三つ目の鐘が鳴った時、千吉は夢の中にいた。
夢の中で、鳳凰丸は本物の船になっていた。
水槽ではなく、広い海の上を進んでいる。
黒い船体は波を割り、細い煙突から白い蒸気を吐き、船尾の水車がきらきらと水を掻いている。
甲板には田中久重が立っていた。
綾部影照もいた。
有馬つばきも、桐生新太郎も、真田義経もいた。
なぜか義経だけは、船の上でも「浮かばぬ模型は船ではない」と言っていた。
影照が「これはもう浮いているだろうが」と怒鳴る。
つばきが笑う。
新太郎が困った顔で間に入る。
千吉は甲板の端で工具袋を抱え、自分もいつかこんな船を作るのだと思っていた。
その時、海の向こうで鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
夢の中の海が、赤く光った。
千吉は目を開けた。
最初に見えたのは、火鉢の赤だった。
次に、お初がかけてくれた上着。
それから、膝の上の圧力計の写し図。
「……寝てた」
千吉は慌てて身を起こした。
工房の奥では、職人たちが遅い夕飯を取っている。湯気の立つ味噌汁。握り飯。漬物。疲れた笑い声。
昼間の緊張はまだ消えていない。
赤い封蝋の箱は蔵に置かれたままだし、鳳凰丸の管に誰かが細工したことも分かっている。
それでも、人は腹が減る。
腹が減れば飯を食う。
飯を食えば、少し笑える。
工房という場所は、そうやって動いている。
田中久重は味噌汁の椀を片手に、図面の端を見ていた。
綾部影照は飯粒を頬につけたまま、まだ圧力計の戻りがどうのと職人に語っている。
義経は誰とも話さない。
しかし千吉が火鉢に近づきすぎると、無言で椀を少し横へずらした。
つばきはお初に、油紙の余白を使って「圧」という字の読み方を教えている。
新太郎はその横で、職人たちが使っていた「弁が鳴く」「歯がずれる」という言葉を手帳に写していた。
誰も大きなことはしていない。
ただ、食べ、話し、学び、少し笑っていた。
そのすべてが、次の瞬間、火の音に破られた。
「千吉さん、起きましたか」
お初が茶碗を持って近づいてきた。
「手は痛みません?」
「平気です」
千吉は慌てて両手を見せた。
指先は少し赤いが、つばきに洗ってもらってから、ぴりぴりした痛みはほとんど消えていた。
「有馬さまが、こすらずに流せって言ってました」
「言ってましたね」
「あの人、すげえですね」
「何がです?」
「怖くても、声がまっすぐです」
お初は少しだけ笑った。
「そうですね」
千吉は写し図を抱え直した。
「綾部先生もすげえです。俺の目、いいって言ってくれた」
「もう三回聞きました」
「あと七回は言います」
「十回で済みますか」
二人が小さく笑った、その時だった。
外で、何かが割れた。
陶器ではない。
瓦でもない。
薄い硝子が割れるような、乾いた音。
次の瞬間、裏手の方で赤い光が跳ねた。
「火だ!」
誰かが叫んだ。
工房の空気が、一瞬で変わった。
飯を持っていた職人が立ち上がる。
火鉢のそばにいた者が水桶を掴む。
田中久重が奥の机から顔を上げる。
「どこだ!」
「裏手です! 蔵の方!」
蔵。
赤い封蝋の箱。
千吉の胸が跳ねた。
外でまた、硝子の割れる音。
続けて、油に火が移る低い唸り。
お初が息を呑んだ。
「千吉さん、下がって」
「でも」
「下がって!」
お初の声は、いつもより強かった。
千吉は反射的に一歩下がる。
その直後、裏の戸が蹴破られた。
黒い影がいくつも流れ込んでくる。
浪人たちだった。
顔を布で隠し、刀や短銃を手にしている。
先頭の男が懐から紙を引き抜いた。
朱筆の文字が、炎に赤く浮かぶ。
「西洋の妖術を焼け!」
その声は、工房の梁にぶつかって響いた。
「鉄の獣を焼け!」
その言葉は、誰かがその場で思いついたものではなかった。
すでに用意され、配られ、若い喉へ押し込まれていた言葉だった。
火炎瓶が投げ込まれた。
油を吸った布の火が、床に落ちた瞬間、青白く広がる。
火は、落ちた場所で止まらなかった。
床の油を見つけると、舌を伸ばすように横へ走った。
木屑を舐めた。
