義経は、火の音が嫌いだった。
燃える木の音。
油が跳ねる音。
梁が軋む音。
どれも似ている。
会津の夜に聞いた音と。
雪の上に火の粉が落ちて、すぐに黒く溶けた。
幼い景久が、義経の袖を掴んでいた。
「兄上、熱い」
あの時、義経は弟の手を握っていた。
だが最後まで握っていられなかった。
火の音は、それを思い出させる。
刀の音なら、まだいい。
斬る音なら、身体が先に動く。
相手の肩、足、呼吸、刃筋。
読むべきものがある。
だが火は読みにくい。
火は人の事情を聞かない。
武士も町人も、大人も子どもも、志も迷いも、同じ赤で舐めていく。
「真田さん!」
煙の向こうで新太郎の声がした。
訛りを隠していない声だった。
床を見るな。
壁づたいに動け。
動けない者は床を叩け。
義経はその声を聞きながら、火の粉を払った。
不思議なものだと思う。
あの若者は、剣を持たない。
銃も持たない。
だが今、この工房で一番遠くまで届いているのは、あの声だった。
「声か」
義経は短く呟いた。
昔の自分なら、そんなものでは人は救えぬと切り捨てただろう。
だが今、煙の中で何人もの職人が新太郎の声を頼りに動いている。
刀だけが道を開くわけではない。
その事実が、義経には少し眩しかった。
「真田!」
田中久重の声が飛ぶ。
「奥の棚だ! 火が回る!」
義経は頷いた。
奥の設計図棚。
先ほど黒い影が走った方向。
景久。
その名を口にした瞬間の、自分の声の震えを義経はまだ覚えている。
間違いであってほしい。
だが、足運びは嘘をつかない。
右足をわずかに外へ逃がす癖。
雪の上で滑らぬよう、会津で覚えた歩き方。
幼い景久が、兄の後ろを追って雪道を歩く時、何度も転びながら身につけた足。
あれは、義経が教えた足だった。
「くそ」
義経は炎の奥へ踏み込んだ。
熱が肌を刺す。
煙が目を焼く。
紫煙と黒煙が混じり、視界は悪い。
だが、足元の気配は読める。
浪人が一人、設計図棚の前に立ちはだかった。
「来るな!」
若くはない。
だが老いてもいない。
握りに迷いがある。
人を斬る覚悟より、命令を守る恐怖の方が強い握り。
義経は踏み込んだ。
「退け」
「西洋の妖術を」
言い終える前に、義経の刀が走った。
浪人の刀の鍔だけが弾け飛ぶ。
刃は手から落ちた。
男は尻もちをつく。
義経は斬らなかった。
斬れば早い。
斬れば道は開く。
だが、早さで救えなかったものを、義経は知っている。
戦場では、早く斬った者から生き残った。
そして、生き残った後に何も残らないこともあった。
だが、斬ればその先に何が残る。
焦げた床。
血。
新太郎が叫んでいる「生きろ」という声に、自分の剣が逆らうことになる。
今ここに必要なのは、勝つ剣ではない。
人を外へ出すための剣だ。
義経は男の横を抜けた。
その時、煙の下から小さな咳が聞こえた。
「げほっ……圧力計の……写し図……」
義経は顔を向ける。
千吉だった。
先ほど新太郎たちに助け出されたはずの丁稚が、また奥へ戻ってきている。
煤だらけの顔。
濡れ布を口に当てているが、目は涙で赤い。
片手には、焦げかけた紙。
鳳凰丸の圧力計の写し図。
「馬鹿者」
義経は短く言った。
千吉がびくりとする。
「で、でも、綾部先生が、いい目だって……これ、なくしたら」
「命があればまた描けると聞こえなかったのか」
「聞こえました。でも」
千吉の声が震えた。
「俺、初めて褒められたんです」
義経は一瞬、言葉を失った。
怒鳴ろうとした声が、喉で止まる。
千吉の手が写し図を抱く形を見たからだった。
幼い景久の顔が重なる。
兄上、見てくれ。
初めて竹刀で父上に一本取った。
そう言って、雪の庭で耳まで赤くしていた弟。
褒められたものを手放せない気持ち。
義経は知っている。
知っているからこそ、怒りが湧いた。
この子どもを、こんな場所へ戻らせた火に。
こんな火を持ち込んだ者たちに。
そして、もしかするとその中にいる弟に。
「立て」
義経は千吉へ手を伸ばした。
その瞬間、横から浪人が飛び込んできた。
短刀。
狙いは義経ではない。
千吉だった。
