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第2章「蒸気機関の夜」第6話「燃え残った設計図」

 火は、夜明け前にようやく息を引き取った。

 燃え尽きたのではない。
 人の手で、何度も押し戻されたのだ。

 水桶を運ぶ手。
 砂を撒く手。
 倒れた棚を支える手。
 咳き込みながら、それでも隣の者の背を押す手。

 工房の床には、黒い水が薄く広がっていた。
 油と煤と灰を含んだ水だった。そこに朝の光が差すと、まるで夜そのものが溶け残っているように見えた。

 桐生新太郎は、その黒い水の中に立っていた。

 足袋は濡れ、袴の裾は煤で重くなっている。喉は焼けるように痛い。さっきまで叫び続けていたせいで、声を出そうとすると胸の奥がひりついた。

 だが、まだ立っていられる。

 それだけで、今は十分だった。

「千吉さんは」

 新太郎がかすれた声で尋ねると、すぐ近くから返事があった。

「こっちです。無事です」

 有馬つばきだった。

 彼女もひどい姿だった。着物の袖はところどころ焦げ、髪には灰が絡み、顔には煤の筋が残っている。それでも手だけは休めず、職人の腕に布を巻いていた。

 その隣では、お初が濡れた布を絞っている。千吉は柱にもたれて座り、両手で自分の小さな写し図を抱え込んでいた。

「俺、ちゃんと外へ出ました」

 千吉が、誰にともなく言った。

 声は震えていた。
 けれど、生きている声だった。

「ええ。ちゃんと出ました」

 つばきが柔らかく答える。

「でも、もう一度入ろうとしたら、次は私が引っ叩きます」

「は、はい」

 千吉は首をすくめた。

 そのやり取りを見て、新太郎は少しだけ笑いそうになった。
 しかし笑うと喉が痛み、代わりに咳が出た。

「桐生さん、喉を使いすぎです」

「すみません」

「謝るところではありません。黙っていてください」

「はい」

 つばきは厳しい顔で言ったが、目元だけは少し緩んでいた。

 新太郎は黙った。
 黙って、工房を見回した。

 からくりの部品が散らばっている。
 焼け落ちた梁がある。
 水をかぶった図面が床に貼りついている。
 割れたガラス片。
 黒焦げの火皿。
 ひしゃげた真鍮の管。

 昨日まで、ここは音で満ちていた。
 歯車の音。
 槌の音。
 職人たちの短い怒鳴り声。
 千吉の走る足音。

 今は、誰かが咳き込む音と、焼け残った木が小さく崩れる音だけがした。

 年配の職人が、焼けた机の下を黙って探っていた。

「何を探しているんですか」

 新太郎が尋ねると、職人は少しだけ笑った。

「親父からもらった小鉋だ。刃はもう駄目かもしれねえが、柄だけでも残ってりゃいい」

 そう言って、また灰の中へ手を入れる。

 図面だけではない。
 部品だけでもない。

 この工房では、人の時間まで焼かれたのだ。

「勝った、とは言えませんね」

 新太郎が呟くと、つばきは少しだけ目を伏せた。

「でも、全員、生きています」

 その言葉に、新太郎はうなずいた。

 勝利ではない。
 けれど、敗北でもない。

 夜の中から、人だけは引き戻せた。

 そう思った時、工房の奥から低い声がした。

「全員ではない」

 真田義経だった。

 彼は焼けた柱のそばに立っていた。刀は鞘に収められている。だが、その手はまだ柄の近くにあった。

 義経の視線は、燃え残った棚の向こうを見ている。
 そこにはもう誰もいない。

 だが新太郎には、彼が見ているものが分かる気がした。

 煙の中に消えた黒い影。
 義経が呼んだ名。

 景久。

 問いは、喉まで来た。

 けれど新太郎は、それを飲み込んだ。

 今その名を開けば、義経の中でまだ燃えているものに、こちらが不用意に風を送ってしまう気がした。

「……あとで、聞いてもいいですか」

 それだけ言った。

 義経は新太郎を見た。

 しばらく、何も言わなかった。

「今は、まだ違う」

