浪人たちだった。

顔を布で隠し、刀や短銃を手にしている。

先頭の男が懐から紙を引き抜いた。

朱筆の文字が、炎に赤く浮かぶ。

「西洋の妖術を焼け!」

その声は、工房の梁にぶつかって響いた。

「鉄の獣を焼け!」

その言葉は、誰かがその場で思いついたものではなかった。

すでに用意され、配られ、若い喉へ押し込まれていた言葉だった。

火炎瓶が投げ込まれた。

油を吸った布の火が、床に落ちた瞬間、青白く広がる。

火は、落ちた場所で止まらなかった。

床の油を見つけると、舌を伸ばすように横へ走った。

木屑を舐めた。

油紙が燃えた。

棚の脚へ巻きつき、ぱちぱちと音を立て始めた。

千吉には、それが鳳凰丸の蒸気とはまったく違う生き物に見えた。

人を運ぶ火ではない。

人を追い立てる火だった。

千吉は動けなかった。

夢の中で見た赤い海が、目の前に戻ってきたようだった。

「千吉!」

田中の声が飛ぶ。

その声で、千吉はようやく息をした。

「水! 水桶を回せ! 紙をどけろ! 火鉢を倒すな!」

田中久重の声は、工房中へ突き刺さった。

「飯は後だ! 生きていればまた食える!」

職人たちが一斉に動く。

だが、浪人たちは入口を塞いでいた。

別の浪人が、棚へ向かって走る。

設計図。

工房の命。

「そこへ行かせるな!」

職人が飛びかかろうとした。

その前に、浪人の刀が抜かれる。

「邪魔をするな!」

刃が灯りを反射した。

その瞬間、横から黒い影が滑り込んだ。

真田義経だった。

「邪魔をしているのは、貴様らだ」

声は低い。

だが、火よりも冷たかった。

義経の水心子正秀が抜かれる。

きん、と澄んだ音。

次の瞬間、浪人の刀が宙を舞った。

人は斬られていない。

刀だけが斬られていた。

浪人が目を剥く。

義経はすでに次の相手へ踏み込んでいる。

一人。

二人。

三人。

火の粉の中、刀の軌跡だけが白く走る。

「真田さん!」

新太郎の声がした。

千吉が振り向くと、新太郎とつばきが奥の通路から駆け込んでくる。

つばきの手には濡らした布。

新太郎は咳き込みながら、周囲を見回していた。

「何が」

「見れば分かるだろう!」

影照の声が返ってきた。

彼は工具袋を片手に、すでに工房の中央へ飛び出している。

「火だ! 敵だ! そして俺の嫌いな不完全燃焼だ!」

「三つ目は今言うことですか!」

新太郎が叫ぶ。

影照は答えず、背中の金属筒を下ろした。

「よし、使う時が来たな」

つばきが目を見開く。

「綾部さん、それは」

「小型蒸気圧式多目的噴射装置、改め」

影照は筒の蓋を開けた。

中から、玉虫色に光る小さな筒が三本出てくる。

「玉虫煙筒!」

新太郎は嫌な予感しかしなかった。

「それ、爆発しませんか」

「しない。たぶん」

「たぶんを付けないでください!」

影照は一本を手に取り、得意げに説明を始めた。

「燃焼比率は硫黄三に硝石五、そこへ貝殻粉と乾燥藍を混ぜることで、紫煙の粒子が」

「黙って投げろ」

義経の声だった。

影照は一瞬むっとしたが、すぐに投げた。

玉虫煙筒が床を転がる。

ぽん、と軽い音。

次の瞬間、紫色の煙が入口周辺へ低く広がった。

浪人たちが咳き込む。

「目が!」

「煙だ!」

「どこへ行った!」

視界が紫に染まった。

新太郎は慌てて口元を押さえる。

「綾部さん、これ、こちらも見えません!」

「だから便利だろう」

「便利の意味が違います!」

紫煙は浪人たちの目を奪った。

だが同時に、天井へ上る黒煙の流れも乱している。

田中が怒鳴った。

「綾部! 煙を増やしすぎるな! 火の逃げ道が読めん!」

影照の顔が初めて引き締まる。

「分かっている。二本目は場所を選ぶ」

つばきは濡れ布を新太郎に押しつけた。

「口に当ててください」

「有馬さんは」

「持っています」

つばきはすでに自分の口元を布で覆っている。

その目は、煙の向こうを探していた。

お初。

千吉。

職人の妻たち。

逃げ遅れた者。

新太郎にも、彼女が何を見ようとしているのか分かった。

つばきは逃げる人々を見て、一瞬だけ立ち止まった。

走る者。

咳き込む者。

荷物を取りに戻ろうとする者。

子を探す女中。

ばらばらだった。

「お初さん! 子どもと女中の方をこちらへ集めてください! 濡れ布を配ります。走らず、低く。出口は一つに絞って!」

つばきの声は震えていなかった。

いや、震えていた。

