薬箱にも、旅の跡がある。
片桐玄瑞はそう言っていた。
診療所の片隅に置かれていた木箱は、ただそこに現れたわけではない。
どこかの港で船から下ろされ、どこかの帳場で名を写され、どこかの人足の肩に担がれ、どこかの荷車に載せられて、あの湿った診療所まで来た。
人と同じだ。
名前があれば、足取りを追える。
名前が消えれば、どこから来たのかも、誰が運んだのかも分からなくなる。
桐生新太郎は、片桐が写し取った百合十字の紋章を、何度も見返した。
紙片の上に細く描かれた百合の花。
その花を貫くような小さな十字。
診療所では清らかに見えた印が、港の空気の中では少し違って見える。
白いものは、煤の中ではかえって目立つ。
だが、目立つからといって、正しいとは限らない。
「桐生さん」
つばきの声で、新太郎は顔を上げた。
診療所を出た後、彼らは一度、谷戸の入口で手と履物を洗った。
メアリーは最後まで患者の名を記録し、佳乃は松吉の母親に水の煮立て方を繰り返し説明していた。片桐は、薬箱の荷札の写しを新太郎へ渡した。
「港へ戻るなら、これを」
そう言って差し出された紙には、英字と数字が細かく並んでいた。
Fondation Charitable d'Orient
Medical Relief Goods
Yokohama Wharf No. 3
そして、末尾に小さく、L-17 と書かれている。
「この L-17 というのは」
新太郎が尋ねると、片桐は短く答えた。
「荷札番号でしょう。港の帳簿に残っているはずです」
「帳簿に」
「残っていれば、です」
片桐の言い方は、いつも通り冷静だった。
だが、その冷静さの中に、残っていないこともある、という含みがあった。
新太郎はその紙を懐にしまい、港へ戻ってきた。
日は傾きかけている。
横浜の港は、朝とは別の顔をしていた。
朝の港は、声が高い。
汽笛、新聞売り、荷車の軋み、英語や中国語や日本語が、互いに相手を押しのけるように飛び交う。
夕方の港は、声が低い。
縄を引く音。
樽を置く音。
水面に船腹が当たる音。
帳場の奥で、筆が紙を擦る音。
そして、必要以上のことを言わない男たちの沈黙。
新太郎は、その沈黙の方が怖いと思った。
「港は」
つばきが低く言った。
「朝より静かなのに、朝より見られている気がします」
彼女の帯は、診療所で裂いたため、形が少し崩れていた。
母が選んだ椿色の帯は、もう飾りとしての整いを失っている。
だが、その端で作った口覆いが太吉とトムの顔を守っていたことを、新太郎は知っている。
つばき自身も、それを隠そうとはしていなかった。
「見られているのではなく」
義経が背後で言った。
「値踏みされている」
その言葉は短かった。
義経は港に戻ってから、ほとんど喋っていない。
だが、彼の手はいつも刀の届く位置にある。
工房の火の中で拾った黒い布の切れ端は、まだ懐にあるのだろう。
彼は時々、懐のあたりへ指を添える。
その時だけ、足音がほんの少し重くなる。
「値踏みか」
影照が鼻で笑った。
彼の右手には、まだ薄い布が巻かれている。
火傷はひどくはないらしい。
だが、包帯の端を触るたびに眉間へ皺が寄る。
「荷も人も、値がつく場所ってわけだ」
「影照さん」
「分かってる。怒鳴らない。触らない。勝手に開けない」
影照は先に言った。
「だが、叩くくらいはする」
「叩くのも、勝手には駄目です」