「はい」

「だが」

 義経は視線を外し、焼けた床に残る足跡を見た。

 黒く焦げた足跡が、いくつも残っている。
 その中に、義経がずっと見ている一つがあった。

 他の誰にも同じに見える足跡。
 義経だけが、そこに弟の癖を見ている。

「いずれ話す」

 それは、拒絶ではなかった。

 新太郎は小さく頭を下げた。

「待ちます」

 義経は答えなかった。
 けれど、刀から手を離した。

 その時、工房の奥から大きな咳払いが響いた。

「しんみりするのは後にせい。まだ燃え残りがある」

 田中久重だった。

 老人は、煤にまみれた顔で歩いてきた。
 袖は焦げ、髭にも灰がついている。だが、その目だけは昨夜と同じく、いや、昨夜よりもさらに鋭く光っていた。

 田中は床の上に落ちた歯車を拾い、欠けを見て、別の箱へ放った。

「使える」

 次に、黒焦げの管を拾う。

「これは駄目だ」

 さらに、半分だけ焼けた図面を広げる。

 紙は水を吸って歪んでいた。端は黒く、線の一部は読めない。

 千吉が、はっとして立ち上がりかけた。

「先生、俺、あの棚……」

「座っとれ」

 田中が短く言った。

「でも、図面が」

「座っとれと言った」

 千吉は唇を噛み、座り直した。

 田中は焼けた図面を見下ろした。

 新太郎は、その横顔を見た。

 怒っているのだと思った。

 大事な図面が焼けた。
 工房が荒らされた。
 鳳凰丸も傷ついた。

 怒らないはずがない。

 だが田中は、千吉ではなく、新太郎たちを見た。

「誰か、図面を取りに戻った職人を見捨てたか」

 誰も答えなかった。

「誰か、部品を守るために人を置き去りにしたか」

 やはり誰も答えなかった。

 田中は、ふん、と鼻を鳴らした。

「なら上出来だ」

 千吉が顔を上げた。

「上出来、ですか」

「図面はまた引ける。部品はまた削れる。人の手は、燃えたら戻らん」

 田中は千吉の抱えた写し図をちらりと見た。

「それに、全部なくなったわけでもあるまい」

 千吉は写し図を胸に押し当てた。

「俺、まだ下手です」

 田中は千吉に手を差し出した。

「見せてみい」

 千吉は恐る恐る、写し図を渡した。

 紙は煤で汚れ、端は少し濡れていた。
 線は震えている。
 寸法も、ところどころ怪しい。

 田中はしばらくそれを見つめた。

「使う」

 千吉の目が見開かれる。

「こ、これをですか」

「足りない線は足す。間違った線は直す。だが、残った線は使う。これは昨夜を越えた線だ」

 田中は写し図を千吉へ返した。

「下手な線も、残れば次の線になる」

 田中はそう言って、焼けた図面を慎重に畳んだ。

「覚えておけ。工房で一番大事なのは、紙でも鉄でもない。紙を読む目と、鉄を扱う手だ」

 その言葉に、お初が小さく息を呑んだ。

 つばきも、同じ言葉を受け取ったように顔を上げる。

 田中は続けた。

「昨夜、お前たちは人を外へ出した。それでよい。人が残れば、工房はまた動く」

 新太郎の胸の奥が熱くなった。

 火の熱ではない。

 夜の間ずっと張りつめていたものが、少しだけ緩んだ熱だった。

「桐生、と言ったな」

 田中が不意にこちらを向いた。

「は、はい」

「若い者。言葉で人を動かしたな」

 新太郎は思わず背筋を伸ばした。

「いえ、僕はただ、叫んだだけで」

「ただ叫んだだけで人は動かん」

 田中は、焼け焦げた圧力弁を指先で転がした。

「機械も人も、動き出す時が一番危うい。押しすぎれば壊れる。弱ければ止まる。届く力を、届く場所へ送らねばならん」

 老人の目が、新太郎を射抜いた。

「お前の声は、昨夜それをした」

 新太郎は返す言葉を失った。

 越後訛りが出た。
 きれいな言葉ではなかった。
 それでも、届いた。

 福沢の教卓。
 つばきと読んだ英文。
 唐人お吉の警告。
 横浜の闇市。
 そして、煙の中で誰かを出口へ導いた自分の声。

 それらが、一本の細い線でつながった気がした。

