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第3章「横浜港の陰影」第1話「封の残り香」

横浜の朝は、東京の朝より早口だった。

 まだ空の端に夜の藍が残っているうちから、港では荷車の車輪が石畳を噛み、船員たちの怒鳴り声が波音に混じり、魚の匂いと石炭の煙が同じ風に押されて流れていた。

 桐生新太郎は、その風を吸い込んで、すぐに咳き込んだ。

「げほっ」

 喉の奥が、焼けた紙のようにひりつく。

 田中久重の工房で叫び続けた声は、まだ戻りきっていなかった。声を出そうとするたび、煙の中で人々を呼んだ時の熱が胸の奥から蘇る。

 逃げてください。

 奥へ行かないでください。

 左です。

 生きてください。

 あの時の自分の声は、きっとひどく訛っていた。

 けれど、誰も笑わなかった。

 誰も笑う暇などなかった。

 新太郎は、咳を押さえながら港の方へ目を向けた。

 桟橋には、大小の船が並んでいる。

 帆船の白い帆。

 黒い煙を吐く蒸気船。

 濡れた縄。

 樽。

 木箱。

 茶箱。

 英語で何かが書かれた麻袋。

 日本語の墨書きがまだ乾ききっていない荷札。

 それらが、朝の薄い光の中で次々に積み替えられていた。

 横浜では、荷物だけでなく、言葉まで積み替えられるのだと新太郎は思った。

 こちらでは日本語で怒鳴られた荷が、少し先では英語で数えられ、さらに向こうでは中国語らしい声で値をつけられている。

 同じ木箱が、通る場所によって別の名前で呼ばれていく。

 薬。

 布。

 機械部品。

 文書。

 雑貨。

 貴重品。

 危険物。

 中身は変わらないはずなのに、呼び名が変わるだけで、人の扱いが変わる。

 それが、少し怖かった。

「また咳をしています」

 隣から声がした。

 有馬つばきだった。

 今日は横浜へ戻るため、彼女は動きやすい藍の着物に外套を羽織っている。髪はきちんとまとめられていたが、よく見れば結い目の端が少し乱れていた。

 目元にも、疲れが残っている。

 けれど、つばきはその疲れを誰にも見せる気がない顔をしていた。

「大丈夫です」

 新太郎はそう言おうとして、声がかすれた。

「大丈夫な声ではありません」

「すみません」

「謝る声も使わないでください」

「……はい」

 新太郎が小さく頷くと、つばきは懐から小さな包みを取り出した。

 中には、薄く切った生姜と、乾いた飴が入っていた。

「横浜へ着く前に、母が持たせてくれました。喉に少しは効くそうです」

「ありがとうございます」

 新太郎は飴を受け取った。

 その時、つばきの指先が見えた。

 白い指の関節に、小さな赤みが残っている。

 工房で千吉の火傷した手を洗わせた時、桶の水を何度も替えた手だった。煙の中で濡れ布を配り、女中や職人の妻たちを外へ導いた手だった。

 つばきは新太郎の視線に気づき、さっと手を袖の中へ隠した。

「何ですか」

「いえ」

「何か言いたそうでした」

「その、手は痛みませんか」

 つばきは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、ほんの少しだけ顔を背けた。

「痛むほどではありません。千吉さんの方が、ずっと怖かったでしょうし」

「それでも」

 新太郎は声を落とした。

「つばきさんの手が動いたから、助かった人がいます」

 言ってから、しまったと思った。

 つばきの耳が、目に見えて赤くなったからだ。

「そういうことを、朝の港で、咳まじりに言わないでください」

「すみません」

「だから謝る声も使わないでください」

「……はい」

 つばきは前を向いた。

 だが、袖の中に隠した指先を、もう片方の手でそっと包んでいた。

 新太郎はそれ以上何も言わず、飴を口に入れた。

 生姜の辛さが舌に広がる。

 少し遅れて、喉の奥が温まった。

「若先生、嬢ちゃん、こっちだ」

 前方から声がした。

 声の主は、使節団事務方に雇われた港湾労働者の佐吉だった。四十前後のがっしりした男で、日に焼けた顔に深い皺がある。背負った荷縄が肩に食い込み、着物の袖は仕事の邪魔にならないよう短く括られていた。