油紙が燃えた。
棚の脚へ巻きつき、ぱちぱちと音を立て始めた。
千吉には、それが鳳凰丸の蒸気とはまったく違う生き物に見えた。
人を運ぶ火ではない。
人を追い立てる火だった。
千吉は動けなかった。
夢の中で見た赤い海が、目の前に戻ってきたようだった。
「千吉!」
田中の声が飛ぶ。
その声で、千吉はようやく息をした。
「水! 水桶を回せ! 紙をどけろ! 火鉢を倒すな!」
田中久重の声は、工房中へ突き刺さった。
「飯は後だ! 生きていればまた食える!」
職人たちが一斉に動く。
だが、浪人たちは入口を塞いでいた。
別の浪人が、棚へ向かって走る。
設計図。
工房の命。
「そこへ行かせるな!」
職人が飛びかかろうとした。
その前に、浪人の刀が抜かれる。
「邪魔をするな!」
刃が灯りを反射した。
その瞬間、横から黒い影が滑り込んだ。
真田義経だった。
「邪魔をしているのは、貴様らだ」
声は低い。
だが、火よりも冷たかった。
義経の水心子正秀が抜かれる。
きん、と澄んだ音。
次の瞬間、浪人の刀が宙を舞った。
人は斬られていない。
刀だけが斬られていた。
浪人が目を剥く。
義経はすでに次の相手へ踏み込んでいる。
一人。
二人。
三人。
火の粉の中、刀の軌跡だけが白く走る。
「真田さん!」
新太郎の声がした。
千吉が振り向くと、新太郎とつばきが奥の通路から駆け込んでくる。
つばきの手には濡らした布。
新太郎は咳き込みながら、周囲を見回していた。
「何が」
「見れば分かるだろう!」
影照の声が返ってきた。
彼は工具袋を片手に、すでに工房の中央へ飛び出している。
「火だ! 敵だ! そして俺の嫌いな不完全燃焼だ!」
「三つ目は今言うことですか!」
新太郎が叫ぶ。
影照は答えず、背中の金属筒を下ろした。
「よし、使う時が来たな」
つばきが目を見開く。
「綾部さん、それは」
「小型蒸気圧式多目的噴射装置、改め」
影照は筒の蓋を開けた。
中から、玉虫色に光る小さな筒が三本出てくる。
「玉虫煙筒!」
新太郎は嫌な予感しかしなかった。
「それ、爆発しませんか」
「しない。たぶん」
「たぶんを付けないでください!」
影照は一本を手に取り、得意げに説明を始めた。
「燃焼比率は硫黄三に硝石五、そこへ貝殻粉と乾燥藍を混ぜることで、紫煙の粒子が」
「黙って投げろ」
義経の声だった。
影照は一瞬むっとしたが、すぐに投げた。
玉虫煙筒が床を転がる。
ぽん、と軽い音。
次の瞬間、紫色の煙が入口周辺へ低く広がった。
浪人たちが咳き込む。
「目が!」
「煙だ!」
「どこへ行った!」
視界が紫に染まった。
新太郎は慌てて口元を押さえる。
「綾部さん、これ、こちらも見えません!」
「だから便利だろう」
「便利の意味が違います!」
紫煙は浪人たちの目を奪った。
だが同時に、天井へ上る黒煙の流れも乱している。
田中が怒鳴った。
「綾部! 煙を増やしすぎるな! 火の逃げ道が読めん!」
影照の顔が初めて引き締まる。
「分かっている。二本目は場所を選ぶ」
つばきは濡れ布を新太郎に押しつけた。
「口に当ててください」
「有馬さんは」
「持っています」
つばきはすでに自分の口元を布で覆っている。
その目は、煙の向こうを探していた。
お初。
千吉。
職人の妻たち。
逃げ遅れた者。
新太郎にも、彼女が何を見ようとしているのか分かった。
つばきは逃げる人々を見て、一瞬だけ立ち止まった。
走る者。
咳き込む者。
荷物を取りに戻ろうとする者。
子を探す女中。
ばらばらだった。
「お初さん! 子どもと女中の方をこちらへ集めてください! 濡れ布を配ります。走らず、低く。出口は一つに絞って!」
つばきの声は震えていなかった。
いや、震えていた。
けれど、震えたまま人を動かしていた。
「お初さん! 千吉君!」
つばきが叫んだ。
煙の奥から、お初の声が返る。
「こちらです!」
「動けますか」
「千吉さんが」
つばきが駆け出そうとする。
新太郎は反射的に腕を掴んだ。
「有馬さん、危ない」
つばきは振り返った。
その目に怒りはなかった。
