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第2章「蒸気機関の夜」第5話「炎の中の足捌き」

義経は、火の音が嫌いだった。

燃える木の音。

油が跳ねる音。

梁が軋む音。

どれも似ている。

会津の夜に聞いた音と。

雪の上に火の粉が落ちて、すぐに黒く溶けた。

幼い景久が、義経の袖を掴んでいた。

「兄上、熱い」

あの時、義経は弟の手を握っていた。

だが最後まで握っていられなかった。

火の音は、それを思い出させる。

刀の音なら、まだいい。

斬る音なら、身体が先に動く。

相手の肩、足、呼吸、刃筋。

読むべきものがある。

だが火は読みにくい。

火は人の事情を聞かない。

武士も町人も、大人も子どもも、志も迷いも、同じ赤で舐めていく。

「真田さん!」

煙の向こうで新太郎の声がした。

訛りを隠していない声だった。

床を見るな。

壁づたいに動け。

動けない者は床を叩け。

義経はその声を聞きながら、火の粉を払った。

不思議なものだと思う。

あの若者は、剣を持たない。

銃も持たない。

だが今、この工房で一番遠くまで届いているのは、あの声だった。

「声か」

義経は短く呟いた。

昔の自分なら、そんなものでは人は救えぬと切り捨てただろう。

だが今、煙の中で何人もの職人が新太郎の声を頼りに動いている。

刀だけが道を開くわけではない。

その事実が、義経には少し眩しかった。

「真田!」

田中久重の声が飛ぶ。

「奥の棚だ! 火が回る!」

義経は頷いた。

奥の設計図棚。

先ほど黒い影が走った方向。

景久。

その名を口にした瞬間の、自分の声の震えを義経はまだ覚えている。

間違いであってほしい。

だが、足運びは嘘をつかない。

右足をわずかに外へ逃がす癖。

雪の上で滑らぬよう、会津で覚えた歩き方。

幼い景久が、兄の後ろを追って雪道を歩く時、何度も転びながら身につけた足。

あれは、義経が教えた足だった。

「くそ」

義経は炎の奥へ踏み込んだ。

熱が肌を刺す。

煙が目を焼く。

紫煙と黒煙が混じり、視界は悪い。

だが、足元の気配は読める。

浪人が一人、設計図棚の前に立ちはだかった。

「来るな!」

若くはない。

だが老いてもいない。

握りに迷いがある。

人を斬る覚悟より、命令を守る恐怖の方が強い握り。

義経は踏み込んだ。

「退け」

「西洋の妖術を」

言い終える前に、義経の刀が走った。

浪人の刀の鍔だけが弾け飛ぶ。

刃は手から落ちた。

男は尻もちをつく。

義経は斬らなかった。

斬れば早い。

斬れば道は開く。

だが、早さで救えなかったものを、義経は知っている。

戦場では、早く斬った者から生き残った。

そして、生き残った後に何も残らないこともあった。

だが、斬ればその先に何が残る。

焦げた床。

血。

新太郎が叫んでいる「生きろ」という声に、自分の剣が逆らうことになる。

今ここに必要なのは、勝つ剣ではない。

人を外へ出すための剣だ。

義経は男の横を抜けた。

その時、煙の下から小さな咳が聞こえた。

「げほっ……圧力計の……写し図……」

義経は顔を向ける。

千吉だった。

先ほど新太郎たちに助け出されたはずの丁稚が、また奥へ戻ってきている。

煤だらけの顔。

濡れ布を口に当てているが、目は涙で赤い。

片手には、焦げかけた紙。

鳳凰丸の圧力計の写し図。

「馬鹿者」

義経は短く言った。

千吉がびくりとする。

「で、でも、綾部先生が、いい目だって……これ、なくしたら」

「命があればまた描けると聞こえなかったのか」

「聞こえました。でも」

千吉の声が震えた。

「俺、初めて褒められたんです」

義経は一瞬、言葉を失った。

怒鳴ろうとした声が、喉で止まる。

千吉の手が写し図を抱く形を見たからだった。

幼い景久の顔が重なる。

兄上、見てくれ。

初めて竹刀で父上に一本取った。

そう言って、雪の庭で耳まで赤くしていた弟。

褒められたものを手放せない気持ち。

義経は知っている。

知っているからこそ、怒りが湧いた。

この子どもを、こんな場所へ戻らせた火に。

こんな火を持ち込んだ者たちに。

そして、もしかするとその中にいる弟に。

「立て」

義経は千吉へ手を伸ばした。