 肩には、古い擦り傷が何本も重なっている。

 荷だけでなく、人の事情まで担いできた肩だった。

 その隣には、もう少し若い男が立っている。

 市松という名で、佐吉の甥だという。細身で、目がよく動く。黙っている時も、港のあちこちを見ている。

「若先生って、僕のことですか」

 新太郎が聞くと、佐吉は笑った。

「筆と帳面を持ってる若い人は、だいたい若先生で通る。違ってたら、まあ今日からそういうことで」

「ずいぶん広い分類ですね」

「港じゃ細けえ肩書きより、荷を間違えねえ方が大事だ」

 佐吉はそう言い、親指で倉庫の方を指した。

「有馬様の手配した紙箱と、使節団の文書箱はこっちだ。昨日の夕方に役所の者が来て、封を確認していった。だが今朝また見たいって話だろ」

「はい」

 つばきが一歩前へ出る。

「父の荷も含まれています。紙、封蝋、防湿剤、文書を入れる箱。すべて確認したいのです」

「聞いてる。お嬢さんが直々に来るとは思わなかったが」

「来てはいけませんか」

 つばきの声が少し硬くなった。

 佐吉は肩をすくめる。

「いいや。港に来ちゃいけねえ人間なんざ、港で人を売る奴くらいだ」

 つばきは返す言葉を失った。

 冗談のような調子だった。

 だが、佐吉の目だけは笑っていなかった。

 新太郎は、その言葉の後ろに横浜の夜の気配を感じた。荷札を変えられる荷。名を変えられる人。港という場所は、運ぶものを選ばない。だからこそ、運ぶ者の筋が問われるのだろう。

 佐吉は気にした様子もなく歩き出す。

 新太郎たちもその後に続いた。

 義経は少し後ろを歩いている。

 真田義経は、港の喧騒の中でも周囲に溶けなかった。

 腰の刀に手をかけているわけではない。歩幅も落ち着いている。だが、彼の周りだけ音が少し遠ざかるように見えた。

 昨夜から、義経はほとんど話していない。

 義経は時折、懐に入れた手を動かした。

 そこに何があるのか、新太郎には見えない。

 ただ、炎の中で消えた黒い布の端を、義経が焼け跡から拾っていたことだけは知っている。

 景久。

 炎の中で彼が漏らした名が、新太郎の耳にはまだ残っている。

 聞きたい。

 けれど、聞けない。

 その名は、封を切ってはいけない文書のように、義経の内側で固く閉じられていた。

「おい、古式ゆかしい人間切断機。そんな顔で歩くと、港の犬まで逃げるぞ」

 義経の沈黙に平気で石を投げる者が一人いた。

 綾部影照である。

 影照は大きな筒と工具袋を背負い、手には焼け残った赤い封蝋の欠片を入れた小箱を持っている。横浜へ向かう道中も、彼はずっとその欠片を眺めていた。

 右手には、薄く布が巻かれている。

 鳳凰丸の管を外す時に焼けたらしい。

 それでも影照は、布の上から器用に封蝋の欠片をつまみ、朝から何度も角度を変えて光に透かしている。

「痛くないんですか」

 新太郎が思わず聞くと、影照は当然のように答えた。

「痛い。だから腹が立つ。腹が立つから見る」

「誰が人間切断機だ」

 義経が低く言う。

「では、人間を切らない機械嫌い」

「黙れ」

「黙ると、この封蝋の構造が分からん。見ろ、新太郎。ここだ。表面は一度固まっているが、縁の内側にわずかな沈みがある。熱を加えたというより、別の溶剤で軟らかくしてから押し戻した可能性が高い」