短刀が、千吉の喉元へ向かう。
義経の刀は間に合わない。
間に合わない、と判断した瞬間、義経の身体はそれでも動こうとした。
だが、その前に。
黒い影が入った。
顔を布で隠した若い浪人。
半歩。
たった半歩だった。
だが、その半歩で短刀の道が変わった。
黒い布の男は千吉の襟を掴み、乱暴に安全な通路の方へ突き飛ばした。
千吉の身体が床を転がる。
短刀は空を切った。
義経の刀が、その短刀を持つ浪人の手首ではなく、袖だけを裂く。
浪人が悲鳴を上げて下がる。
だが義経の目は、その男ではなく、千吉を突き飛ばした若い浪人に釘づけになっていた。
今の足捌き。
斬るためではない。
守るために、間合いへ入った足。
自分の身を危険に置き、相手の刃筋をずらし、子どもだけを外へ逃がす。
それは、昔、義経が景久に教えた動きだった。
雪の庭で、何度も教えた。
相手を斬るな。
まず、守る者を刃の線から外せ。
それを覚えているのは、自分と、もう一人だけだった。
ただし、子どもの遊びではない。
戦場で身についた速さがある。
迷った身体が、それでも先に動いてしまった速さがある。
「景久」
義経の喉から、声が漏れた。
黒い布の男の肩が、わずかに揺れた。
反応した。
間違いない。
だが男は振り返らない。
「待て」
義経が踏み出す。
黒い布の男は逃げた。
逃げるというより、火の間を縫うように滑った。
右足を外へ逃がす。
梁の影へ入る。
低く、速く、声を殺して。
義経は追う。
だが、その進路を別の浪人が塞いだ。
「行かせるか!」
その浪人の目は血走っている。
若い。
直次ではない。
別の若者。
死に場所を欲しがる目。
義経はその目を見て、景久の目を思い出した。
「どけ」
「どかぬ!」
若者が斬りかかる。
義経は刀を返し、その刃を弾いた。
手首を斬ることはできた。
だが斬らない。
膝裏を軽く打ち、体勢だけを崩す。
若者は床に倒れ込んだ。
「死に急ぐな」
義経はそれだけ言い、景久の後を追おうとした。
だが、すでに黒い布の男は煙の奥へ消えていた。
「兄上」
聞こえた気がした。
いや、聞こえていない。
火の音だ。
梁の軋みだ。
自分の記憶が、勝手に弟の声を作っただけだ。
もし本当に呼ばれていたのなら、今度こそ聞き逃したことになる。
義経は歯を食いしばった。
その時、別の気配があった。
設計図棚の前。
火の光を背負い、腰の曲がった老婆が立っていた。
いつの間に。
義経は目を細める。
老婆は灰色の着物をまとい、背を丸め、片手に古びた杖を持っている。
工房の職人の家族か。
逃げ遅れた近所の老婆か。
いや、違う。
足が違う。
腰は曲がっている。
だが、重心はまったく崩れていない。
火の粉が舞う床を、杖に頼って歩いているように見せながら、実際には杖へ体重を預けていない。
義経は刀を握り直した。
「そこから離れろ」
老婆は振り返らない。
設計図棚の前で、焦げかけた紙束を一つ掴む。
それから、棚の側面に指を滑らせた。
かちり。
小さな音。
隠し棚が開いた。
義経の目が鋭くなる。
田中の言った真の設計図。
表の図面ではない。
工房の中でも限られた者しか知らぬはずの隠し棚。
老婆は迷わず、そこから薄い油紙に包まれた束だけを抜き取った。
「貴様」
義経が踏み込む。
老婆は、ようやく振り返った。
皺だらけの顔。
濁ったように見える目。
だが、その奥だけが若い。
笑っていた。
義経は斬りかかった。
いや、斬ろうとした。
刃が降りる直前、老婆の足が動いた。
半歩。
ほんの半歩。
だが、その半歩で義経の刃筋は外された。
老婆は火の粉を避けるように身体を沈め、義経の間合いの外へすり抜けた。
その足捌き。
義経の背筋に、冷たいものが走った。
かつて、花街の裏路地で見た足。
斬られかけた義経の前に、黒い影のように入り込み、敵の刃を空へ流した女。
黒猫のお千代。
花街の裏路地で、義経が一度だけ刃を交えた女。
人を殺すより、人の手元から秘密だけを盗む方を得意とする女。
敵ではない。
味方とも言えない。
ただ、いつも危ない方から現れる。
「お前……」
老婆は口元を歪めた。