つばきがすぐに返す。
影照は少し面白そうに彼女を見た。
「診療所帰りの嬢さんは、手順に厳しいな」
「手順を間違えると、人が苦しみます」
つばきの声は硬かった。
診療所では、清潔な布と汚れた布を分けた。
港では、表の荷と裏の荷を分けている。
けれど、どちらも分け方を間違えれば、人が傷つく。
つばきは、裂けた帯の端を外套の下で握った。
手順とは、誰かを遠ざけるためのものではない。
守るための順番なのだ。
影照は笑いかけて、やめた。
「……そうだな」
その一言には、工房の火の匂いが残っていた。
佐吉は、第三埠頭の近くで彼らを待っていた。
肩にはいつもの荷縄。
だが今日は、縄を肩にかけているというより、何かを背負っているように見えた。
「若先生」
佐吉は新太郎の顔を見るなり、眉を寄せた。
「診療所へ行ったんだってな」
「はい」
「あそこへ行った足で、すぐ港の帳場か」
「薬箱の荷札を調べたいんです」
新太郎は片桐から受け取った紙を見せた。
佐吉は紙を一目見て、唇を結んだ。
「百合と十字か」
「見覚えがあるんですね」
つばきが一歩前へ出る。
佐吉は答えなかった。
その沈黙が、答えのようでもあった。
「お嬢さん」
佐吉はゆっくり言った。
「港の荷札を読むってのは、寺子屋の手習いとは違う。字が読めりゃ分かるってもんじゃねえ」
「では、何を読めばよいのですか」
「誰が黙るか」
佐吉は言った。
「荷札を見た時、誰が目を逸らすか。帳場で、どの行だけ筆が止まるか。重い荷を軽い顔で運ばせる奴が誰か。そういうものを読む」
新太郎は胸の内で、その言葉を受け止めた。
英字を読む。
日本語へ訳す。
それだけでは、足りない。
帳簿にも、沈黙にも、訳さなければならないものがある。
「佐吉さん」
新太郎は言った。
「帳場を見せてもらえませんか」
「俺が見せるもんじゃねえ」
「でも、案内はできますよね」
佐吉は新太郎を見た。
少しだけ、口元が動いた。
「若先生、港の言い方を覚えてきたな」
「教えたのは佐吉さんです」
「余計なことを教えちまった」
佐吉はそう言って、顎で倉庫の方を示した。
帳場は、倉庫の脇にあった。
畳二枚ほどの小さな板間に、帳面、墨壺、算盤、印箱が並んでいる。壁には船名を書いた札が吊られ、今日下ろされた荷の番号が墨で書き足されていた。
帳場の男は、佐吉を見ると目を細めた。
「また面倒を連れてきたな」
「面倒じゃねえ。使節団の関係だ」
「それが一番面倒だ」
男はぼやきながらも、佐吉の顔を立てるように帳面を開いた。
「L-17」
新太郎が言うと、男の筆が一瞬止まった。
佐吉の言葉を思い出す。
どの行だけ筆が止まるか。
つばきも気づいたらしい。
彼女は口を開きかけたが、何も言わなかった。
診療所で覚えた、動線を乱さないための沈黙だった。
「L-17 は」
帳場の男は帳面をめくった。
「医療品だ。東方慈善医療基金。包帯、消毒液、薬瓶、布」
「送り主は」
「基金」
「それを港へ持ち込んだ商館は」
男はまた筆を止めた。
佐吉が低く咳払いをする。
男は面倒そうに、帳面の端を指で押さえた。
「協力商館の名は、ここには書いてある」
「読ませてください」
「若先生、字が読めるなら分かるだろう。読める字ほど、声に出すと厄介なことがある」
新太郎は帳面を覗き込んだ。
英字は細く、急いで書かれている。
Grant & W.