 影照は小箱を開け、新太郎に見せた。

 赤い封蝋の欠片。

 工房で見た時よりも、朝の光の下では色が鮮やかに見えた。

 血のようだ、と思いかけて、新太郎はその考えを追い払った。

「つまり、封は破られていないように見えても」

「中身に手を出せるかもしれん」

 影照は楽しげに言った。

 楽しげだったが、その目は笑っていない。

「厄介だぞ。文書を守る仕組みが、文書を信じ込ませる罠にもなる。技術としては見事だが、使い方が腹立たしい」

「腹立たしいで済む話ではありません」

 つばきが言った。

「国書や批准書に同じことをされたら、誰かが傷つくかもしれません」

「だから見に来た」

 影照は小箱を閉じた。

「焼けた工房で見つけた答えを、港の箱で確かめる。実に正しい」

「その言い方だと、工房が焼けたことまで実験のように聞こえます」

「違う。あれは失敗例だ。二度と繰り返さないための」

 影照の声が、少しだけ低くなった。

 つばきはそれに気づき、何も言わなかった。

 新太郎も黙った。

 影照が本気で怒る時、彼はふざけた言葉を途中で置き忘れる。

 そのことを、新太郎はあの工房で知った。

 倉庫の前へ着くと、佐吉が番人へ声をかけた。

「使節団の若先生方だ。文書箱を見る」

 番人は少し迷ったが、つばきの名を聞くと態度を改めた。

 有馬家の荷がここに入っているからだろう。

 倉庫の扉が開く。

 中から、冷えた木と紙と防湿剤の匂いが流れ出した。

 新太郎は思わず息を止める。

 鼻を利かせろ。

 唐人お吉を名乗った女の声が、耳の奥で囁いた。

 国書の封は、開けずに殺せる。

 赤い蝋を信じすぎるんじゃないよ。

 倉庫の中には木箱が整然と積まれていた。

 墨書きの荷札。

 英字の焼印。

 赤い封蝋。

 白い紐。

 湿気を避けるための油紙。

 その一つ一つが、ただの荷物ではなく、何かを黙って隠しているように見えた。

「これです」

 佐吉が一つの箱の前で止まった。

 横長の文書箱。

 上蓋には、有馬家の商標と使節団事務方の印が並んでいる。赤い封蝋は四隅と中央に押され、どれも割れていない。

 つばきが膝をついた。

 新太郎も隣にしゃがむ。

 触れない。

 まず見る。

 焼け跡で身につけたばかりの慎重さだった。

 新太郎は、昨夜の焼け跡で覚えた順番を思い出した。

 まず、縁を見る。

 蝋が二度流れた跡はないか。

 次に、印を見る。

 押された紋がずれていないか。

 最後に、匂いを見る。

 蝋の奥に、薬品めいた冷たさがないか。

「封は」

 つばきが小さく言う。

「開いていませんね」

「見た目では」

 新太郎は答えた。

 自分の声が、少し冷たく聞こえた。

 つばきもそれに気づいたのか、こちらを見る。

 新太郎は封蝋の縁を目で追った。

 中央の印。

 丸い押し跡。

 紋様。

 わずかな歪み。

 工房の箱にあったような、二度押しのくぼみはない。

 印の輪郭も、大きくはずれていない。

 少なくとも、粗雑に開け直された箱ではなかった。

 だが、確信は持てない。

「匂いは」

 影照が聞いた。

 新太郎は慎重に鼻を近づけた。

 喉が痛むせいで、うまく息を吸えない。

 それでも、紙と油と蝋の匂いの奥に、かすかな薬品の気配を探した。

 何もない。

 いや。

 防湿剤の匂いが強い。

 その下に、何かがあるような気もする。

「分かりません」

 新太郎は正直に言った。

「喉が、まだ」

「無理をするな」

 義経が言った。

 短い声だった。

 だが、それだけで新太郎は少し肩の力が抜けた。

 つばきが代わりに顔を近づける。

 彼女は目を閉じ、ゆっくり息を吸った。

「紙の匂い。油。蝋。少し、薬のような匂い」

「どんな薬ですか」

