乞食谷戸へ近づくほど、横浜の音は低くなった。
港では、音が高かった。
汽笛。
新聞売りの声。
外国語の怒鳴り声。
荷車の車輪。
石畳を叩く足音。
けれど、谷戸へ下りる坂道では、音が湿っていた。
ぬかるみを踏む音。
水桶の底が地面に擦れる音。
どこかの家で赤ん坊が泣く声。
それをすぐに押さえ込むような母親の声。
そして、狭い路地の奥から途切れ途切れに聞こえる咳。
有馬つばきは、思わず足を止めそうになった。
臭いが先に来た。
湿った土。
濁った井戸水。
煮え残った粥。
干しきれない布。
人の汗。
薬とも酢ともつかない匂い。
それらが狭い谷戸の底に沈み、逃げ場をなくしている。
横浜の港で感じた石炭や魚の匂いとは違う。
こちらは、暮らしが乾く場所を持たない匂いだった。
「足元、気をつけな」
太吉が先を歩きながら言った。
彼は新聞の束を脇に抱えたまま、ぬかるみを避ける石を選んで進んでいく。
道を知っている、という言葉は嘘ではなかった。
太吉は路地の角、壊れた雨樋、傾いた板塀、浅い溝の位置まで覚えている。売り歩いているだけだと市松は笑ったが、売り歩くとは、その町の濡れた場所も乾いた場所も知ることなのだと、つばきは初めて理解した。
トムは少し後ろで、英字新聞を胸に抱えたまま歩いている。
先ほどまで軽く見えた新聞の束が、彼の腕の中で重そうに見えた。
「この先」
メアリー・ブラウンが振り返った。
彼女の日本語はまだたどたどしい。
だが、声は迷っていなかった。
「人、怖がっています。新聞の人、少し、待つ」
その言葉に、徳富俊作が足を止めた。
山科亮太も、軽く眉を上げる。
ポール・デュランは速記帳を閉じた。
「私は外で待つよ」
ポールは肩をすくめる。
「拒絶されるのは、記事より先に慣れておいた方がいい」
つばきは彼を見た。
「本当に待てますか」
「マドモワゼル、私は失礼だが、愚かではない。入口で嫌われた記者に、奥の真実は見えない」
山科が笑った。
「えらい素直やな、デュランの旦那」
「泥道で転ぶ趣味はないからね」
俊作は筆記帳を握りしめたまま、悔しそうに息を吐いた。
「僕も、ここで待ちます」
言葉を絞り出すようだった。
「ただ、必要な時は呼んでください。記録が要るなら、書きます」
メアリーは彼を見て、小さく頷いた。
「名前、守るなら。お願い、します」
俊作の表情が変わった。
記事を書く者ではなく、記録を預かる者として呼ばれたからだ。
太吉は少し迷い、新聞の束を佐吉に預けた。
「俺、案内だけ」
「売らないのか」
佐吉が聞く。
「あとで売る」
太吉は少し小さな声で言った。
「今は、売りにくい」
トムも英字新聞を胸に抱えたまま、何も言わずに太吉の隣へ並んだ。
つばきはその二人を見て、胸の奥が少し痛んだ。
見出しの下にいる子どもたち。
その言葉を自分で言ったばかりなのに、彼らが本当にそこに立っているのを見ると、言葉は急に重くなる。
太吉は、佐吉に預けた号外をちらりと見た。
紙の上には、まだ大きな字で「病人」とある。
けれど、これから入る路地の奥には、その文字の下に隠れた名前があるのかもしれない。
太吉は、もうその文字を前と同じ声では叫べない気がしていた。
トムは胸に抱えた英字新聞の見出しを、指で押さえた。
Settlement warning.