最後の文字は、墨がにじんで判然としない。
ただ滲んでいるのではなかった。
上から墨を重ね、わざと読みにくくしたようにも見える。
W。
商館名か。
人名か。
それとも、読ませてはいけない誰かの頭文字か。
グラント。
新太郎の脳裏に、第1章で影のように聞いた名が浮かぶ。
イーサン・グラント。
陽気な笑い声。
葉巻の赤い火。
そして、封蝋と印章を丁寧に扱う指先。
「グラント」
影照が低く呟いた。
彼の目つきが変わった。
「影照さん、知っているんですか」
つばきが聞く。
「知っている、というほどでもない」
影照は包帯の巻かれた手を握った。
「だが、あの男の荷は、いつも中身より札が綺麗だ」
帳場の男は、聞こえないふりをした。
聞こえないふりが、あまりに上手かった。
「L-17 は診療所へ行った薬箱ですね」
新太郎は言った。
「ほかに同じ印の荷はありますか」
「同じ印?」
「百合と十字です」
帳場の男は、帳面を閉じかけた。
その時、外から市松の声がした。
「あるよ」
「市松」
佐吉の声が低くなる。
市松は倉庫の柱の陰から顔を出した。
首に赤い手拭いを巻き、いつものように笑っている。
だが、その笑いは長く続かなかった。
「同じ印の箱、夜中に見た」
「黙ってろ」
佐吉が言う。
「余計なことを言うな」
「でも佐吉おじ、病人の薬の箱だろ」
「薬なら、役人が見る。商館が見る。俺たちが口を出すもんじゃねえ」
「役人が見ない夜に運んでた」
市松の声は、少しだけ震えていた。
その震えで、新太郎は分かった。
市松は、口が軽いだけではない。
怖いから笑っているのだ。
「俺、荷を運ぶのが好きなわけじゃねえよ」
市松は小さく言った。
「でも、港で働けなくなったら、ほかに行く場所がない。黙って運べば一日食える。余計なことを聞けば、次の日から誰も声をかけてくれねえ」
彼は笑おうとして、失敗した。
「だから、笑ってたんだよ。怖くねえみたいに」
「市松さん」
新太郎は静かに呼んだ。
「何を見たんですか」
市松は佐吉を見た。
佐吉は目を逸らさなかった。
止めたい。
だが、完全には止められない。
そんな目だった。
「百合十字の箱だよ」
市松は小声で言った。
「昨日の夜、第三倉から奥の倉へ移した。荷札は医療品。けど、持ったら変だった」
「変」
影照が反応する。
「重さか」
市松は頷いた。
「包帯とか薬瓶って札なのに、やけに重い。しかも、揺すっても音がしねえ。薬瓶なら、少しくらい鳴るだろ。布なら、あんなに沈まねえ」
影照の目が鋭くなった。
「中身を固定しているか、箱の底が二重か」
「また始まった」
つばきが呟く。
だが、止めなかった。
今は影照の知識が必要だと分かっている。
「どれですか」
新太郎が聞くと、市松は倉庫の奥を指した。
前に見た、布をかけられていた別口の荷。
そのさらに奥に、同じ大きさの木箱が三つ並んでいる。
布はかけられていない。
むしろ、見られても困らないと言いたげに、白い荷札が正面へ向けられていた。
Medical Supplies
Bandages
Disinfectant
Relief Goods
新太郎は英字を読んだ。
どの言葉も、診療所では救いの言葉に見えた。
だが今は、少し違う。
言葉が綺麗すぎる。
綺麗な言葉ほど、その下に何を隠すか分からない。
「開けられますか」
つばきが言う。
佐吉が首を振った。
「駄目だ。封がある」
箱の横には、封蝋ではなく、白い紙の封が貼られていた。
そこにも、百合十字の小さな印。
紙は新しく、角がまだ浮いていない。
「赤ではないのですね」
新太郎は言った。
「赤い封は別だ」
市松が思わず言った。
佐吉が振り向く。
市松は口を閉じた。
だが、もう遅かった。
「赤い封?」
義経の声が低くなる。
市松は目を泳がせた。
「いや、俺は」
「市松」
佐吉が強く言った。
「これ以上は、飯の種がなくなる話だ」
つばきが佐吉を見た。
