翌日の夜、山手の灯は、港の灯より高いところで揺れていた。
同じ横浜の夜なのに、見えるものがまるで違う。
港では、灯は荷札を照らす。
縄、樽、木箱、帳場の墨、番人の顔。
沈黙の中で、何かを隠すために光る。
山手では、灯は人の顔を照らす。
絹の襟、白い手袋、銀の燭台、磨かれた靴、笑い声。
言葉が多すぎるために、何かを隠すように光る。
桐生新太郎は、坂道を上りながら、その違いに戸惑っていた。
足元の石畳は乾いている。
道の脇には洋館の塀が続き、窓からはピアノの音が漏れていた。港の湿った木箱の匂いも、乞食谷戸の水桶の匂いも、ここまでは届かない。
代わりに漂っているのは、花の香り。
ワイン。
磨かれた木の床。
それから、香水。
どれも美しい匂いだった。
だからこそ、新太郎には少し怖かった。
美しいものは、時々、汚れを隠す。
「桐生さん」
隣を歩くつばきが、小さく呼んだ。
「はい」
「私の帯、変ではありませんか」
新太郎は答えに詰まった。
つばきは、山手の壮行会にふさわしい和洋折衷の装いをしていた。
淡い椿色の着物に、西洋レースのショール。
髪はいつもより少し高く結い、母から借りた小さな簪が光っている。
だが、帯だけは少し違った。
第3話で裂いた椿色の帯は、当然そのままでは締められない。
母が別の帯を用意してくれたらしいが、つばきはその端に、裂いた帯の細い切れ端を内側へ縫い留めていた。
外から見れば、ほとんど分からない。
けれど、新太郎には分かった。
彼女が、診療所を山手へ持ってきていることを。
「変ではありません」
新太郎は言った。
「ただ」
「ただ?」
「つばきさんらしいと思いました」
つばきは少しだけ目を細めた。
「それは、褒めていますか」
「もちろんです」
「桐生さんの『もちろん』は、時々とても危険です」
「危険ですか」
「危険です」
つばきはそう言ったが、怒ってはいなかった。
むしろ、少しだけほっとしたように見えた。
彼女もまた、この華やかな場へ入る前に、自分の足元を確かめているのだ。
医療現場帰りの手で、社交場の扉を開けてよいのか。
裂いた帯の記憶を抱いたまま、祝う席へ入ってよいのか。
そんな問いが、彼女の背筋をほんの少し硬くしている。
義経は二人の少し後ろを歩いていた。
洋館の明かりを見ても、まったく浮かれた様子がない。
むしろ、人が多い場所ほど、彼の目は静かに鋭くなる。
「真田さん」
新太郎が声をかけると、義経は短く答えた。
「見ている」
「まだ何も聞いていません」
「聞かれる前に言った」
影照がその横で小さく笑った。
「剣士は便利たい。何でも先に斬ってくれる」
「斬っていない」
「言葉を斬った」
「余計な言葉だった」
影照は笑い、包帯の巻かれた右手を外套の中へ隠した。
火傷は少しずつ治っているらしい。
だが、彼は社交場の白い手袋をはめることを嫌がった。
「手袋をすると、物の温度が分からん」
そう言って、左手だけに薄い手袋をはめ、右手は包帯のままにしている。
会場の扉が近づいた。
横浜山手の洋館。
使節団の出航を控えた、小規模な壮行会と聞いていた。
だが、玄関前には馬車が何台も停まり、日本の役人、外国商館の人々、使節団関係者、居留地の婦人たちが出入りしていた。
小規模という言葉も、場所によって意味が変わるらしい。
新太郎は、深く息を吸った。
港で覚えた言葉が、胸の中で響く。
荷札は、誰かがその荷を何と呼ばせたいかを示す札なのだ。
では、壮行会という名は。
これは、旅立ちを祝う場なのか。
それとも、各国が使節団を値踏みする場なのか。
「ミスター桐生」
扉の向こうから、柔らかな英語が聞こえた。
振り向くと、金髪の青年が立っていた。
上質な三つ揃いのスーツ。
青灰色の目。
穏やかな笑顔。
手には革装の手帳ではなく、白い手袋と紅茶のカップ。
場に馴染みすぎていて、逆に彼がこの場の一部を動かしているように見える。
「エドワード・グレイです」
青年は日本語で言った。
「英国公使館の書記官をしております。もっとも、今夜は堅い肩書きより、紅茶の案内役として覚えていただけると嬉しい」
新太郎は慌てて頭を下げた。
「桐生新太郎です」
「存じています。煙の中で人を導いた若い通訳見習い、と聞いています」
新太郎の喉が、少し痛んだ。
田中久重の工房。
火。
千吉。
声を張り上げた夜。
「まだ、見習いです」
「見習いで人を救うなら、正式になったらどれほど困った人になるのか。英国紳士としては少々警戒しなければ」
エドワードは軽く笑った。
冗談は柔らかい。
だが、彼の目は新太郎の反応を丁寧に見ていた。
この人は、笑いながら観察する。
新太郎はそう思った。