その下に、まだ誰の名前もない。
「行きましょう」
メアリーが言った。
路地の奥に、小さな建物があった。
診療所、と呼ぶにはあまりに粗末だった。
もとは長屋の一部だったのだろう。戸板を外して入口を広げ、軒先に白い布をかけ、土間に板を敷いただけの場所だ。だが、入口の横には水桶が二つ置かれ、片方には灰汁を混ぜた水、もう片方には澄んだ水が入っている。
干された布が、低い竿に何枚もかかっていた。
どれも白くはない。
洗っても落ちない生活の色が残っている。
それでも、汚れた布と洗った布は、きちんと分けられていた。
「ここから先」
メアリーが言った。
「手、洗います」
つばきは頷き、すぐに袖を上げようとした。
その時、建物の中から静かな声がした。
「待ちなさい」
強い声ではなかった。
怒鳴り声でもない。
けれど、その場の全員の動きが止まった。
入口の奥に、一人の女性が立っていた。
小柄な人だった。
藍色の実用的な着物に、清潔な白い前掛け。黒髪は邪魔にならないようきっちりまとめられ、袖口は折り上げられている。顔立ちは柔らかいが、目だけが鋭い。
その目は、つばきの手元を見ていた。
「そのまま袖を上げては駄目」
つばきは思わず手を止めた。
「すみません」
「謝る前に、何に触ったか思い出しなさい」
女性は一歩近づいた。
声は落ち着いている。
だが、言葉に無駄がない。
「新聞。新聞を持った桐生さんの袖。港の手すり。外套の紐。泥。新聞売りの子の肩。今、その手で髪や袖に触れれば、汚れを広げます」
つばきは、自分の手を見た。
白いつもりだった。
綺麗なつもりだった。
だが、そう言われた瞬間、指先が急に見知らぬものに見えた。
「中原佳乃さん」
メアリーが言った。
「来て、くれました」
佳乃と呼ばれた女性は、新太郎たちへ短く目を向けた。
「中原佳乃です。医師です」
その名乗りは、静かだった。
だが、つばきはその一語に力を感じた。
医師です。
女性がそう名乗ることが、どれほどの壁を越える言葉なのか。
つばきには、まだすべては分からない。
けれど、分からないままでも、その言葉の背筋の伸び方だけは分かった。
「有馬つばきです。手伝わせてください」
つばきはすぐに言った。
佳乃は彼女を見た。
「何を?」
「病人の方を」
「どうやって?」
つばきは言葉に詰まった。
どうやって。
その問いは、思ったより重かった。
「布を運ぶとか、水を」
「水をどちらへ運ぶのですか。誰の布を、どこへ。清潔なものと汚れたものの置き場は分かりますか。患者の近くへ行く前に、あなたの手は洗われていますか」
佳乃の声は責めていない。
ただ、順番を確認している。
それが、つばきには逆にこたえた。
助けたい気持ちだけでは、何も決まらない。
むしろ、手順を知らない善意は、邪魔になる。
つばきは、自分が恥ずかしかった。
女も学ぶべきだと、何度も言ってきた。
学問は現実に出ていくものだとも思ってきた。
けれど、現実の前に立った今、自分は水桶一つ正しく扱えない。
その事実は、誰かに笑われるよりもずっと痛かった。
「……分かりません」
つばきは正直に言った。
佳乃は小さく頷いた。
「では、そこから始めます」
彼女は水桶を指した。
「助けたいなら、まず手を洗いなさい。清潔は、祈りより確かな防壁です」
メアリーが隣で、小さく頷いた。
「祈りましょう。でも、その前に手を洗いましょう」
つばきは返事をし、桶の前に膝をついた。
水は冷たかった。
冷たいだけではない。
灰汁のぬるりとした感触が指の間に入り、爪の際に残った泥を浮かせる。メアリーが布を渡し、佳乃が短く指示する。
「指の間。爪。手首。袖口に水を飛ばさない」
つばきは言われた通りにした。
ただ手を洗うだけのことが、これほど難しいとは思わなかった。
雑にこすれば水が跳ねる。
袖が落ちれば、また汚れる。
布を置く場所を間違えれば、洗った手で汚れを戻す。
清潔とは、綺麗に見えることではない。
汚れの道を断つことなのだ。
つばきは、そのことを指先で知った。
見出しは、一瞬で人の心に触れる。
けれど、触れたあとに何を広げるのか、誰も確かめない。
手も同じだ。
触れれば、何かを広げる。
だから、洗わなければならない。
言葉にも、手洗いのような作法が必要なのかもしれない。
「次」
佳乃が言う。
「口覆いを作ります。使える布はありますか」
つばきは一瞬、外套の下に手を入れた。
母から譲られた帯。
