新聞というものは、紙の姿をした声なのだと、桐生新太郎は思っていた。
だが横浜の朝に聞こえる新聞の声は、一つではなかった。
「号外だよ、号外! 乞食谷戸で病人!」
「Morning paper! Settlement news!」
太吉とトムが、荷車の間を縫うように走る。
二人の声は、港の喧騒に押し潰されそうになりながらも、不思議とよく通った。石炭を運ぶ人足、魚籠を担ぐ女、英語で怒鳴る船員、帳面を抱えた商館の手代たちが、その声に少しずつ振り向く。
そして、振り向いた人間の顔は、見出しを聞いた瞬間に変わった。
日本語の号外を聞いた者は、居留地の方を見る。
英字新聞を聞いた外国人は、日本人の集まる方を見る。
同じ病の話が、誰の口から出るかで、視線の向きまで変えてしまう。
新太郎はそれが怖かった。
封蝋は紙を閉じる。
見出しは人の心を開く。
先ほど自分の胸に浮かんだ言葉が、まだ喉の痛みと一緒に残っている。
「若先生、こっちだ」
佐吉が言った。
彼は人波を割るのがうまかった。怒鳴らない。肩で押さない。ただ、港で働く者だけが知っている隙間を見つけ、荷車の後ろ、積み樽の脇、船具屋の軒先を選んで歩いていく。
つばきはその後ろを、裾を少し持ち上げて歩いていた。
泥を避けるというより、泥に足を取られないための持ち方だった。
ついさっきまでなら、彼女は汚れないように歩いたかもしれない。
だが今のつばきは、汚れることではなく、遅れることを気にしているようだった。
「太吉」
佐吉が呼ぶと、太吉はくるりと振り向いた。
「何だい、佐吉のおじさん」
「おじさんじゃねえと言ったろ」
「じゃあ、佐吉の兄貴」
「それもやめろ。道を案内するなら、まず口を半分閉じろ」
「口を閉じたら新聞が売れないよ」
太吉はそう言いながらも、得意げに胸を張った。
彼の手には、先ほどの号外がまだ何枚も残っている。端は湿気で少し波打ち、墨はところどころ濃くにじんでいた。
トムも少し遅れて戻ってきた。
こちらは英字新聞を胸に抱え、帽子を押さえながら息を整えている。顔立ちは外国人の子どもだが、日本語の相槌は妙に早い。
「タイキチ、先、行く?」
「俺が先だよ。お前、乞食谷戸の細い道は分かんねえだろ」
「分かる。ちょっと」
「ちょっとじゃ、どぶに落ちる」
「タイキチも昨日、落ちた」
「あれは道が悪いんだ」
二人は言い合いながら、同じように新聞の束を抱え直した。
新太郎はその姿を見て、胸のどこかが重くなった。
この子たちは、書いた言葉を売っているのではない。
誰かが書いた言葉を叫び、誰かの不安を飯に替えている。
それを責めることは簡単だった。
だが、太吉の腹が鳴った音を、新太郎は確かに聞いてしまった。
「その新聞」
つばきが静かに言った。
「誰が書いたのですか」
太吉はきょとんとした。
「誰って、新聞屋の旦那」
「その旦那は、乞食谷戸へ行ったのですか」
「さあ」
太吉は首を傾げた。
「行ってないんじゃないかな。だって、俺が今から売りに行くんだし」
つばきの眉がかすかに動いた。
「見ていない人が、もう見出しを書いたのですね」
「そういうもんじゃないの」
太吉は悪びれずに言った。
「早く刷らないと、別の新聞に負けるって旦那が言ってた」
トムが小さく頷く。
「My boss, same. 早い、大事」
「早いことと、正しいことは同じではありません」
つばきの声が少し硬くなった。
太吉は一瞬、困った顔をした。
怒られているのが自分なのか、新聞屋なのか、分からないという顔だった。
「有馬さん」
新太郎は小さく言った。
「太吉さんたちが書いたわけではありません」
「分かっています」
つばきはすぐに答えた。
その早さに、新太郎は少し驚いた。
「分かっているから、余計に嫌なのです」