「分かりません。父の荷には、防湿や防虫のための薬剤もありますから」

 つばきは悔しそうに眉を寄せた。

「知らなければ、危険かどうかも分からない」

「知るために来たんです」

 新太郎が言うと、つばきは一度だけ頷いた。

 その時、倉庫の入り口から市松の声がした。

「佐吉おじ、こっちのも見せるんですかい」

「余計な箱に触るな」

 佐吉が鋭く言った。

 市松は肩をすくめた。

 だが、その目は一瞬だけ倉庫の奥へ向いていた。

 市松はよく笑う。

 軽く、早く、相手の警戒を先にほどくように笑う。

 だが、倉庫の奥を見る時だけ、笑いが先に消えた。

 新太郎はその視線を追う。

 奥には、別の木箱が積まれている。

 使節団のものではなさそうだった。

 荷札には英字があり、上から布がかけられている。

「あれは」

 新太郎が聞きかけると、佐吉が先に言った。

「別口の荷だ。若先生方が見るもんじゃねえ」

「港の荷は、全部そうやって分けられるのですか」

 つばきが聞いた。

「表の荷、裏の荷、見てよい荷、見てはいけない荷」

 佐吉は少しだけ困った顔をした。

 市松が小さく笑う。

「お嬢さん、港は昼と夜で札が変わるんですよ」

「市松」

 佐吉の声が低くなる。

 市松は慌てて口を閉じた。

 つばきは黙った。

 その横顔から、先ほどまであった横浜育ちの自信が少し薄れていた。

「私は」

 つばきは静かに言った。

「横浜のことを、知っているつもりでした」

 佐吉はため息をついた。

「お嬢さんの知ってる港は、昼の顔だけでさ」

 その言葉は乱暴ではなかった。

 むしろ、あまりにも当たり前のことを言う声だった。

 だから、つばきは反論できなかった。

 新太郎も、何も言えなかった。

 昼の顔。

 夜の顔。

 表の荷。

 裏の荷。

 同じ港なのに、見る者によって名前が変わる。

 新太郎は倉庫の奥の布をもう一度見た。

 風が入り、布の端がわずかにめくれる。

 そこに、白い紙の荷札が一瞬だけ見えた。

 英語ではない。

 フランス語らしい。

 新太郎が読み取る前に、布はまた箱を隠した。

「確認は終わりだ」

 義経が言った。

「長居する場所ではない」

 その声には、何かを感じ取った時の硬さがあった。

 新太郎は頷いた。

 文書箱の封は開いていない。

 見た目では。

 匂いは分からない。

 防湿剤の匂いが邪魔をしている。

 奥の荷は見られない。

 そして、市松は何かを知っているかもしれない。

 分かったことより、分からないことの方が増えた。

 それが横浜の答えなのかもしれない。

 倉庫を出ると、港の朝はさらに騒がしくなっていた。

 太陽が上がり、海面が白く光っている。

 船の汽笛が鳴る。

 外国人の船員が怒鳴る。

 人足たちが肩に荷を担ぎ、裸足で石畳を駆ける。

 魚を積んだ籠が通り過ぎ、石炭の粉で黒くなった少年が笑いながらそれを避けた。

 つばきは眩しそうに目を細めた。

「港は、こんなに大きかったのですね」

「横浜育ちでも、そう思うのですか」

「ええ」

 つばきは少しだけ悔しそうに笑った。

「私は、父の商館から見る港しか知りませんでした。綺麗に積まれた荷。通訳を挟んだ商談。外国の菓子。英語の看板。珍しい布」

 彼女は桟橋へ目を向ける。

「でも、ここには、荷を担ぐ人がいます。匂いがあります。隠される箱があります。昼と夜で名前が変わるものがあります」

 つばきはそこで一度、言葉を切った。

 波止場を走る少年、縄を担ぐ人足、倉庫の影で口を閉じた市松を、順に見る。

「私は、女だから知らされないことに怒っていました」

 その声は、いつものように強かった。

 けれど、少しだけ痛みも混じっていた。