今日は動きやすいように締めてきた、椿色の細い帯だった。母が、横浜へ戻るなら身だしなみを崩しすぎないようにと選んでくれたものだ。
母はこの帯を、娘が人前で恥をかかぬようにと選んでくれた。
その優しさを裂くようで、一瞬だけ指が止まった。
飾りではない。
そう思った。
工房で濡れ布を配った時にも、同じことを思った。
恥をかかないための布なら、今ここで誰かの息を守る布になった方がいい。
つばきは帯の端を掴んだ。
「これを」
新太郎が少し驚いた顔をする。
「つばきさん、それは」
「飾りではありません」
つばきは短く言った。
「人を救うために使います」
佳乃の目が、ほんの少しだけ変わった。
認めた、というほど柔らかくはない。
だが、見ている目だった。
つばきは懐の小刀で帯の端を裂いた。
絹が裂ける音は、小さかった。
けれど、彼女の胸には大きく響いた。
メアリーが裂いた布を受け取り、手早く折る。
「ここ、結ぶ。口、鼻、覆う」
「はい」
「強くしすぎない。息、できます」
「はい」
つばきは自分の口覆いを結び、次に太吉とトムの分も作った。
太吉は受け取って、少し困った顔をした。
「俺も?」
「あなたも」
つばきが言う。
「案内してくれるのでしょう」
「うん」
「なら、あなたも守る側です」
太吉は何か言おうとして、やめた。
それから布を受け取り、乱暴に結ぼうとしてメアリーに止められた。
「ゆっくり。息、する」
「息くらいできるよ」
「できなくなる結び方、あります」
太吉は素直に手を下ろした。
トムは布を受け取り、小さく言った。
「Thank you.」
「どういたしまして」
つばきは答えた。
その時、診療所の奥から子どもの咳が聞こえた。
太吉の顔が変わった。
さっきまで号外を売っていた声とは違う、年相応の顔だった。
「あれ、誰」
彼が小さく聞く。
メアリーは記録帳を開いた。
「名、聞きます」
彼女は診療所の中へ入り、膝をついた。
奥の板敷きには、薄い布団が三つ敷かれている。
それぞれの間には、縄と布で簡単な区切りが作られていた。
片隅には、咳き込む女。
別の布団には、額に布を乗せた老人。
そして入口に近い布団には、小さな男の子が母親に抱かれていた。
男の子は泣きそうな顔で、けれど泣く力も惜しいように息をしている。
つばきは思わず一歩出た。
佳乃の手が、横から静かに彼女を止めた。
「動線」
それだけだった。
つばきは息を止めた。
入口。
水桶。
清潔な布。
汚れた布。
患者の布団。
家族の座る場所。
自分が一歩間違えれば、何かを踏み越える。
「すみません」
「謝るより、見なさい」
佳乃は言った。
「医療では、見ない善意が一番危ない」
つばきは頷いた。
メアリーは男の子の前に膝をつき、目の高さを合わせた。
「名前、教えてください」
男の子は母親の胸に顔を押しつけた。
母親は警戒した目でメアリーを見ている。
「名前なんか書いて、どうするんだい」
声はかすれていた。
新太郎が、メアリーの隣へ屈んだ。
メアリーが英語で短く言う。
「Please tell her. I write names so no one becomes only a number.」
新太郎は訳そうとして、少し詰まった。
number。
番号。
だが、母親に「番号」と言っても届かない気がした。
メアリーの言葉をそのまま置き換えるだけでは足りない。
新太郎は、男の子と母親を見た。
「この方は」
声はまだ少しかすれている。
それでも、新太郎は丁寧に言った。
「お子さんを、ただの病人として扱わないために、お名前を聞いています。誰が、どこで、どんなふうに苦しんでいるのか。名前がなければ、後で確かめることも、助けを届けることもできません」
母親の目が少し揺れた。
「名前を書いたら、役人に連れていかれないかい」
新太郎は言葉に詰まった。
答えられない。
役所が封鎖を検討している。
新聞が騒いでいる。
名前を書くことが、本当に守ることだけになるのか。
ご安心ください、と言いかけて、新太郎は止まった。
安心など、どこにもない。
役所が何をするか、自分は知らない。
知らないことを、通訳の声で包んではいけない。
その迷いを、メアリーは見逃さなかった。
彼女は新太郎の袖を軽く引き、英語で言った。
「Do not promise what we cannot promise.」
約束できないことを、約束してはいけない。
新太郎は息を吸った。
「連れていかれないとは、今ここで僕には言えません」