その瞬間、横から浪人が飛び込んできた。

短刀。

狙いは義経ではない。

千吉だった。

短刀が、千吉の喉元へ向かう。

義経の刀は間に合わない。

間に合わない、と判断した瞬間、義経の身体はそれでも動こうとした。

だが、その前に。

黒い影が入った。

顔を布で隠した若い浪人。

半歩。

たった半歩だった。

だが、その半歩で短刀の道が変わった。

黒い布の男は千吉の襟を掴み、乱暴に安全な通路の方へ突き飛ばした。

千吉の身体が床を転がる。

短刀は空を切った。

義経の刀が、その短刀を持つ浪人の手首ではなく、袖だけを裂く。

浪人が悲鳴を上げて下がる。

だが義経の目は、その男ではなく、千吉を突き飛ばした若い浪人に釘づけになっていた。

今の足捌き。

斬るためではない。

守るために、間合いへ入った足。

自分の身を危険に置き、相手の刃筋をずらし、子どもだけを外へ逃がす。

それは、昔、義経が景久に教えた動きだった。

雪の庭で、何度も教えた。

相手を斬るな。

まず、守る者を刃の線から外せ。

それを覚えているのは、自分と、もう一人だけだった。

ただし、子どもの遊びではない。

戦場で身についた速さがある。

迷った身体が、それでも先に動いてしまった速さがある。

「景久」

義経の喉から、声が漏れた。

黒い布の男の肩が、わずかに揺れた。

反応した。

間違いない。

だが男は振り返らない。

「待て」

義経が踏み出す。

黒い布の男は逃げた。

逃げるというより、火の間を縫うように滑った。

右足を外へ逃がす。

梁の影へ入る。

低く、速く、声を殺して。

義経は追う。

だが、その進路を別の浪人が塞いだ。

「行かせるか!」

その浪人の目は血走っている。

若い。

直次ではない。

別の若者。

死に場所を欲しがる目。

義経はその目を見て、景久の目を思い出した。

「どけ」

「どかぬ!」

若者が斬りかかる。

義経は刀を返し、その刃を弾いた。

手首を斬ることはできた。

だが斬らない。

膝裏を軽く打ち、体勢だけを崩す。

若者は床に倒れ込んだ。

「死に急ぐな」

義経はそれだけ言い、景久の後を追おうとした。

だが、すでに黒い布の男は煙の奥へ消えていた。

「兄上」

聞こえた気がした。

いや、聞こえていない。

火の音だ。

梁の軋みだ。

自分の記憶が、勝手に弟の声を作っただけだ。

もし本当に呼ばれていたのなら、今度こそ聞き逃したことになる。

義経は歯を食いしばった。

その時、別の気配があった。

設計図棚の前。

火の光を背負い、腰の曲がった老婆が立っていた。

いつの間に。

義経は目を細める。

老婆は灰色の着物をまとい、背を丸め、片手に古びた杖を持っている。

工房の職人の家族か。

逃げ遅れた近所の老婆か。

いや、違う。

足が違う。

腰は曲がっている。

だが、重心はまったく崩れていない。

火の粉が舞う床を、杖に頼って歩いているように見せながら、実際には杖へ体重を預けていない。

義経は刀を握り直した。

「そこから離れろ」

老婆は振り返らない。

設計図棚の前で、焦げかけた紙束を一つ掴む。

それから、棚の側面に指を滑らせた。

かちり。

小さな音。

隠し棚が開いた。

義経の目が鋭くなる。

田中の言った真の設計図。

表の図面ではない。

工房の中でも限られた者しか知らぬはずの隠し棚。

老婆は迷わず、そこから薄い油紙に包まれた束だけを抜き取った。

「貴様」

義経が踏み込む。

老婆は、ようやく振り返った。

皺だらけの顔。

濁ったように見える目。

だが、その奥だけが若い。

笑っていた。

義経は斬りかかった。

いや、斬ろうとした。

刃が降りる直前、老婆の足が動いた。

半歩。

ほんの半歩。

だが、その半歩で義経の刃筋は外された。

老婆は火の粉を避けるように身体を沈め、義経の間合いの外へすり抜けた。

その足捌き。

義経の背筋に、冷たいものが走った。

かつて、花街の裏路地で見た足。

斬られかけた義経の前に、黒い影のように入り込み、敵の刃を空へ流した女。

黒猫のお千代。

花街の裏路地で、義経が一度だけ刃を交えた女。

人を殺すより、人の手元から秘密だけを盗む方を得意とする女。

敵ではない。

味方とも言えない。

ただ、いつも危ない方から現れる。

「お前……」