ただ、強い意志があった。
「危ないから行くんです」
「でも」
「桐生さん」
つばきは、掴まれた腕を振りほどかなかった。
その代わり、新太郎の手に自分の手を重ねた。
「声を出してください」
「え」
「あなたの言葉は届きます。煙の中では、目より声が頼りです」
新太郎の喉が固まった。
声。
自分の声。
越後訛りが混じるかもしれない声。
笑われた声。
けれど、福沢の教卓の音が、胸の奥で鳴った。
隠すな。
背負え。
新太郎は息を吸った。
煙を吸い込みかけ、激しく咳き込んだ。
「無理に吸わないでください!」
つばきが布を押し当てる。
「す、すみません」
「謝る前に、声を」
「はい」
新太郎は布を口に当て、腹に力を入れた。
標準語。
そう思いかけて、やめた。
今は、きれいな言葉を選ぶ時ではない。
届く言葉を出す時だ。
「みんな、床ば見るな! 壁づたいに動け!」
声が出た。
自分でも驚くほど大きく。
越後の音が混じっていた。
いや、混じっていたどころではない。
はっきり出た。
だが、誰も笑わなかった。
それどころか、職人たちはその声を頼りに動いた。
煙の中で、誰かが叫ぶ。
「壁だ! 壁を伝え!」
「こっちだ!」
「若先生の声の方へ行け!」
「床を見るな、壁だ!」
新太郎はその時、初めて知った。
訛りは、人を迷わせるものではなかった。
迷った人を、自分のいる場所へ呼び戻す音にもなるのだ。
新太郎はもう一度叫んだ。
「火のある方へ走るな! 低くなれ! 布がある者は口へ当てろ! お初さん、千吉君はいますか!」
「います! でも、棚が」
お初の声が震えている。
新太郎はつばきを見た。
つばきは頷いた。
「行きます」
「僕も」
「はい」
今度は止めない。
二人は煙の中へ踏み込んだ。
紫煙と黒煙が混じり、目が痛い。
床には燃えた油紙が散らばり、足元が滑る。
新太郎は壁に手を当てながら進んだ。
「こちらです! 声を出してください!」
つばきが叫ぶ。
「ここです!」
お初の声。
そこには、倒れかけた棚の下で千吉がしゃがみ込んでいた。
棚そのものは完全には倒れていない。
だが、上から落ちた木箱が通路を塞いでいる。
千吉は腕に写し図を抱えたまま、動けずにいた。
「千吉君!」
「桐生さん、俺、図面を」
「今は図面より命です!」
「でも、圧力計の」
「命があればまた描けます!」
新太郎はそう叫んでから、自分で驚いた。
田中久重の言葉に似ている。
生きていればまた食える。
生きていればまた描ける。
技術も、学問も、命がなければ続かない。
つばきがお初に指示する。
「濡れ布を千吉さんに。私は箱をどけます」
「私も」
「手を挟まないように。息を合わせて」
二人が木箱へ手をかける。
新太郎も加わった。
「いきます。せーの!」
木箱は重い。
中に部品が詰まっているのか、焦げた木が手に食い込む。
だが、動いた。
ほんの少し。
「もう一度!」
新太郎が叫ぶ。
「せーの!」
箱がずれた。
千吉が隙間から這い出す。
「出ました!」
お初が千吉を抱き寄せた。
その瞬間、奥の方で大きな破裂音がした。
どん、と腹に響く音。
火炎瓶ではない。
もっと重い。
影照の声が飛ぶ。
「まずい! 圧力釜の近くに火が回る!」
田中が怒鳴る。
「水では駄目だ! 油に散る! 砂を持ってこい!」
新太郎は千吉をお初に預け、振り向いた。
煙の向こうで、浪人たちがまだ動いている。
一人が設計図の棚へ向かっている。
別の一人が火炎瓶を振り上げている。
直次だった。
新太郎はその名を知らない。
直次も、新太郎の名を知らない。
だが、その瞬間、二人は煙越しに目が合った。
若い浪人の目は、熱に浮かされている。
けれど、その奥に迷いがあった。
煙の向こうで、若い浪人の懐から紙の端が覗いていた。
一枚ではない。
古びた木札と、朱筆の紙。
新太郎には、それが何か分からない。
だが、その若者がただの火付けではないことだけは分かった。
何かを失い、何かを信じ込もうとしている目だった。
新太郎はそれを見た。
福沢の言葉がよぎる。
相手が何を恐れているかを見なさい。