つばきは太吉の号外を見た。
「見出しは、上に乗ります。紙の一番上に、大きな字で。けれど、その下には人がいます。病人も、この子たちも」
彼女は太吉とトムを見た。
「見出しを書く人は、上から見ているだけではいけないのだと思います。病人の顔も見ていない大人が言葉を作り、その言葉を子どもに売らせる。病人も、この子たちも、見出しの下に置かれている」
太吉は黙った。
トムも黙った。
佐吉がつばきを横目で見た。
「お嬢さん、そういうことを港で大きな声で言うと、新聞屋にも役人にも嫌われるぜ」
「なら、覚えていただけますね」
つばきはきっぱり言った。
佐吉は少しだけ口元を緩めた。
「たいした嬢ちゃんだ」
「嬢ちゃんではありません」
「じゃあ、有馬のお嬢」
「それも少し違います」
「難しいな」
佐吉が肩をすくめる。
そのやり取りに、太吉がようやく笑った。
だが、笑いは長く続かなかった。
港の坂道を上がるにつれて、町の空気が変わっていった。
桟橋の石炭と魚の匂いが薄れ、代わりに煮売り屋の湯気、馬糞、湿った木材、古い井戸水の匂いが混ざり始める。外国商館の白い壁が遠ざかり、日本人町の低い屋根が近づいてくる。
太吉は途中で何度も号外を売った。
「乞食谷戸で病人だよ! 港の水に気をつけな!」
言いながら、彼は時々、新太郎たちの方をちらりと見た。
自分の声が、今は少し違って聞こえているのかもしれない。
トムも英字新聞を売る。
「Sanitary failure! Settlement warning!」
けれど、彼は最後に小さく日本語を足した。
「病人、先」
英字新聞を買った外国人の男は、怪訝そうにトムを見た。
トムは帽子を押さえ、すぐに逃げるように走った。
「あんた、変なこと言うなよ」
太吉が小声で言う。
「Boss angry」
「怒られるぞ」
「でも、言った」
トムは少し誇らしそうだった。
新太郎はそれを見て、英字新聞を抱え直した。
言葉は人を動かす。
だが、人に使われるだけのものではない。
小さな子どもでも、ほんの一語なら変えられる。
そう思った時だった。
「おい、そこの君」
背後から、早口の声が飛んできた。
振り向くと、細身の若い男が息を切らして立っていた。
年は新太郎より少し上だろう。書生風の羽織に、紙片を詰め込みすぎた懐。黒髪は少し乱れ、目だけがやけに熱い。
片手には筆記帳。
もう片方には、まだ乾ききっていない新聞の切り抜き。
「君、英字新聞を読んでいただろう」
新太郎は瞬きをした。
「ええ、少し」
「少しではありません。発音で分かる。君は通訳ですか。使節団の方ですか。桐生新太郎さん、で合っていますか」
「なぜ僕の名を」
「三田の講義で福沢先生に英語で質問した若者がいると聞きました。越後訛りが少し残るが、英語は妙に正確だと」
新太郎はその場で固まった。
つばきが横で、ほんの少しだけ口元を押さえる。
「妙に正確」
彼女が小さく繰り返した。
「そこは笑うところではありません」
「笑っていません」
少し笑っている顔だった。
若い男は構わず、新太郎へ一歩近づいた。
「僕は徳富俊作と申します。東京の新聞社で翻訳記事と論説を書いています。横浜へは使節団出航の記事を取りに来たのですが、今朝の乞食谷戸の件も見過ごせません」
「徳富さん」
新太郎は軽く頭を下げた。
俊作も勢いよく頭を下げる。
「桐生さん、英字新聞の見出しをどう読みましたか」
「どう、と言われましても」
「直訳ではありません。あれは、日本の衛生を責めています。だが、日本語新聞は居留地からの毒気を疑っている。どちらが正しいのか。どちらも不確かなら、民は何を信じればよいのか。これは、民に知らせるべきです」
言葉が熱い。
速い。
新太郎は思わず一歩引きそうになった。