 新太郎は、初めて分かった気がした。

 通訳とは、異国の言葉を日本語に直すだけではない。
 煙の中で、恐怖を行動へ変えることもある。
 ばらばらの人間を、一つの出口へ向けることもある。

 言葉は、道になる。

「ありがとうございます」

 ようやく、それだけ言うと、田中はにやりと笑った。

「礼は喉が治ってから言え。今は聞きづらい」

「……はい」

 つばきが隣で、笑いをこらえているのが分かった。

 新太郎は少しだけ耳が熱くなった。

 その時、床にしゃがみ込んでいた綾部影照が声を上げた。

「ちょっと来い。これは、ただの火付けではなか」

 影照は焼け跡の中に膝をつき、黒焦げの真鍮管を拾い上げていた。

 いつもの騒がしさが、少し薄い。
 代わりに、技術者の顔がそこにあった。

「見てみろ」

 影照は管の内側を指した。

 新太郎がのぞき込む。

 細い金属片が、管の途中に噛み込んでいた。

「これが、鳳凰丸の圧を詰まらせたものですか」

「おそらくな。自然には入らん。誰かが、わざと入れた」

 影照は次に、割れた小瓶の欠片を拾った。

「こっちは火炎瓶。だが、油だけではなか。揮発の早い溶剤が混じっとる。千吉の手についていた匂いと同じじゃ」

 千吉が自分の手を見た。

 つばきが静かにその手を包む。

「つまり、箱と鳳凰丸と火付けが、つながっている?」

 つばきが尋ねる。

「つながっとる」

 影照は即答した。

「浪人どもは、工房を焼くためだけに来たんじゃなか。火は目くらましじゃ。何かを盗み、何かを燃やし、何かを試した」

「試した?」

「蒸気機関がどこで詰まり、どこで壊れ、どこで人が慌てるか。工房の中の者が、どう動くか」

 影照は苦々しく笑った。

「技術を盗む奴は、図面だけ盗めばよいと思っとる馬鹿ではなか。手順も、癖も、弱点も盗む」

 その声には、珍しく怒りがあった。

「影照さん」

 新太郎が呼ぶと、影照は黒焦げの管を握りしめた。

「技術を盗まれるのは、子をさらわれるようなものだ」

 工房が静かになった。

「盗まれるだけなら、まだ腹が立つだけで済む」

 影照は黒焦げの管を握った。

「だが、盗んだ者が間違って使えば、人が死ぬ。俺の知らぬ場所で、俺の考えた仕組みが、人を焼くかもしれん」

 その声は、いつもの影照の声ではなかった。

「それが一番、腹が立つ」

 影照はすぐに、しまった、という顔をした。

「……いや、まあ、俺には子はおらんが」

「言いたいことは分かります」

 つばきが静かに言った。

「作ったものには、作った人の時間があります。失敗も、工夫も、願いも。その全部を、ただの道具として奪われるのは……」

 彼女は焼けた鳳凰丸を見た。

「とても、ひどいことです」

 影照は少しだけ目をそらした。

「そうじゃ」

 それから、いつもの調子を取り戻そうとするように鼻を鳴らした。

「ひどいし、腹が立つし、許せん。俺の発明を盗むなら、せめて俺より美しく改良してから盗めと言いたい」

「そこなんですか」

 新太郎が思わず言うと、影照は真顔で振り返った。

「そこじゃ。盗むなら美学が要る」

「盗む時点で美学以前です」

「正論を言うな。傷つく」

 つばきが小さく笑った。

 その笑いは、黒く濡れた工房に、ほんの少しだけ人の温度を戻した。

 だが、影照の目はまだ笑っていなかった。

「赤い封蝋の箱を見よう」

 その一言で、空気が変わった。

 工房の蔵は、半分だけ焼けていた。

 縄は焦げ、田中の紙札も端が黒くなっている。

 しかし箱は残っていた。

 赤い封蝋も、一見するとそのままだ。

 新太郎は箱の前にしゃがんだ。

 甘い香りが、まだかすかに残っている。
 花の香りに似ているのに、その奥に薬品めいた冷たさがある。

 唐人お吉を名乗った女の香り。

 新太郎は喉の痛みを忘れ、封蝋の縁を見た。

「……おかしい」

「何がですか」

 つばきが隣に膝をつく。