「飯の種」
「お嬢さん」
佐吉は苦い顔をした。
「俺たちは、正しいことだけで飯を食ってるわけじゃねえ。荷を運ぶ。札を信じる。口を閉じる。そうしなきゃ、明日から仕事がなくなる」
佐吉の目が、倉庫の奥ではなく、もっと遠い場所を見た。
「昔、一度だけ、妙な荷を黙って運んだ。中身は知らねえ。知らねえままで済むと思った」
彼はそこで言葉を切った。
「でも、知らねえままで済まねえこともある」
「でも、その荷が病人を苦しめるものだったら」
「だから困ってる」
佐吉の声が荒くなった。
彼はすぐにそれを抑えた。
「俺だって、あの谷戸に親戚がいる。水を汲む子どもも知ってる。だが、港で働く奴は、聞いちゃならねえ音を聞かないふりしなきゃ生きられねえ時がある」
つばきは言葉を失った。
診療所では、手順を知らない善意が危ないと学んだ。
港では、真実を言うだけで誰かの飯を奪うことがある。
新太郎は、佐吉の言葉を訳せないと思った。
英語へでも、日本語へでもない。
ただ、胸の中で受け止めるしかない種類の言葉だった。
その時だった。
倉庫の外の空気が、ふっと変わった。
人足たちの声が止まる。
荷車を押す男が、車輪を少し引いた。
帳場の男が、筆を置いた。
人足だけではない。
帳場の男も、番人も、外国商館の手代も、同じように一瞬だけ口を閉じた。
恐れている者もいる。
頼っている者もいる。
どちらも、同じ顔で道を空ける。
誰かが命じたわけではない。
ただ、道が開いた。
倉庫の入口に、大柄な男が立っていた。
六尺はあろうかという体。
質のよい羽織。
日焼けした肌。
太い眉と、整えた口髭。
手には大ぶりの煙管。
笑っているように見える。
だが、その目は笑っていなかった。
「佐吉」
男は低く言った。
「俺の港で、若い衆に冷や汗をかかせてるのは誰だ」
佐吉は深くは頭を下げない。
だが、肩の力を少し落とした。
「国定の親分」
新太郎はその名を聞いた。
国定龍之助。
港の表と裏の境目にいる男。
その名だけは、菊乃の紙片や港の噂の端で聞いたことがある。
法の外にいる。
だが、港の者が無視できない。
そういう種類の名前だった。
国定龍之助という名は、港ではそれだけの重さを持っていた。
龍之助は新太郎を見た。
「お前さんが、若先生か」
「桐生新太郎です」
「名乗りが固えな」
龍之助は煙管を肩に当てた。
「港でそれじゃ、魚にも笑われる」
「笑われるのは、慣れています」
新太郎は思わず答えた。
つばきが横で少し目を丸くした。
龍之助は一瞬だけ、面白そうに笑った。
「ほう」
「ですが、今日は笑われに来たのではありません」
「じゃあ何に来た」
「荷札を読み来ました」
龍之助は声を立てて笑った。
倉庫の空気が少し揺れる。
「荷札を読む、か。若先生、世の中は綺麗な言葉だけじゃ渡れねえ。まして港は、表の言葉だけじゃ足を滑らせる」
龍之助は煙管で、近くの木箱を示した。
「じゃあ若先生。あの荷札を読んでみな」
新太郎は目を細めた。
荷札には英字で Tea Leaves とある。
「茶葉、とあります」
「それは字だ。荷札を読めと言った」
新太郎は箱を見直した。
茶葉にしては、底の沈み方が重い。
縄の結びが新しい。
箱を担いだらしい人足の肩に、黒い粉がついている。
茶の匂いは薄い。
代わりに、油と鉄に近い匂いがした。
「……茶葉と呼ばせたい荷、です」
龍之助は、そこで初めて少しだけ笑った。
「半分読めた」
「それでも」
新太郎は言った。
「読まなければ、診療所へ届いた薬箱がどこから来たのか分かりません」
「薬箱」
龍之助の目が、ほんのわずか細くなった。
「乞食谷戸か」
「はい」
「病人は」
その問いは、思ったより短かった。
ただの情報ではない。
知っている者を案じる声だった。
「松吉という男の子がいます。とめという女の子も。ほかにも」
新太郎はそこまで言って、口を閉じた。