しかし、俊作の目は真剣だった。
ただ騒ぎたい目ではない。
何かを届けたい目だった。
「知らせるべき、というのは」
新太郎は慎重に聞いた。
「乞食谷戸で病が出たことを、ですか。それとも、新聞の見出しが食い違っていることを、ですか」
「両方です」
俊作は即答した。
「黙っていたら、なかったことにされます。役所は不都合を隠す。商館は自分たちの責任を隠す。外国新聞は日本の遅れを面白がる。国内新聞は外国の横暴を煽る。なら、若い新聞が、正しい怒りを民に渡さなければ」
そこで俊作は、一瞬だけ唇を噛んだ。
「僕の社でも、早く、強い見出しを、と言われています。弱い見出しでは読まれない。読まれなければ、正しいことも届かない。だから、強い言葉を使えと」
「それで、強い言葉に引っ張られる」
新太郎が言うと、俊作は黙った。
彼は本気で民のためを思っている。
だからこそ、自分の筆が誰かを傷つける可能性に気づくのが遅いのかもしれない。
「正しい怒り」
つばきが言った。
その声は静かだった。
俊作は初めて、つばきをまっすぐ見た。
「有馬つばきさんですね。女性の学問について福沢先生に問われた方だと聞いています」
「私のことまで記事になっているのですか」
「まだです」
「まだ」
つばきの目が細くなる。
俊作は慌てて手を振った。
「いえ、記事にするならもちろん許可を取ります。僕は、女性が学問を求める姿は民に知らせるべきだと」
「私の姿より、乞食谷戸の病人の姿を見てから書いてください」
つばきは言った。
俊作の口が止まった。
佐吉が低く笑う。
「お嬢、新聞屋を黙らせたな」
「黙っていただくために言ったのではありません」
つばきは俊作を見る。
「書くなら、見てからにしてください。病人を、怒りの材料にしないでください」
俊作は筆記帳を握りしめた。
「もちろんです。僕は民のために」
「徳富はん」
別の声が割り込んだ。
少し上方の調子が混じった、軽い声だった。
「あんたの記事は志が高い。せやけど、志だけじゃ長屋の火事は消えまへん」
横の路地から、笠を斜めにかぶった男が出てきた。
着古した羽織。
雑に束ねた黒髪。
細く鋭い目。
懐には、紙片と短い鉛筆が無造作に詰め込まれている。
男は手拭いで汗を拭きながら、太吉から号外を一枚ひょいと抜いた。
「おい、山科の兄さん、銭」
太吉が言う。
「あとで払う」
「兄さんのあとでは、だいたい忘れる」
「子どもが細かいこと言うな」
「細かい銭で飯食ってんだよ」
男は笑って、銭を一枚投げた。
太吉は空中で受け取る。
「山科亮太」
俊作が少し苦い顔で言った。
「あなたも来ていたんですか」
「そら来るやろ。役所の紙より、湯屋の噂の方が早い時もある。乞食谷戸で病人、井戸水、居留地、封鎖検討。こんだけ並んだら、事件屋は走る」
山科亮太は号外をひらひら振った。
「で、徳富はんはまた、民に知らせるべきです、か」
「知らせるべきです」
「ほな、どう知らせる」
山科の目が細くなる。
「毒気や言うたら、居留地の船に石が飛ぶ。日本の衛生失敗や言うたら、乞食谷戸の長屋に石が飛ぶ。病人の名を出したら、その家に石が飛ぶ。綺麗な記事やな。で、誰が泣いたんや?」
俊作の顔が赤くなった。
「だからこそ、正確な記事が必要なんです」
「正確なだけでは足りへん。誰の首に縄がかかるか考えんと、筆は刃物になる」
「山科さんは、何を信じて書くのですか」
新太郎が聞くと、山科は少し笑った。
「信じて書くと危ない。疑って書くくらいで、ちょうどええ」
軽い言い方だった。
けれど、その笑いは少しだけ乾いていた。
現場を見すぎた人間の笑いだと、新太郎は思った。
新太郎は二人を見比べた。
俊作は火のようだった。
山科は泥のようだった。