「でも、私もまた、知らない場所の人たちを見ていなかったのですね。父や役人に遠ざけられていたことだけを考えて、私自身が見ようとしていなかったものがある」

「知る場所が増えた、ということでしょうか」

「そう言うと、少し綺麗すぎます」

 つばきはきっぱり言った。

「知らなかっただけです」

 その声には、自分自身への苛立ちがあった。

 新太郎は何か言葉を探した。

 けれど、すぐには見つからなかった。

 つばきは慰められたいわけではない。

 言い訳をしたいわけでもない。

 ただ、知らなかったことを知らなかったと認めようとしている。

 それは、思ったより勇気のいることだった。

「僕も」

 新太郎はゆっくり言った。

「言葉を知っているつもりでした」

 つばきがこちらを見る。

「でも、港では同じ箱が場所によって違う名前で呼ばれます。同じ出来事も、きっと見る人によって違う言葉になる。僕はまだ、それを訳せる気がしません」

「訳せるようになりますか」

 つばきが聞いた。

 新太郎は少し考えた。

「少し、言葉を探させてください」

 つばきの口元が、ほんの少し緩んだ。

「それは、桐生さんらしい答えですね」

「情けない答えとも言います」

「いいえ」

 つばきは前を向いた。

「探さない人より、ずっといいと思います」

 新太郎は返事に詰まった。

 喉の痛みのせいにしたい。

 だが、たぶん違う。

 その時、港の雑踏の向こうから甲高い声が響いた。

「号外だよ、号外!」

 少年の声だった。

 荷車の間を縫うように、一人の新聞売りが走ってくる。十歳か、十一歳ほど。髪は乱れ、頬にはインクの跡がついている。手にした束を振り上げながら、彼は息も切らさず叫んでいた。

「乞食谷戸で病人だ! 居留地に広がる前に読んどくれ! 号外だよ!」

 佐吉の顔がわずかに曇った。

 市松が舌打ちする。

「太吉のやつ、朝っぱらから景気悪い声出しやがる」

「乞食谷戸」

 つばきが呟いた。

 新太郎もその名を聞いたことがあった。

 横浜の外れにある、貧しい人々が身を寄せる谷戸。

 水はけが悪く、家屋は密集し、病が出ればあっという間に広がると噂される場所。

 だが、それはあくまで噂だった。

 新太郎にとっては、地図の端の地名でしかなかった。

 新聞売りの少年、太吉が近づいてくる。

「おっ、佐吉のおじさん! 買ってよ!」

「おじさんじゃねえ」

「じゃあ佐吉の兄貴」

「もっと悪い」

 太吉は笑い、新聞を一枚差し出した。

 佐吉は渋い顔で銭を渡す。

 新太郎はその紙面を覗き込んだ。

 大きな見出しが躍っている。

 乞食谷戸に病人。

 居留地より広がる毒気か。

 港の水に注意。

 紙面の端には、小さな字でこうも刷られていた。

 役所、乞食谷戸一帯の封鎖を検討。

 文字は荒く、急いで刷られたことが分かる。

 新太郎は、その「封鎖」という言葉に目を止めた。

 また、封だ。

 紙を閉じる封。

 荷を隠す封。

 そして今度は、人の暮らす場所を閉じる封。

 つばきの表情が険しくなった。

「毒気、ですか」

「新聞は強い言葉が好きでさ」

 佐吉が言った。

「弱い言葉じゃ売れねえ」

 その時、別の声がした。

「Newspaper! Morning paper!」

 英語だった。

 居留地の方から、金髪に近い薄茶の髪をした少年が走ってくる。こちらも新聞の束を抱えている。太吉より少し背が高く、帽子を斜めにかぶっていた。

 彼は日本語で太吉へ声をかけた。

「タイキチ、こっちも売れてるよ」

「トム、お前んとこの見出しは何だ」

 太吉が聞く。

 トムと呼ばれた少年は、英字新聞を得意げに広げた。

 新太郎はその見出しを読んだ。

 Japanese Sanitary Failure Threatens Settlement.