名前を、勝手に売らない。
診療所で自分が言ったことだ。
龍之助はその沈黙を見た。
そして、少しだけ顎を引いた。
「名前を飲み込んだな」
「守ると約束しました」
「約束か」
龍之助は煙管を指で回した。
「悪くねえ」
つばきが一歩前へ出た。
「国定さん」
「嬢ちゃん」
龍之助が言いかけた瞬間、つばきの目が鋭くなった。
龍之助は言葉を止めた。
「……有馬のお嬢さん、か」
「つばきで構いません」
「構わねえかどうかは、こっちが決めるもんでもねえな」
龍之助は少しだけ口元を緩めた。
「で、つばきさん。何が聞きたい」
「病人のための薬が、商売や陰謀に使われているのなら、私は許せません」
つばきの声は、診療所の水桶の前で聞いた時よりも熱かった。
だが、ただの怒りではない。
手を洗い、布を分け、名前を聞いた後の怒りだった。
つばきの脳裏に、松吉の荒い息が浮かんだ。
とめが握っていた布人形の名も。
薬箱は、あの子たちのもとへ届くべきものだった。
もしその名を借りて別の荷を隠しているのなら。
怒りが、喉の奥まで上がってきた。
「薬は、人を助けるためにあるはずです。清潔な布も、消毒液も、名前を記録する帳面も。誰かを縛るためではありません」
龍之助は黙って聞いていた。
茶化さなかった。
そのことで、新太郎はこの男がただの荒くれではないと感じた。
「医療品ならありがてえ」
龍之助はゆっくり言った。
「だが、人の命を包んだ荷なら話は別だ」
彼は煙管の灰を落とした。
「俺は人助けのために港を仕切ってるわけじゃねえ。筋が通らねえ荷は、後で面倒を呼ぶ。俺は面倒が嫌いなだけだ」
倉庫の中で、誰も動かなかった。
その言葉は、木箱の上に置かれた重石のようだった。
「親分」
佐吉が低く言う。
「この荷は、あんたの筋ですか」
龍之助は佐吉を見た。
「俺の港に入った荷だ。知らねえとは言わねえ」
「中身は」
「見ていねえ」
その答えに、つばきの眉が動いた。
龍之助は彼女を見る。
「怒るな。怒るなら、まず順番だ」
「順番」
「お前さん、診療所で何か習ってきた顔をしている。なら分かるだろ。見たいから開ける。怪しいから騒ぐ。それじゃ、悪い荷を運んだ奴だけじゃなく、明日薬を待ってる患者まで巻き込む」
つばきは唇を噛んだ。
佳乃の声が、彼女の中で響いたのかもしれない。
見ない善意が危ない。
そして、順番を誤る正義も危ない。
診る前に決めつけないで。
港と診療所。
汚れの種類は違う。
けれど、先に決めつければ見落とすものがあるという点では、同じだった。
「では、どうするのですか」
つばきは聞いた。
「まず、開けずに読む」
龍之助は言った。
「荷札、重さ、運んだ時刻、誰の手から誰の手へ渡ったか。封を破るのは、その後だ」
影照が低く笑った。
「気に入った」
「お前さんは」
龍之助が影照を見る。
「目が危ねえな」
「よく言われる」
「手も怪我している」
「火傷だ」
「火傷した手で箱を叩くな。音が鈍る」
影照は目を瞬いた。
それから、少し悔しそうに黙った。
義経が一歩、龍之助の視界へ入った。
龍之助の目が、今度は義経の腰へ下りる。
刀。
鞘。
立ち方。
足の置き方。
「そちらの旦那は、抜く前から抜いた後のことを考えてる」
龍之助が言った。
義経は答えない。
「筋の通った侍だ」
その一言で、倉庫の空気が少し緊張した。
義経の目が細くなる。
「俺は、今は護衛だ」
「昔の名を捨てたわけじゃねえだろ」
「捨てられるものなら、とっくに捨てている」
龍之助は煙管を口元へ運びかけ、やめた。
「いい返しだ」
義経はまだ警戒を解かない。
だが、敵を見る目ではなくなっていた。
その時、新太郎は一つの名を思い出した。
菊乃。
第1章で現れた女。
第2章の終わりに「横浜へ戻れ」と紙片を寄越した影。
彼女なら、この男を知っているかもしれない。
「国定さん」
新太郎は慎重に言った。
「菊乃さんを、ご存じですか」