母親の顔が硬くなる。
新太郎は続けた。
「でも、名前を聞かないままなら、その子が誰なのか、誰も守れません。名前を聞いた人間が、その名前を勝手に売らないよう、ここにいる人たちで守ります」
つばきはその言葉を聞いて、胸が締めつけられた。
見出しの下にいる人。
名前を守るとは、その人を紙に載せることでも、隠して消すことでもない。
誰かが責任を持って呼び続けることなのだ。
母親は長い沈黙の後、男の子の髪を撫でた。
「松吉」
メアリーがゆっくり繰り返す。
「まつ、きち」
「松吉」
新太郎が助ける。
メアリーは記録帳に丁寧に書いた。
松吉。
その文字を見た時、太吉が入口で小さく息を呑んだ。
似た年頃なのだ。
号外の「病人」という二文字の下に、松吉という名前がある。
佳乃はその間に、男の子のそばへ膝をついていた。
患者の前に膝をつくことを、彼女はためらわなかった。
着物の裾が板敷きに触れる。
白い前掛けの端が少し汚れる。
だが、佳乃の目は男の子の呼吸を見ていた。
「松吉さん」
佳乃は名前で呼んだ。
それから母親を見た。
「お母さんの手は、そのままでいいです。松吉さんが安心します。ただし、私が触れるところだけ、少し空けてください」
母親は戸惑いながらも頷いた。
「口を少し開けられますか」
男の子は怯えた目をした。
佳乃の声は柔らかくなった。
「痛いことは、先に言います。何も言わずに触りません」
男の子は母親の袖を握ったまま、少しだけ口を開けた。
佳乃は手早く、しかし乱暴ではなく、額、喉、脈、呼吸を確認した。
その動きに、つばきは見入った。
無駄がない。
けれど、冷たくない。
必要なことだけをしているのに、患者を物のようには扱っていない。
そこへ、奥から硬い声がした。
「中原医師、井戸水の聞き取りを終えました」
振り向くと、細身の男性が立っていた。
黒髪を短く整え、端正な和装に清潔な白い手拭いを持っている。目は細く鋭く、表情にはほとんど無駄がない。
片手には症例ノート。
もう片方には、薬品ケース。
「片桐玄瑞です」
彼は短く名乗った。
「医務調査に関わっています。ここでは診療と記録を手伝っています」
つばきが頭を下げると、片桐はすぐに佳乃へ向き直った。
片桐の言葉には、熱がなかった。
だが、冷たさでもなかった。
火を消すために、水の温度を語るような声だった。
必要なことを、必要な順番で並べる声。
「発症者は今のところ五名。重い咳が三名、発熱が四名、腹を下している者が二名。井戸は谷戸の下手に一つ、上手に一つ。下手の井戸は昨日から濁りがあるとのこと。食事は粥と干魚が中心。寝床は三家族が隣り合っています。接触者は、家族、井戸の水汲み、昨日の市場の煮売り屋」
言葉が順番に並ぶ。
症状。
井戸。
食事。
寝床。
接触者。
つばきは、新聞の見出しとまるで違うと思った。
見出しは一つの言葉で人々を動かす。
片桐の記録は、一つずつ確かめることで人を守ろうとしている。
「根拠はありますか」
片桐が新太郎を見る。
新太郎は驚いた。
「僕ですか」
「英字新聞では日本の衛生失敗と書かれている。日本語新聞では居留地由来の毒気と書かれている。どちらかをこの場で口にするなら、根拠が必要です」
新太郎は黙った。
「今のところ、どちらも見出しです」
片桐は言った。
「診断ではありません」
佳乃は小さく頷いた。
「決めつけないで。診る前に決めつけないこと」
彼女は松吉の母親へ向き直る。
「昨夜、何を食べましたか。水はどちらの井戸から?」
母親が答える。
言葉は早く、ところどころ方言が混じる。
新太郎はそれを聞き取り、メアリーへ英語で伝え、片桐へ要点を返し、佳乃の問いをまた母親へ戻した。
途中で、医学の言葉が引っかかる。
「接触……接触者、というのは」
「同じ水、同じ寝床、同じ食事、近い咳」
佳乃が短く補う。
新太郎は頷き、母親へ言い換えた。
「同じ井戸を使った人、同じ部屋で寝た人、同じものを食べた人、近くで咳を浴びた人を教えてください」
母親は少しずつ答えた。
メアリーが名前を書いていく。
片桐が症例ノートへ線を引く。
佳乃が患者を診る。
つばきは、その場で何もできない自分を痛感した。
知りたいと願ってきた。
外へ出たいと願ってきた。
けれど、外へ出た先で必要なのは、願いの大きさではなかった。
今は、どの布をどちらへ置くか。
その小さな正確さを、間違えないことだった。
けれど、ただ見ているだけではいけない。