 日本の衛生失敗が居留地を脅かす。

 直訳すれば、そうなる。

 だが、その言葉をそのまま口にするのを、新太郎はためらった。

 つばきが気づく。

「何と書いてあるのですか」

 新太郎は紙面を見つめた。

 単語は分かる。

 文法も難しくない。

 直訳は簡単だった。

 日本の衛生失敗が、居留地を脅かす。

 だが、そのまま訳せば、見出しの冷たさまでそのまま運ぶことになる。

 では、柔らかく訳せばよいのか。

 それでは今度は、英字新聞が向けた非難の鋭さを隠すことになる。

 訳すとは、どちらかの刃を鈍らせることではない。

 刃がどちらを向いているのか、見せることなのかもしれない。

 けれど、その見出しの中には、病人の顔がなかった。

 乞食谷戸で咳をしている誰か。

 水を汲む母親。

 路地で遊ぶ子ども。

 そういうものはすべて消え、「日本の衛生失敗」という冷たい言葉だけが残っている。

 一方で、太吉の新聞は「居留地より広がる毒気か」と書いている。

 こちらは外国人を責める。

 あちらは日本を責める。

 同じ病人が、二つの見出しの間で別の意味に変えられている。

「桐生さん」

 つばきが促した。

 新太郎は、ゆっくり息を吸った。

 喉が痛む。

 だが、それ以上に、言葉が痛んだ。

「英字新聞には」

 新太郎は言った。

「日本の衛生の失敗が、居留地を脅かしている、とあります」

 つばきの眉が動いた。

 佐吉が低く唸る。

 市松は鼻で笑った。

「こっちは外国船の毒気って書き、あっちは日本のせいって書く。便利なもんだな、新聞ってのは」

 太吉がむっとした顔をする。

「俺が書いたんじゃねえよ」

「売ってるだろ」

「売らなきゃ飯が食えねえ」

 市松は黙った。

 その沈黙に、新太郎は胸を突かれた。

 言葉は、紙の上だけにあるのではない。

 売る少年の腹の中にもある。

 読む者の怒りの中にもある。

 病人のいる路地にも、まだ届いていない言葉がある。

 太吉とトムは、互いの新聞をからかい合いながら、同じように腹を空かせている。

 どちらの見出しも、二人が書いたものではない。

 だが、二人はそれを叫ばなければ飯にありつけない。

 新太郎は、言葉を売る子どもたちを見た。

 そして、自分もまた、言葉で生きていこうとしているのだと気づいた。

 新太郎は英字新聞と日本語新聞を見比べた。

 同じ出来事が、二つの紙面で別の顔をしている。

 翻訳とは、英語を日本語へ置き換えることではない。

 どちらの見出しが何を隠しているのか。

 誰の怒りを煽っているのか。

 誰の名前を消しているのか。

 そこまで読まなければ、意味は届かない。

「若先生」

 佐吉が静かに言った。

「乞食谷戸に行くなら、綺麗な草履じゃ歩けねえぞ」

「行くとはまだ」

 新太郎が言いかける前に、つばきが言った。

「行きます」

 新太郎は彼女を見る。

 つばきの顔には、迷いがなかった。

 いや。

 迷いはある。

 あるが、その迷いを理由に立ち止まる顔ではなかった。

「つばきさん」

「横浜のことを知らなかったと、今言いました。なら、知らないままにはできません」

「危険かもしれません」

「だから、行くのです」

 つばきは新聞を見た。

「病人が、どちらの新聞にも人として書かれていません」

 つばきは二つの紙面を見た。

「毒気、衛生失敗、居留地への脅威。どれも大きな言葉です。でも、そこにいるはずの人の顔がない。病人が、見出しの中だけで責められているなら、せめて本当に何が起きているのか見なければ」