けれど、震えたまま人を動かしていた。

「お初さん! 千吉君!」

つばきが叫んだ。

煙の奥から、お初の声が返る。

「こちらです!」

「動けますか」

「千吉さんが」

つばきが駆け出そうとする。

新太郎は反射的に腕を掴んだ。

「有馬さん、危ない」

つばきは振り返った。

その目に怒りはなかった。

ただ、強い意志があった。

「危ないから行くんです」

「でも」

「桐生さん」

つばきは、掴まれた腕を振りほどかなかった。

その代わり、新太郎の手に自分の手を重ねた。

「声を出してください」

「え」

「あなたの言葉は届きます。煙の中では、目より声が頼りです」

新太郎の喉が固まった。

声。

自分の声。

越後訛りが混じるかもしれない声。

笑われた声。

けれど、福沢の教卓の音が、胸の奥で鳴った。

隠すな。

背負え。

新太郎は息を吸った。

煙を吸い込みかけ、激しく咳き込んだ。

「無理に吸わないでください!」

つばきが布を押し当てる。

「す、すみません」

「謝る前に、声を」

「はい」

新太郎は布を口に当て、腹に力を入れた。

標準語。

そう思いかけて、やめた。

今は、きれいな言葉を選ぶ時ではない。

届く言葉を出す時だ。

「みんな、床ば見るな! 壁づたいに動け!」

声が出た。

自分でも驚くほど大きく。

越後の音が混じっていた。

いや、混じっていたどころではない。

はっきり出た。

だが、誰も笑わなかった。

それどころか、職人たちはその声を頼りに動いた。

煙の中で、誰かが叫ぶ。

「壁だ! 壁を伝え!」

「こっちだ!」

「若先生の声の方へ行け!」

「床を見るな、壁だ!」

新太郎はその時、初めて知った。

訛りは、人を迷わせるものではなかった。

迷った人を、自分のいる場所へ呼び戻す音にもなるのだ。

新太郎はもう一度叫んだ。

「火のある方へ走るな! 低くなれ! 布がある者は口へ当てろ! お初さん、千吉君はいますか!」

「います! でも、棚が」

お初の声が震えている。

新太郎はつばきを見た。

つばきは頷いた。

「行きます」

「僕も」

「はい」

今度は止めない。

二人は煙の中へ踏み込んだ。

紫煙と黒煙が混じり、目が痛い。

床には燃えた油紙が散らばり、足元が滑る。

新太郎は壁に手を当てながら進んだ。

「こちらです! 声を出してください!」

つばきが叫ぶ。

「ここです!」

お初の声。

そこには、倒れかけた棚の下で千吉がしゃがみ込んでいた。

棚そのものは完全には倒れていない。

だが、上から落ちた木箱が通路を塞いでいる。

千吉は腕に写し図を抱えたまま、動けずにいた。

「千吉君!」

「桐生さん、俺、図面を」

「今は図面より命です!」

「でも、圧力計の」

「命があればまた描けます!」

新太郎はそう叫んでから、自分で驚いた。

田中久重の言葉に似ている。

生きていればまた食える。

生きていればまた描ける。

技術も、学問も、命がなければ続かない。

つばきがお初に指示する。

「濡れ布を千吉さんに。私は箱をどけます」

「私も」

「手を挟まないように。息を合わせて」

二人が木箱へ手をかける。

新太郎も加わった。

「いきます。せーの!」

木箱は重い。

中に部品が詰まっているのか、焦げた木が手に食い込む。

だが、動いた。

ほんの少し。

「もう一度!」

新太郎が叫ぶ。

「せーの!」

箱がずれた。

千吉が隙間から這い出す。

「出ました!」

お初が千吉を抱き寄せた。

その瞬間、奥の方で大きな破裂音がした。

どん、と腹に響く音。

火炎瓶ではない。

もっと重い。

影照の声が飛ぶ。

「まずい! 圧力釜の近くに火が回る!」

田中が怒鳴る。

「水では駄目だ! 油に散る! 砂を持ってこい!」

新太郎は千吉をお初に預け、振り向いた。

煙の向こうで、浪人たちがまだ動いている。

一人が設計図の棚へ向かっている。

別の一人が火炎瓶を振り上げている。

直次だった。

新太郎はその名を知らない。

直次も、新太郎の名を知らない。

だが、その瞬間、二人は煙越しに目が合った。

若い浪人の目は、熱に浮かされている。

けれど、その奥に迷いがあった。

煙の向こうで、若い浪人の懐から紙の端が覗いていた。

一枚ではない。

古びた木札と、朱筆の紙。

新太郎には、それが何か分からない。

だが、その若者がただの火付けではないことだけは分かった。

何かを失い、何かを信じ込もうとしている目だった。