龍之助の表情が、ほんのわずか変わった。
笑みが消えたわけではない。
だが、笑みの下に別の顔が見えた。
「どの菊乃だ」
「唐人お吉と呼ばれたこともある人です」
佐吉が息を呑んだ。
市松も口を閉じる。
龍之助は新太郎をしばらく見ていた。
「若先生」
声が低くなる。
「その名は、港で大きく出すもんじゃねえ」
「すみません」
「謝るなら、先に覚えろ。あの女の名は、刃物よりよく切れる」
「では、知っているんですね」
龍之助は答えなかった。
答えないことで、答えた。
「菊乃さんは、封はまだ開いていないと言いました」
新太郎は続けた。
「僕たちは、赤い封蝋の箱を追っています。ですが、今ここにある白い荷札の医療品も、同じ事件につながっているかもしれません」
龍之助は、ゆっくり煙管を下ろした。
「赤い封蝋」
市松の顔が強張る。
佐吉が目を閉じた。
新太郎はそれを見逃さなかった。
「市松さん」
新太郎は呼んだ。
「赤い封を見たんですね」
市松は唇を噛んだ。
龍之助が佐吉を見る。
「佐吉」
「親分」
「小僧を黙らせるな。黙らせるなら、俺がやる」
佐吉は苦い顔をした。
だが、引いた。
市松は喉を鳴らした。
「百合十字の箱を積んだ夜」
彼は小声で言った。
「赤い封蝋の箱も一つ、別の倉へ運ばれた」
新太郎の喉が、きゅっと痛んだ。
工房の煙を吸った場所が、まだ残っている。
赤い封蝋。
封はまだ開いていない。
だが、箱は動いている。
新太郎は、頭の中で線を引いた。
診療所の薬箱。
L-17。
百合十字。
Grant & W.
第三倉から奥の倉へ移された同じ印の箱。
そして、赤い封蝋の箱。
まだ一本の線ではない。
だが、同じ方向へ向かっている。
「どこの倉ですか」
義経が聞いた。
市松は港の奥を見た。
そこには、他の倉より少し新しい土蔵造りの倉があった。
入口には番人が二人。
軒先には、白い紙札。
東方慈善医療基金 協力商館倉庫
その下に、英字で同じ名が書かれている。
Fondation Charitable d'Orient
小さな百合十字の印。
新太郎は、その白さを見た。
診療所では、白は清潔の色だった。
港では、白は隠す色にもなる。
診療所では、白い布は人を守るために使われていた。
ここでは、白い荷札が何かを隠している。
同じ白なのに、場所が変わるだけで意味が変わる。
新太郎は、それがひどく横浜らしいと思った。
「あそこへ」
つばきの声が震えた。
怒りのためだった。
「薬の名で、赤い封蝋の箱を」
「まだ決めつけるな」
龍之助が言った。
つばきが振り向く。
「でも」
「決めつけるな。決めつけた瞬間、相手の逃げ道も、こっちの道も見えなくなる」
その言葉は、佳乃の「診る前に決めつけないで」と似ていた。
場所は違う。
相手も違う。
だが、同じ種類の慎重さだった。
つばきは悔しそうに息を吸い、吐いた。
「では、記録します」
彼女は言った。
「今は、開けない。騒がない。でも、見たものは記録します。荷札も、倉も、時刻も、誰が黙ったかも」
龍之助の目が、ほんの少し変わった。
「いい目だ」
つばきは返事をしなかった。
褒められたと思いたくないのだろう。
新太郎は懐から紙を取り出し、百合十字の印と、倉の名を書き写した。
手が少し震えていた。
恐れのためか。
怒りのためか。
それとも、言葉がまた荷物のように積み替えられているのを見たからか。
医療品。
慈善。
救護。
協力商館。
どれも、きれいな言葉だった。
だが、その下を赤い封蝋の箱が通るなら。
言葉は、人を守る布にも、目隠しの布にもなる。
「若先生」
龍之助が言った。
「これ以上は、今日は踏み込むな」
「なぜですか」
「踏み込む足が足りねえ。お前さんたちは、目と口はあるが、港で転ばず逃げる足を知らねえ」
「国定さんは、知っているんですか」
「知っている」
「なら、教えてください」
新太郎がそう言うと、龍之助は少しだけ黙った。