 その言葉に、太吉が目をぱちぱちさせた。

「お嬢さん、乞食谷戸に行くの」

「ええ」

「着物、汚れるよ」

「洗えば済みます」

「靴、沈むよ」

「歩けば抜けます」

「怖い人もいるよ」

「それは、三田にも工房にもいました」

 太吉は口を開けたまま黙った。

 新太郎は思わず少し笑いそうになり、喉が痛んでやめた。

 義経が短く言う。

「行くなら、俺も行く」

 義経は新聞の「乞食谷戸」という文字を見ていた。

 昨夜、火の中で千吉を突き飛ばした黒い影。

 あれが本当に景久なら、弱い者を見捨てきれない心はまだ残っている。

 ならば、自分も弱い者のいる場所から目を逸らすわけにはいかない。

 義経がそう言ったわけではない。

 だが、新太郎には彼の沈黙が、少しだけそう聞こえた。

「俺もだな」

 影照が工具袋を背負い直した。

「水回りと換気を見る。病の話は分からんが、空気の流れと井戸の位置なら役に立つ」

 佐吉は頭を掻いた。

「物好きな若い衆だ」

「案内していただけますか」

 つばきが聞くと、佐吉は少しだけ目を細めた。

 それは、横浜育ちの令嬢を見る目ではなかった。

 荷を担ぐ者が、別の荷を担ごうとする者を見る目だった。

「途中までならな」

 佐吉は言った。

「その先は、俺より詳しい者がいる」

「誰ですか」

 新太郎が聞く。

 佐吉は答えず、太吉の方を見た。

 太吉は胸を張った。

「俺、道知ってるよ」

「売り歩いてるだけだろ」

 市松が言う。

「売り歩いてるから知ってんだよ」

 太吉は負けずに言い返した。

 その横で、トムが英字新聞を小さく畳み、新太郎へ差し出した。

「You read both, sir. Both are not enough.」

 新太郎は少し驚いた。

 トムは照れたように帽子を直す。

「両方、読む。両方、足りない」

 それから、トムは自分の新聞を指で叩き、次に太吉の新聞を指した。

「僕の新聞、居留地が先。太吉の新聞、日本人が先」

 そこで少し考え、彼は胸のあたりを軽く押さえた。

「でも、病人が先、だと思う」

 たどたどしい日本語だった。

 だが、意味は届いた。

 新太郎は英字新聞を受け取った。

「ありがとう」

 トムはにっと笑った。

 太吉が横から言う。

「俺のも買ってよ、若先生」

「もちろん」

 新太郎は銭を出し、日本語新聞も受け取った。

 二つの紙。

 二つの見出し。

 同じ病。

 違う責め方。

 新太郎はそれを懐にしまいかけ、ふと止めた。

 懐には、まだあの焦げた紙片が入っている。

 横浜へ戻れ。

 封はまだ開いていない。

 新太郎は紙片の感触を確かめた。

 封はまだ開いていない。

 だが、見出しはもう開かれている。

 人々の怒りも、不安も、恐れも、すでに紙の上で口を開け始めている。

 封を守るだけでは足りない。

 言葉の蓋も、誰かが見なければならない。

 封蝋は紙を閉じる。

 見出しは人の心を開く。

 どちらも、扱いを誤れば毒になる。

 港の向こうで、蒸気船が長く汽笛を鳴らした。

 その音は、旅立ちの合図にも、警告にも聞こえた。

 新太郎は喉の痛みをこらえ、二つの新聞を抱え直した。

「行きましょう」

 声はまだ少しかすれていた。

 けれど、前よりはっきりと出た。

 つばきが頷く。

 義経は黙って先を見た。

 影照は工具袋を鳴らした。

 佐吉が港の雑踏をかき分ける。

 太吉とトムが、互いに新聞の束を抱え直して走り出す。

 横浜の朝は、相変わらず早口だった。

 だが新太郎には、その早口の中に、まだ誰にも訳されていない声が混じっているように聞こえた。

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