「有馬つばきです」
つばきが礼をした。
エドワードは少し姿勢を正した。
「お会いできて光栄です、ミス有馬。横浜の婦人たちの間で、あなたの名はすでに小さな風になっています」
「風ですか」
「ええ。閉じた窓を少し開ける種類の風です」
つばきは一瞬だけ驚き、それから静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
新太郎は、つばきがその言葉を気に入ったことを感じた。
褒め言葉に慣れているわけではない。
だが、ただ美しさを褒められた時とは違う受け取り方だった。
「真田義経です」
義経が短く名乗る。
エドワードは自然に視線を刀へ落とし、それから義経の目へ戻した。
「お会いできて光栄です。今夜、私が一番失礼をしてはいけない方ですね」
「失礼をしなければいい」
「その通りです」
エドワードはさらりと受けた。
影照は自分から名乗る前に、会場の天井のシャンデリアを見上げていた。
「あれ、油か。ガスか」
「影照さん」
つばきが低く言う。
エドワードは笑った。
「ガス灯です。興味がおありなら、あとで構造を」
「ある」
「即答ですね」
「火がつくものは、仕組みを知らんと危ない」
影照の声に、第2章の火災の記憶がかすかに混じった。
エドワードもそれに気づいたのか、笑みを少しだけ柔らかくした。
「では、火の話は慎重に」
会場へ入ると、空気が一段明るくなった。
磨かれた床には燭台の光が映り、壁には海図と油絵が掛かっている。小さな楽団が奥で弦を鳴らし、使節団の出航を祝う乾杯の声が、英語、日本語、フランス語で重なっていた。
新太郎は、一瞬だけ足を止めた。
そこにいる人々は、みな清潔だった。
白い手袋。
磨かれた靴。
整えられた髪。
綺麗な襟。
だが、その白さを見た瞬間、彼は港の倉庫を思い出した。
白い荷札。
赤い封蝋。
清潔な布の上に落ちた血の染み。
「大丈夫ですか」
つばきが小さく聞いた。
「はい」
「嘘です」
「少しだけ」
「少しだけなら、よろしいです」
つばきは前を向いた。
彼女の目にも、同じ違和感があった。
診療所では、白い布を守るために手を洗った。
ここでは、白い手袋が何を触っているのか、誰も気にしていない。
つばきは、白い手袋の指先を見るたび、佳乃に止められた自分の手を思い出した。
新聞。
港の手すり。
外套の紐。
泥。
清潔に見えることと、清潔であることは違う。
その違いが、山手ではとても見えにくかった。
給仕が銀盆を持って近づいてきた。
盆の上には、薄く切られた白い菓子が並んでいた。
新太郎はそれを見て、診療所でメアリーが切り分けていた布を思い出した。
あちらは口覆いにするため。
こちらは口を楽しませるため。
同じ白いものでも、置かれている場所で意味が変わる。
エドワードは紅茶を一つ取り、新太郎へ差し出した。
「紅茶を飲みましょう。難しい話は、少し温めてからの方がいい」
「今夜も、難しい話があるのですか」
「壮行会に難しい話がないと思えるなら、君はまだとても健康です」
エドワードはさらりと言った。
「新聞の見出しも外交文書も、書かれていないことの方が大きい。今夜は、その余白がよく見えるでしょう」
新太郎は紅茶の湯気を見た。
余白。
帳簿の滲んだ W。
声に出されなかった協力商館の名。
港の沈黙。
ここにも、同じものがあるのだろうか。
その時、会場の空気がふっと動いた。
新太郎は、国定龍之助が港へ現れた時のことを思い出した。
あの時は、男たちが口を閉じ、道が開いた。
今は違う。
人々は口を閉じない。
むしろ、笑い声を少しだけ明るくする。
視線を向け、すぐ逸らし、また戻す。
その中心に、一人の女性がいた。
エメラルドグリーンのドレス。
白い手袋。
明るい金髪を上品にまとめ、灰色がかった青い瞳で会場を見渡している。
彼女は笑っている。
けれど、その笑みはただの愛想ではなかった。
相手を楽しませるため。
自分を守るため。
そして、場を読むため。
いくつもの意味を重ねた笑みだった。
「クララ・シュタインベルク」
エドワードが言った。
「ドイツ外交官のご息女で、私の古い友人です。語学と議論において、私よりずっと手強い」
「それを本人の前で言うなんて、エドワード」
クララは流暢な日本語で言った。
「あなた、英国人にしては正直ね」
「英国人だからこそ、危険な相手には早めに警告を出すんだ」
クララは小さく笑い、新太郎へ視線を向けた。
その視線は、真っ直ぐだった。
美しい令嬢に見られた、というより、難しい文章を開かれたような気がした。
「あなたが新太郎?」
クララは日本語で言った。