どちらも汚れていないわけではない。
どちらも、何かを守ろうとしている。
だが、守ろうとするものが少し違う。
「新聞を書く人は」
新太郎は思わず口を開いた。
二人の目が同時にこちらを向く。
新太郎は少しだけ後悔した。
だが、もう言葉は出てしまった。
「何を最初に考えるのですか。早さですか。正しさですか。読まれることですか。それとも、守ることですか」
俊作はすぐに答えようとして、止まった。
山科も、軽口を叩かずに新太郎を見た。
俊作は「正しさ」と言いかけたのだろう。
山科は「守ること」と言いかけて、違うな、という顔をした。
短い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、聞き慣れない外国語混じりの声だった。
「良い質問だ、若き外交官殿」
振り向くと、栗色の髪を無造作に整えた欧州人の男が立っていた。
少し着崩したスーツ。
くたびれた外套。
手には速記帳と万年筆。
口元には、まるで今の会話すべてを面白がっているような笑みがある。
「外交官は、まず包む。記者は、まず剥く。だが、包み方が下手なら腐る。剥き方が乱暴なら、傷口が広がる」
男は流暢な英語で言い、それから少し崩れた日本語で続けた。
「つまり、みんな、下手をすると人を殺す。便利な仕事だね」
俊作の眉が跳ねた。
「ポール・デュラン」
「おや、覚えていてくれたか。嬉しいね、ミスター徳富」
ポール・デュランは大げさに胸へ手を当てた。
俊作は喜んでいる顔ではなかった。
ポール・デュラン。
居留地の英字紙だけでなく、フランス語の通信にも記事を流す欧州人記者。
横浜の出来事を、日本の町内の噂ではなく、世界の読者へ売る男だった。
「あなたは、また日本を珍奇な見世物として書くつもりですか」
「珍奇な見世物は、港にいくらでもある。だが私は今、もっと面白いものを見ている」
ポールは新太郎、つばき、俊作、山科、太吉、トムを順に見た。
「病人がまだ見えないうちから、見出しが戦争を始めている。日本語の怒り、英語の軽蔑、若い論説、泥臭い現場、そして通訳見習いの良心。これは記事になる」
「人の病を面白がらないでください」
つばきの声が鋭くなった。
ポールはつばきを見た。
彼は笑おうとした。
だが、つばきの目を見て、笑いを途中でやめた。
その目が一瞬だけ、軽口の奥から真面目になる。
「失礼、マドモワゼル。病を面白がったのではない。病の周りで人間がどんな顔をするかに、私は興味がある」
「それも、同じように聞こえます」
「かもしれない」
ポールは素直に認めた。
「耳が痛いね」
俊作が苛立ったように言う。
「あなた方の新聞は、日本の遅れを笑うだけです」
「そして君たちの新聞は、外国の悪意を叫ぶだけかもしれない」
「違います」
「違うなら、証明すればいい。見出しではなく、本文で」
俊作は言葉に詰まった。
山科が横でにやりと笑う。
「デュランの旦那、口は悪いが痛いところ突くな」
「私の口は商売道具だからね」
「手入れが悪い商売道具や」
「君の鉛筆よりは長持ちする」
山科は笑った。
俊作は笑わなかった。
つばきも笑わなかった。
新太郎は、三人の記者を見ていた。
徳富俊作は、民に知らせたい。
山科亮太は、現場で誰が泣くかを見ている。
ポール・デュランは、世界へ届く形で出来事を切り取ろうとしている。
三人とも、言葉を使う。
だが、その言葉が向かう先は違う。
民衆。
町場。
世界。
では、通訳の言葉はどこへ向かうのか。
新太郎は答えを持っていなかった。
「桐生さん」
俊作が急に真剣な声で言った。
「あなたは使節団に関わる方だ。外交には沈黙が必要かもしれません。でも、民衆にまで沈黙を強いる近代化なら、僕は反対です」
「沈黙」