そして、低く笑った。
「菊乃が目をつけるわけだ」
「え」
「何でもねえ」
龍之助は佐吉へ顔を向けた。
「今夜は、この若い衆を無事に帰せ。市松は俺が預かる」
「親分」
市松の声が裏返る。
「怒られるんですか」
「怒られずに済むと思ってたのか」
「ちょっとだけ」
「そのちょっとを、港じゃ油断と言う」
龍之助は市松の首根っこを掴むような仕草をしたが、実際には触れなかった。
「だが、よく言った」
市松が目を瞬いた。
「え」
「怖いものを怖いまま言う奴は、使える」
佐吉の表情が少しだけ緩んだ。
龍之助は新太郎へ向き直る。
「若先生」
「はい」
「表の帳簿は、明日になれば綺麗に書き直される。裏の帳簿は、書き直す前に人が消える」
新太郎は息を呑んだ。
「だから、今夜のうちに覚えろ。荷札の字、箱の数、番人の顔、運び手の癖。紙に書くのは後でもいい。まず目で持って帰れ」
目で持って帰る。
その言い方は不思議だった。
だが、新太郎には分かった。
港では、証拠も荷物と同じだ。
乱暴に扱えば壊れる。
人前で開けば奪われる。
持ち帰るには、持ち方を知らなければならない。
義経が静かに言った。
「帰路は俺が見る」
龍之助は頷いた。
「筋の通った侍が見るなら、半分は安心だ」
「半分だけか」
「残り半分は、若先生が余計なことを言わないかどうかだ」
影照が小さく笑った。
「そこが一番危ないな」
「影照さんまで」
新太郎は言い返しかけた。
だが、言葉を飲み込んだ。
余計なことを言わない。
それもまた、通訳の仕事かもしれない。
すべてを声にすることが、いつも正しいわけではない。
診療所で、約束できないことを約束しなかったように。
港では、まだ守れない真実を叫んではいけない時がある。
彼らは倉庫を離れた。
龍之助は、その背中をしばらく見送っていた。
若先生は、まだ港の泥の深さを知らない。
つばきという娘は、怒りを隠すのが下手だ。
侍は、刀を抜かずに済む場所を探している。
そして、火傷した技師の目は、箱の底まで覗こうとしている。
危なっかしい。
だが、危なっかしい者ほど、時々、港の古い沈黙に穴を開ける。
龍之助は煙管を掌で転がした。
イーサン・グラント。
あの陽気な異人商人の笑い声が、ふと耳の奥に戻る。
銭の匂いは嫌いではない。
だが、人の命を包んだ荷で、港の筋を試されるのは御免だった。
「菊乃」
誰にも聞こえない声で、龍之助は呟いた。
「お前さん、また面倒な若いのを拾ったな」
背後で、白い百合十字の印が夕闇に沈んでいく。
港の灯が一つ、また一つと点いた。
太吉とトムの新聞売りの声は、もう遠い。
代わりに、帳場の筆が走る音が聞こえた気がした。
書き直される前の音。
消される前の音。
新太郎は懐の紙を押さえた。
L-17。
百合十字。
Grant & W.
東方慈善医療基金協力商館倉庫。
そして、赤い封蝋の箱。
荷札は、荷物の名前を示すものだと思っていた。
だが今は違う。
荷札は、誰かがその荷を何と呼ばせたいかを示す札なのだ。
中身とは、必ずしも同じではない。
新太郎は振り返らなかった。
振り返れば、何かを見逃す気がした。
だから前を向き、佐吉の背中を追った。
その背中の向こうで、つばきが小さく呟いた。
「清潔な布も、汚れた手で包めば汚れる」
新太郎は頷いた。
「善意の言葉も、ですね」
つばきは答えなかった。
ただ、裂けた椿色の帯の端を、静かに握っていた。
その夜、港の奥の倉では、白い百合十字の荷札が貼られた医療品の木箱が三つ、壁際に並んでいた。
その隣に、赤い封蝋を押された小さな文書箱が一つ。
白い荷札。
赤い封蝋。
その二つが並んでいるだけで、まるで清潔な布の上に血の染みが落ちているようだった。
箱の上には、まだ新しい紙札が置かれている。
医療品付属文書。
その文字は、あまりにも整っていた。
整いすぎていて、嘘の匂いがした。