老婆は口元を歪めた。

声だけが、老婆ではなかった。

「まだ斬るな」

義経の刀が止まる。

その声を、知っている。

「若い刃は、折れる前が一番よく光る」

老婆は油紙の束を懐へ入れた。

「あの子も、あんたもね」

「何を知っている」

義経の声は低い。

老婆は答えず、炎の向こうへ目をやった。

景久が消えた方向。

「知っていることは多いよ。言えないことは、もっと多い」

「その設計図をどうする」

「預かるだけさ。火にも浪人にも、商人にも渡さない」

「誰の差し金だ」

老婆は笑った。

「猫はね、三味線の音がする方へ歩くものさ」

「信じろと?」

「信じなくていい。疑ったまま生き延びな」

老婆が身をひねった後、棚には別の油紙の束が残っていた。

焦げた端。

同じ厚み。

だが、義経には分かった。

あれは本物ではない。

火の中でも盗みの手は震えない。

黒猫のお千代らしいすり替えだった。

老婆は杖をついた。

今度は、本当に老人のような歩き方に戻っている。

義経は追おうとした。

だが、奥の梁がまた軋む。

棚の火が強くなる。

新太郎の声が遠くから響く。

「真田さん! そちらにまだ人がいますか!」

義経は歯を食いしばる。

老婆。

景久。

設計図。

火。

追うべきものが多すぎる。

だが、守るべきものは一つだ。

今ここで生きている者。

義経は刀を収めず、振り返った。

「千吉!」

先ほど突き飛ばされた千吉は、壁際で咳き込んでいた。

写し図はまだ抱えている。

「動けるか」

「はい……!」

「なら走れ。お初の声の方へ」

「でも、設計図が」

「それは大人が何とかする」

千吉は一瞬、何か言いたげにした。

だが、義経の目を見て頷いた。

「はい!」

千吉は走った。

その小さな背を、義経は見送る。

その時、煙の向こうで黒い布の男が一瞬だけ振り返った気がした。

顔は見えない。

見えないのに、義経には弟の目が見えた気がした。

幼い頃と同じ、怒っているのに泣きそうな目。

「景久……なのか」

義経の声は、火の音にかき消されかけた。

だが、近くまで来ていた新太郎には聞こえた。

「真田さん」

新太郎が煙の中から現れる。

顔は煤で汚れ、目は赤く、喉も痛めている。

それでも、まっすぐ義経を見た。

「景久、とは」

義経は答えなかった。

答えられなかった。

新太郎は聞きたかった。

景久とは誰ですか。

なぜその名で、あなたの声が揺れるのですか。

けれど、今その問いを開けば、誰かの逃げ道が閉じる。

新太郎は問いを飲み込んだ。

弟だ。

そう言えば、何が変わる。

敵だ。

そう言えば、何が終わる。

どちらの言葉も、今は火より危うい。

義経は新太郎の肩越しに、逃げ道を指した。

「今は人を出せ」

新太郎は一瞬だけ迷った。

だが、頷いた。

「はい」

その返事に、義経は少しだけ救われた。

問わないでくれたことに。

いや、後で問うために、今は問わないでくれたことに。

新太郎はまた声を張る。

「こちらです! 壁づたいに! 低く!」

義経はその声を背に、燃える棚へ向き直った。

老婆はもういない。

景久もいない。

真の設計図もない。

残っているのは、火と、煙と、守るべき者たちだけ。

義経は刀を握り直した。

斬るためではない。

道を開くために。

火の中で、彼は初めてはっきりと思った。

自分の剣は、過去を取り戻すためのものではない。

今ここにいる者を、未来へ押し出すためのものだ。

その考えが正しいかどうかは、まだ分からない。

だが、少なくとも今夜は。

義経は燃え落ちかけた柱へ踏み込み、刀を振るった。

人を斬るための刃では、柱は斬れない。

怒りで振れば、刃が欠ける。

呼吸を沈める。

足を置く。

木の目を読む。

斬るのではない。

道を作る。

柱の焦げた外皮が割れ、逃げ道を塞いでいた木片が砕ける。

煙の向こうで、誰かが叫んだ。

「道が開いたぞ!」

新太郎の声が続く。

「そちらへ! 一人ずつ!」

義経は煙の中で、もう一度だけ呟いた。

「景久……」

今度は問いではなかった。

呼びかけだった。

届かないと知っていても、呼ばずにはいられない名だった。

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