声だけが、老婆ではなかった。
「まだ斬るな」
義経の刀が止まる。
その声を、知っている。
「若い刃は、折れる前が一番よく光る」
老婆は油紙の束を懐へ入れた。
「あの子も、あんたもね」
「何を知っている」
義経の声は低い。
老婆は答えず、炎の向こうへ目をやった。
景久が消えた方向。
「知っていることは多いよ。言えないことは、もっと多い」
「その設計図をどうする」
「預かるだけさ。火にも浪人にも、商人にも渡さない」
「誰の差し金だ」
老婆は笑った。
「猫はね、三味線の音がする方へ歩くものさ」
「信じろと?」
「信じなくていい。疑ったまま生き延びな」
老婆が身をひねった後、棚には別の油紙の束が残っていた。
焦げた端。
同じ厚み。
だが、義経には分かった。
あれは本物ではない。
火の中でも盗みの手は震えない。
黒猫のお千代らしいすり替えだった。
老婆は杖をついた。
今度は、本当に老人のような歩き方に戻っている。
義経は追おうとした。
だが、奥の梁がまた軋む。
棚の火が強くなる。
新太郎の声が遠くから響く。
「真田さん! そちらにまだ人がいますか!」
義経は歯を食いしばる。
老婆。
景久。
設計図。
火。
追うべきものが多すぎる。
だが、守るべきものは一つだ。
今ここで生きている者。
義経は刀を収めず、振り返った。
「千吉!」
先ほど突き飛ばされた千吉は、壁際で咳き込んでいた。
写し図はまだ抱えている。
「動けるか」
「はい……!」
「なら走れ。お初の声の方へ」
「でも、設計図が」
「それは大人が何とかする」
千吉は一瞬、何か言いたげにした。
だが、義経の目を見て頷いた。
「はい!」
千吉は走った。
その小さな背を、義経は見送る。
その時、煙の向こうで黒い布の男が一瞬だけ振り返った気がした。
顔は見えない。
見えないのに、義経には弟の目が見えた気がした。
幼い頃と同じ、怒っているのに泣きそうな目。
「景久……なのか」
義経の声は、火の音にかき消されかけた。
だが、近くまで来ていた新太郎には聞こえた。
「真田さん」
新太郎が煙の中から現れる。
顔は煤で汚れ、目は赤く、喉も痛めている。
それでも、まっすぐ義経を見た。
「景久、とは」
義経は答えなかった。
答えられなかった。
新太郎は聞きたかった。
景久とは誰ですか。
なぜその名で、あなたの声が揺れるのですか。
けれど、今その問いを開けば、誰かの逃げ道が閉じる。
新太郎は問いを飲み込んだ。
弟だ。
そう言えば、何が変わる。
敵だ。
そう言えば、何が終わる。
どちらの言葉も、今は火より危うい。
義経は新太郎の肩越しに、逃げ道を指した。
「今は人を出せ」
新太郎は一瞬だけ迷った。
だが、頷いた。
「はい」
その返事に、義経は少しだけ救われた。
問わないでくれたことに。
いや、後で問うために、今は問わないでくれたことに。
新太郎はまた声を張る。
「こちらです! 壁づたいに! 低く!」
義経はその声を背に、燃える棚へ向き直った。
老婆はもういない。
景久もいない。
真の設計図もない。
残っているのは、火と、煙と、守るべき者たちだけ。
義経は刀を握り直した。
斬るためではない。
道を開くために。
火の中で、彼は初めてはっきりと思った。
自分の剣は、過去を取り戻すためのものではない。
今ここにいる者を、未来へ押し出すためのものだ。
その考えが正しいかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも今夜は。
義経は燃え落ちかけた柱へ踏み込み、刀を振るった。
人を斬るための刃では、柱は斬れない。
怒りで振れば、刃が欠ける。
呼吸を沈める。
足を置く。
木の目を読む。
斬るのではない。
道を作る。
柱の焦げた外皮が割れ、逃げ道を塞いでいた木片が砕ける。
煙の向こうで、誰かが叫んだ。
「道が開いたぞ!」
新太郎の声が続く。
「そちらへ! 一人ずつ!」
義経は煙の中で、もう一度だけ呟いた。
「景久……」
今度は問いではなかった。
呼びかけだった。
届かないと知っていても、呼ばずにはいられない名だった。