「封は、破られていません」

「ええ」

「でも、縁が厚い。こちら側だけ、蝋の流れが二重になっています」

 新太郎は指で触れず、目だけで追った。

「一度、開けた後に押し直したようにも見えます。けれど、それだけではない」

 影照が身を乗り出す。

「匂いか」

「はい。箱の木ではなく、蝋から匂います。何かを混ぜたか、何かを塗ったか」

 つばきが顔を険しくした。

「国書の封蝋も、同じことができるということですね」

 新太郎は答えなかった。

 答えられなかった。

 あの警告が、急に重くなった。

 封は、開けずに殺せる。

 あの女の声が、耳の奥で蘇る。

 田中が箱を見下ろした。

「開けるぞ」

「危険では」

「危険だから、ここで見る」

 影照は小さくうなずき、布を水で濡らした。
 つばきは千吉とお初を遠ざける。
 義経は入口に立ち、周囲を見た。

 田中は小刀で封蝋の端を落とした。

 赤い蝋が、ぽろりと床に転がる。

 箱が開いた。

 中には、焼け焦げた紙片と、真鍮の小部品がいくつか入っていた。

 そして、底に浅い仕切りがある。

 影照が仕切りを外した。

 その下は、空だった。

「空?」

 新太郎が呟く。

 何もない。
 だからこそ、そこに何かがあったことがはっきり分かった。

 底板には、薄い四角い跡が残っている。
 黒い粉は、その跡を避けるようについていた。

 まるで、そこにあった何かだけが、夜のうちに呼吸を止めて消えたようだった。

「いや」

 影照は底板の端をこすった。

 黒い粉が指先につく。

「何かが入っていた。少なくとも、運ばれてきた時にはな」

「何か、とは」

「印章か、薬品か、小さな図面か。断言はできん」

 影照は顔をしかめた。

「だが、これだけは言える。箱はここへ来る前に、すでに開けられていた」

 つばきの指が、ぎゅっと膝の上で握られる。

「父が手配した荷の中にも、同じような箱があるかもしれません」

「横浜か」

 義経が低く言った。

 新太郎はうなずいた。

「ええ。横浜です」

 その時だった。

 ふと、胸元に違和感があった。

 新太郎は懐に手を入れた。

 入れた覚えのない紙片が、そこにあった。

 焦げた紙片だった。

 端は黒く、真ん中だけが残っている。
 そこに、細い筆で文字が書かれていた。

 新太郎は息を止めた。

「どうしました」

 つばきが顔を寄せる。

 紙片には、こう書かれていた。

 横浜へ戻れ。
 封はまだ開いていない。

 その筆跡には、妙な癖があった。
 女の手のように柔らかい。
 だが、線の終わりだけが鋭い。

 そして紙から、かすかにあの香りがした。

「あの人だ」

 つばきが小さく言った。

「唐人お吉」

「あるいは」

 義経が静かに言った。

「黒猫だ」

 新太郎は義経を見た。

 義経はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、工房の屋根の方へ視線を向けた。

 そこにはもう誰もいない。

 けれど、朝の薄い光の中で、焼けた梁の上に小さな灰が一筋、風に流れていた。

「先生、隠し棚の中身は」

 影照が言いかけると、田中は片手で制した。

「今ここで騒げば、まだ残っている鼠に場所を教えるだけだ」

「……気づいていたんですか」

「職人は、なくなった道具の重さくらい分かる」

 田中は焼け跡の奥を見た。

「火にも浪人にも渡らなかったなら、今はそれでよい。追うのは、工房を立て直してからだ」

 同じ頃。

 工房から少し離れた屋根の上に、一人の老婆が座っていた。

 腰の曲がった姿。
 灰色の手拭い。
 煤で汚れた指。

 だが、老婆は誰も見ていない場所で、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 曲がっていた腰が、すっと戻る。
 老いた足取りは消え、しなやかな女の気配が現れる。