この若者は、何を恐れている。
死か。
違う。
役に立てずに終わることか。
置いていかれることか。
その時、直次の後ろから荒木源内が叫んだ。
「直次! 火を見るな、人を見ろと言ったはずだ!」
直次が一瞬だけ動きを止める。
火を見るな。
人を見ろ。
さっき長屋で言われた言葉が、直次の胸を殴った。
目の前にいるのは、時代の象徴ではない。
咳き込みながら人を逃がそうとしている、同じ年頃の男だった。
その隙に、義経が踏み込んだ。
水心子正秀が走る。
斬れる。
義経には分かった。
この若者は、まだ人を斬った手ではない。
火を持たされているが、火そのものではない。
だから、義経は手首を斬らなかった。
直次の手から火炎瓶だけが弾き飛ばされた。
瓶は床で割れたが、火はつかなかった。
義経は直次を斬らない。
ただ、その喉元へ切っ先を突きつけた。
「退け」
直次は震えていた。
怒りか、恐怖か、悔しさか。
新太郎には分からない。
煙の奥で、倉田甚八の声がした。
「表は崩れた! 奥へ回れ!」
浪人たちが散る。
義経は追おうとした。
その時、別の影が、奥の棚へ向かって走った。
黒い布。
軽い足音。
剣を知る者の足。
見えたのは一瞬だった。
だが、足運びだけで分かった。
右足をわずかに外へ逃がす癖。
雪の上で滑らぬよう、会津で覚えた歩き方。
義経の喉が、音もなく詰まった。
義経の目が変わった。
「待て」
その声は、これまでのどの声より低かった。
黒い影は答えない。
炎の向こうへ消える。
義経が追おうとした瞬間、天井の梁が音を立てた。
ぎしり。
熱で弱った木が、悲鳴を上げている。
つばきが叫んだ。
「真田さん! 上!」
義経は足を止めた。
次の瞬間、燃えた梁が落ちてくる。
義経は刀を返し、梁を斬った。
二つに割れた木が左右へ落ち、火の粉が舞う。
その間に、黒い影は消えた。
義経は歯を食いしばった。
「……景久」
その名は、煙の中に落ちた。
新太郎の耳には、かろうじて届いた。
「真田さん、今」
「後だ」
義経は短く言った。
その声には、明らかな揺れがあった。
だが今、問いただす余裕はなかった。
火はまだ広がっている。
浪人たちは奥へ回った。
蔵には赤い封蝋の箱。
隠し棚には、真の設計図。
そして、工房にはまだ逃げ遅れた人がいる。
新太郎は喉の痛みを無視して、もう一度叫んだ。
「全員、声を出せ! 返事をしろ! 動ける者は壁づたいに出口へ! 動けない者は床を叩け!」
今度は、訛りを直そうとすら思わなかった。
「こっちだ! 煙の薄い方へ来い!」
職人の声。
「お初さん、千吉君を外へ!」
つばきの声。
「砂だ! 砂を持ってこい! 水をかけるな、燃え広がるぞ!」
田中の声。
「二本目を投げるぞ! 目を閉じるな! いや、閉じてもいいが転ぶな!」
影照の声。
「分かりにくいです!」
新太郎が叫ぶ。
煙の中で、つばきが少しだけ笑った気がした。
その笑いが、なぜか新太郎の足を前へ出させた。
怖い。
煙い。
喉が痛い。
足が震える。
けれど、声は出る。
自分の声は、出る。
その時、奥の棚の方で、さらに大きな火の手が上がった。
設計図の束が、赤く照らされる。
田中久重の顔が、炎に染まった。
「そこは駄目だ」
その声は、初めて少しだけ震えていた。
影照が振り向く。
「設計図か」
田中は答えない。
答えなくても分かった。
あそこには、ただの紙ではないものがある。
失敗した部品の数。
指を切った職人の時間。
千吉が夜中に写した線。
田中久重が老いた目で追い続けた未来。
火は、それらをただの紙として燃やそうとしていた。
工房の手。
職人たちの時間。
未来へ伸びるはずだった、もう一本の手。
新太郎は拳を握った。
この夜は、まだ終わらない。
蔵には赤い封蝋の箱。
奥には燃えかけた設計図。
外には逃げる浪人。
どれか一つを選べば、どれか一つを失う。
時計塔の鐘が三つ鳴った後も、工房の中では別の音が続いている。
火の音。
蒸気の音。
刀の音。
そして、人を生かすために叫ぶ声。
新太郎はその声の一つとして、煙の中へもう一歩踏み込んだ。