彼女は水桶の横へ戻り、メアリーが使った布の置き場を確かめた。
「これは、こちらでよいですか」
佳乃が一瞬だけ見る。
「汚れた布。そちら」
「これは」
「まだ使える。清潔側。床につけない」
つばきは頷いた。
布を運ぶ。
水を替える。
子どもが近づきすぎないように声をかける。
手を洗う。
また布を運ぶ。
それだけのことが、さっきまでの議論よりはるかに難しい。
しばらくして、つばきの額に汗がにじんだ。
前掛けの代わりに結んだ布が少しずれる。
指先は水で冷え、裂いた帯の端が湿って重くなっていた。
それでも、手を止めたいとは思わなかった。
「有馬さん」
メアリーが呼んだ。
彼女は入口のそばに座る少女の前にいた。
少女は泣きそうな顔で、手の中の小さな布人形を握っている。
「この子、名前、言えません。怖い」
つばきは少女の前に膝をついた。
佳乃の「動線」という声が頭に残っている。
だから、近づきすぎず、触れすぎず、目線だけを合わせた。
「私は、つばきです」
少女は黙っている。
「あなたのお人形さんは、お名前がありますか」
少女の目が少し動いた。
「……おはな」
「おはなさん」
つばきは真面目に頷いた。
「では、おはなさんの隣にいるあなたのお名前も、教えていただけますか」
少女は長い時間をかけて、口を開いた。
「とめ」
「とめさん」
メアリーが柔らかく繰り返した。
「記録に残します」
とめ。
その名が記録帳に書かれる。
つばきは、胸の奥で何かが静かに熱くなるのを感じた。
名前を書く。
ただそれだけの行為が、こんなにも人をこの場所へ繋ぎ止める。
新聞の見出しとは違う。
これは、人を消さないための文字だった。
その時、片桐が診療所の片隅へ目を向けた。
「中原医師」
彼の声が少し低くなった。
佳乃もそちらを見る。
そこには、木箱が置かれていた。
粗末な診療所には不釣り合いなほど、しっかりした作りの薬箱だった。角は金具で補強され、蓋にはフランス語と日本語が併記されている。
Fondation Charitable d'Orient
東方慈善医療基金
つばきは、その文字を読めなかった。
だが新太郎が小さく息を呑んだのが分かった。
「東方慈善医療基金」
新太郎が訳す。
メアリーが頷いた。
「最近、届きました。薬、包帯、少し。貧しい場所へ、助けるため」
箱の蓋には、小さな紋章が焼きつけられていた。
百合の花。
それに、十字を組み合わせた形。
白い花と十字。
清らかで、慈悲深い印に見える。
だが、つばきはなぜか、港の倉庫で布の下に隠れていた木箱を思い出した。
フランス語らしい荷札。
見せてもらえなかった別口の荷。
昼と夜で札が変わる港。
佳乃は薬箱を開けた。
消毒液の匂いに混じって、どこかで嗅いだ甘さが一瞬だけ鼻をかすめた。
だが次の瞬間には、酢と薬と湿った布の匂いに消えた。
中身を一つずつ確認する。
薬瓶。
包帯。
消毒用の液。
小さな紙包み。
「薬そのものに、今すぐ不審な点はありません」
佳乃は言った。
その声は冷静だった。
「使えるものは使います。患者の前で、善意の由来だけを疑って薬を捨てる余裕はありません」
佳乃は箱の蓋を押さえたまま続けた。
「疑うために捨てるのではありません。使いながら、記録します」
片桐は頷いた。
「同意します」
彼は症例ノートの端へ、薬箱の紋章を写し始めた。
百合と十字。
細い線で、正確に。
「片桐先生」
新太郎が聞く。
「それは」
「記録です」
片桐は筆を止めずに答えた。
「薬に罪はない。だが、善意の荷ほど、誰が配ったかを記録しておくべきです」
「後で確かめるために」
その言葉に、診療所の空気が少しだけ冷えた気がした。
新太郎は赤い封蝋の警告を思い出した。
封はまだ開いていない。
だが、善意という名の箱は、すでにここで開かれている。
つばきは裂いた帯の端を握った。
綺麗な手のままでは、誰も救えない。
けれど、汚れた手で何かに触れれば、傷を広げることもある。
言葉も同じかもしれない。
触れなければ届かない。
だが、手順を知らずに触れれば、恐れや憎しみを広げてしまう。
学ぶとは、ただ前へ進むことではない。
どこで止まり、どこで洗い、何を記録し、誰の名前を呼ぶのか。
その一つ一つを、間違えないように覚えることなのだ。
診療所の外では、まだ新聞売りの声が遠く聞こえていた。
けれど、つばきの耳には今、松吉ととめの咳と、メアリーの記録帳を走るペンの音の方が大きく聞こえていた。