新太郎はその言葉を繰り返した。
封蝋。
封鎖。
新聞。
どれも、何かを閉じたり、開いたりする。
「僕にも、まだ分かりません」
新太郎は正直に言った。
「知らせるべきことと、守るべき沈黙の違いが」
「そんなもの、見れば分かる」
山科が言った。
「現場に落ちてる。机の上には落ちてへん」
「なら、行きましょう」
つばきが言った。
「これ以上、見出しの前で立ち止まっていても、病人の顔は見えません」
その言葉に、太吉が道の先を指した。
「こっち。市場を抜けて、井戸の横を曲がる。臭いがきつくなったら近い」
「案内の言葉としては最悪だな」
影照が言った。
「でも正確だよ」
太吉は胸を張った。
ポールが速記帳を開いた。
「私も同行してよいかな」
「駄目です」
つばきが即答した。
ポールは目を丸くした。
「早い拒絶だ」
「病人を記事にするためなら駄目です」
「では、証言を守るためなら?」
つばきは答えなかった。
新太郎も答えられなかった。
俊作は悔しそうにポールを見ている。
山科は面白そうに全員を見ている。
その時だった。
坂の下から、女の声が聞こえた。
「Excuse me! Please, wait!」
英語だった。
だが、その英語には急ぎと疲労が混ざっていた。
振り向くと、一人の外国人女性がこちらへ駆けてくる。
質素な灰色のドレス。
肩掛け鞄。
栗色の髪を布でまとめ、片手に記録帳、もう片方に布袋を抱えている。
額には汗がにじみ、裾には泥が跳ねていた。
それでも、彼女は人を押しのけず、すれ違う者に小さく詫びながら走ってくる。
彼女が近づいた瞬間、港の石炭と魚の匂いの中に、別の匂いが混じった。
湿った土。
酢で拭いた布。
それから、熱のある人間の部屋にこもる、甘く重い匂い。
新太郎は、新聞の文字より先に、その匂いで現場を知った。
トムが目を丸くした。
「Miss Brown」
女はトムに気づき、ほっとしたように息をついた。
「Tom. Thank God.」
それから、彼女は新太郎たちへ向き直った。
日本語を探すように、唇が少し動く。
「すみません」
たどたどしいが、丁寧な日本語だった。
「医師が、必要です」
つばきが一歩前へ出る。
「乞食谷戸の方ですか」
女は大きく頷いた。
「はい。病の人、います。子ども、います。家族、怖がっています。新聞の人、名前を聞きます。でも」
彼女は記録帳を胸に抱えた。
その手は震えていた。
けれど、目は震えていなかった。
メアリーの「子ども、います」という言葉に、太吉の顔が変わった。
彼は号外の束を見下ろす。
そこには「病人」とは書いてある。
だが、「子ども」とは書いていない。
トムも英字新聞を胸に抱え直した。
さっきまで売っていた紙が、少しだけ重くなったようだった。
「名前を、消さないために。守るために。医師が必要です」
新太郎は息を呑んだ。
新太郎は英語で尋ねた。
「You mean, to keep their names out of the papers?」
メアリーは首を横に振った。
「No. To keep their names from disappearing.」
名前を消さないために。
見出しの中で消えた顔。
新聞の中で責められるだけの病人。
その人たちには、名前がある。
紙面に載せないためではない。
ただの病人、ただの毒気、ただの失敗として消されないために。
メアリー・ブラウンと呼ばれた女性は、泥のついた裾のまま、もう一度深く頭を下げた。
「お願いです。来てください」
つばきは新太郎を見た。
新太郎は頷いた。
喉はまだ痛む。
だが、今度は言葉を探す前に、足が動いた。
見てからでなければ、訳せない声がある。
新太郎は、ようやくそれを知り始めていた。