新太郎はそれを見た。

福沢の言葉がよぎる。

相手が何を恐れているかを見なさい。

この若者は、何を恐れている。

死か。

違う。

役に立てずに終わることか。

置いていかれることか。

その時、直次の後ろから荒木源内が叫んだ。

「直次! 火を見るな、人を見ろと言ったはずだ!」

直次が一瞬だけ動きを止める。

火を見るな。

人を見ろ。

さっき長屋で言われた言葉が、直次の胸を殴った。

目の前にいるのは、時代の象徴ではない。

咳き込みながら人を逃がそうとしている、同じ年頃の男だった。

その隙に、義経が踏み込んだ。

水心子正秀が走る。

斬れる。

義経には分かった。

この若者は、まだ人を斬った手ではない。

火を持たされているが、火そのものではない。

だから、義経は手首を斬らなかった。

直次の手から火炎瓶だけが弾き飛ばされた。

瓶は床で割れたが、火はつかなかった。

義経は直次を斬らない。

ただ、その喉元へ切っ先を突きつけた。

「退け」

直次は震えていた。

怒りか、恐怖か、悔しさか。

新太郎には分からない。

煙の奥で、倉田甚八の声がした。

「表は崩れた! 奥へ回れ!」

浪人たちが散る。

義経は追おうとした。

その時、別の影が、奥の棚へ向かって走った。

黒い布。

軽い足音。

剣を知る者の足。

見えたのは一瞬だった。

だが、足運びだけで分かった。

右足をわずかに外へ逃がす癖。

雪の上で滑らぬよう、会津で覚えた歩き方。

義経の喉が、音もなく詰まった。

義経の目が変わった。

「待て」

その声は、これまでのどの声より低かった。

黒い影は答えない。

炎の向こうへ消える。

義経が追おうとした瞬間、天井の梁が音を立てた。

ぎしり。

熱で弱った木が、悲鳴を上げている。

つばきが叫んだ。

「真田さん! 上!」

義経は足を止めた。

次の瞬間、燃えた梁が落ちてくる。

義経は刀を返し、梁を斬った。

二つに割れた木が左右へ落ち、火の粉が舞う。

その間に、黒い影は消えた。

義経は歯を食いしばった。

「……景久」

その名は、煙の中に落ちた。

新太郎の耳には、かろうじて届いた。

「真田さん、今」

「後だ」

義経は短く言った。

その声には、明らかな揺れがあった。

だが今、問いただす余裕はなかった。

火はまだ広がっている。

浪人たちは奥へ回った。

蔵には赤い封蝋の箱。

隠し棚には、真の設計図。

そして、工房にはまだ逃げ遅れた人がいる。

新太郎は喉の痛みを無視して、もう一度叫んだ。

「全員、声を出せ! 返事をしろ! 動ける者は壁づたいに出口へ! 動けない者は床を叩け!」

今度は、訛りを直そうとすら思わなかった。

「こっちだ! 煙の薄い方へ来い!」

職人の声。

「お初さん、千吉君を外へ!」

つばきの声。

「砂だ! 砂を持ってこい! 水をかけるな、燃え広がるぞ!」

田中の声。

「二本目を投げるぞ! 目を閉じるな! いや、閉じてもいいが転ぶな!」

影照の声。

「分かりにくいです!」

新太郎が叫ぶ。

煙の中で、つばきが少しだけ笑った気がした。

その笑いが、なぜか新太郎の足を前へ出させた。

怖い。

煙い。

喉が痛い。

足が震える。

けれど、声は出る。

自分の声は、出る。

その時、奥の棚の方で、さらに大きな火の手が上がった。

設計図の束が、赤く照らされる。

田中久重の顔が、炎に染まった。

「そこは駄目だ」

その声は、初めて少しだけ震えていた。

影照が振り向く。

「設計図か」

田中は答えない。

答えなくても分かった。

あそこには、ただの紙ではないものがある。

失敗した部品の数。

指を切った職人の時間。

千吉が夜中に写した線。

田中久重が老いた目で追い続けた未来。

火は、それらをただの紙として燃やそうとしていた。

工房の手。

職人たちの時間。

未来へ伸びるはずだった、もう一本の手。

新太郎は拳を握った。

この夜は、まだ終わらない。

蔵には赤い封蝋の箱。

奥には燃えかけた設計図。

外には逃げる浪人。

どれか一つを選べば、どれか一つを失う。

時計塔の鐘が三つ鳴った後も、工房の中では別の音が続いている。

火の音。

蒸気の音。

刀の音。

そして、人を生かすために叫ぶ声。

新太郎はその声の一つとして、煙の中へもう一歩踏み込んだ。

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