 女は三味線箱の留め具を外した。

 中には、油紙に包まれた設計図があった。

 火に食われていない。
 浪人の手にも渡っていない。
 商人の荷にも紛れていない。

 女は油紙を軽く叩いた。

 それから、指先についた焦げ紙の灰を、ぴんと弾く。

 情報を渡す時も、嘘を捨てる時も、女はいつもそうする。

「火にも浪人にも、商人にも渡さない」

 それは、昨夜の炎の中で義経に言った言葉と同じだった。

 女は袖口から、小さな女児用の髪紐を取り出した。
 焦げも汚れもない、赤い髪紐。

 それを一度だけ指先で撫で、また袖の奥へしまう。

「けれど、坊やたちにすぐ渡すほど、猫は人がよくないのさ」

 そう呟いて、女は笑った。

 笑ったが、その目は少しも笑っていなかった。

 遠くで、工房の煙が細く空へ上っている。

 女は三味線箱を背負い直した。

「横浜へ戻りな。封が開く前に」

 次の瞬間、屋根の上には、ただ朝の風だけが残っていた。

 工房では、田中が焼け跡の片づけを始めていた。

 職人たちも、まだ震える手で部品を拾い集めている。
 千吉は写し図を乾かす場所を探して走ろうとし、お初につかまって歩くよう叱られていた。

 影照は鳳凰丸の残った管を外しながら、ぶつぶつと改良案を口にしている。

「圧抜きの場所を増やす。いや、異物混入検知の小窓も要るな。煙筒は次から低く流す。田中先生、ここの弁は二重にできますか」

「できるかではない。やるんだ」

 田中は焼けた工房を見回した。

「壊されたなら、壊される前より良く作る。それが職人の仕返しだ」

「話が早い」

 義経は戸口に立ち、外を見ていた。

 その背中はいつもより少しだけ遠い。
 けれど、新太郎にはもう、それが拒絶だけではないと分かっていた。

 つばきは、濡れた布を洗いながら言った。

「技術は、守る仕組みがなければ人を傷つけるのですね」

 新太郎は彼女を見た。

「機械だけではなく、文書も、言葉も、でしょうか」

「ええ」

 つばきは赤い封蝋の欠片を見た。

「正しいものの顔をして、人を傷つけるものがある。なら、学ぶ人間は、作るだけでなく、守ることも考えなければいけない」

 つばきは、お初と千吉を見た。

「知識を持つ人だけが危険を見抜けるなら、知識を持たない人はいつも危険の中に置かれることになります」

 彼女の指先が、濡れた布を強く握る。

「だから、学ぶ場所を増やさなければいけない。危ないものを危ないと分かる人を、増やさなければいけない」

 その声は静かだった。

 だが、新太郎には分かった。
 つばきの中で、何かがまた一つ、形を持ったのだ。

 彼女は前へ進むだけではない。
 燃え残ったものを拾い、次に誰かが傷つかない仕組みを考えようとしている。

 新太郎は紙片をもう一度見た。

 横浜へ戻れ。
 封はまだ開いていない。

 封とは何か。
 国書の封か。
 箱の封か。
 それとも、まだ誰も開けていない陰謀の入り口か。

 それは、安心の言葉ではなかった。
 まだ間に合う、という意味にも読める。
 まだ本当の災いは始まっていない、という意味にも読める。

 新太郎には、後者の方が近い気がした。

 答えは分からない。

 だが、今の新太郎は、分からないことをただ恐れるだけではなかった。

 読まなければならない。
 紙の文字だけではなく、香りを。
 封蝋の厚みを。
 人の沈黙を。
 火の中で迷った若者の目を。
 義経がしまい込んだ名を。

 それらすべてを、いつか言葉にしなければならない。

 工房の外では、夜明けの空が白み始めていた。

 義経は戸口で、懐の中の黒い布の切れ端を握っていた。

 火は消えても、その布だけがまだ熱を持っているようだった。

 火は消えた。
 けれど、何も終わってはいない。

 燃え残った設計図。
 燃え残った声。
 燃え残った足跡。

 そして、まだ開かれていない封。

 新太郎は焦げた紙片を懐にしまった。

 横浜の海風が、まだここにはないはずなのに、かすかに鼻先をかすめた気がした。

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