呼び捨てだった。
新太郎は一瞬、返事の形を失った。
「は、はい。桐生新太郎です」
「エドワードから聞いているわ。言葉を信じすぎる、危なっかしい青年だと」
「エドワードさん」
新太郎が見ると、エドワードは紅茶を飲むふりをした。
「英国紳士としては、正確な紹介だったと思う」
「褒め言葉なのですか」
「少なくとも、退屈ではないという意味です」
クララは一歩近づいた。
そして、声を少しだけ落とし、フランス語で言った。
「Votre honnêteté est presque indécente, monsieur Shintaro.」
新太郎は意味を理解した瞬間、顔が熱くなった。
あなたの正直さは、ほとんどはしたないほどね。
褒めているのか、からかっているのか。
たぶん、両方だ。
クララがフランス語を使った瞬間、会話の輪が少し変わった。
意味が分かる者と、分からない者。
笑える者と、置いていかれる者。
たった一つ言葉を変えるだけで、同じ場にいる人間の位置が変わる。
新太郎は、赤くなりながらもそれを感じていた。
「ええと」
新太郎は言葉を探した。
つばきの視線が横から刺さる。
「今の、私にも分かる言葉で言ってください」
つばきの声は丁寧だった。
丁寧すぎた。
クララは涼しい顔で微笑んだ。
「褒めただけよ」
「どのように?」
「とても正直な方だと」
「桐生さんが赤くなるほどの褒め方だったのですね」
新太郎はさらに困った。
「いえ、その」
「否定しないのですね」
「否定すると、正直ではなくなる気がして」
クララが声を立てずに笑った。
つばきは新太郎を見た。
「そういうところです」
「どこですか」
「自覚してください」
エドワードが助け舟を出すように、軽く手を叩いた。
「つまり、ミスター桐生は外交官として大変有望です。褒められても怒られても、どちらにもできる返事を選べる」
「それは助け舟ですか」
新太郎が聞く。
「沈まない程度の小舟です」
「余計に困っています」
「英国式です」
つばきが小さく息を吐いた。
クララは、その様子を興味深そうに見ていた。
つばきを見下しているわけではない。
むしろ、彼女の反応の早さや、言葉の立ち上がりを楽しんでいるようだった。
「あなたが、有馬つばきね」
「はい」
「横浜の商家の娘で、英学を学び、乞食谷戸の診療所にも入ったと聞いたわ」
つばきの表情が変わった。
「どなたから」
「山手では、新聞より速く噂が歩くの」
クララは答えた。
「ただし、噂はたいてい靴を履き違えている。だから、本人に聞く方が早い」
「何を聞きたいのですか」
「怖くなかった?」
問いは、意外にまっすぐだった。
つばきは少しだけ黙った。
会場の音楽が、そこで一拍だけ大きく聞こえた。
「怖かったです」
つばきは答えた。
「でも、怖いから行かないで済むなら、女はいつまでも座敷に置かれたままです」
クララの目が、ほんの少し変わった。
からかう色が薄れた。
「面白いわ」
「面白がられるために言ったのではありません」
「分かっている。だから面白いの」
つばきは返す言葉を探したが、見つからなかった。
新太郎は、その二人の間に、細い火花のようなものを見た。
それは敵意ではない。
競争心でもある。
尊敬の芽でもある。
火花は危ういが、暗い場所を照らすこともある。
クララの指先が、白い手袋の上で小さく動いていた。
一、二、三。
一、二、三。
ワルツの拍だ。
彼女は会話をしながら、音楽の拍を指で刻んでいる。
新太郎がそれに気づくと、クララは視線だけで微笑んだ。
「見ているのね」
「すみません」
「謝らなくていいわ。通訳は、相手の癖も読むのでしょう」
「まだ、そこまでは」
「では練習ね」
クララはテーブルの上に置かれた小さな薬瓶へ視線を向けた。
会場の端に、慈善展示のような小卓があった。
包帯。
小さな薬瓶。
清潔な布。
寄付を募る札。
クララの目は、花や宝飾よりも先に、その薬瓶のラベルを読んでいた。
少し離れたところで、影照も同じ薬瓶を見て鼻を鳴らした。
「展示用にしては、封が新しい」
「何か分かるのですか」
新太郎が尋ねると、影照は肩をすくめた。
「まだ分からん。だが、人に見せるための薬瓶は、たいてい中身よりラベルが丁寧すぎる」
新太郎はそれを見逃さなかった。
彼女はただの社交の花ではない。
薬の名を読む人だ。
つばきも気づいたらしい。
彼女は一瞬だけクララの横顔を見た。
悔しそうに。
そして、認めるように。
その頃、会場の中央では、日本の役人と外国商館の代表が、使節団の出航について談笑していた。
義経は、その談笑ではなく、会場の隅にいる給仕を見ていた。
盆を持つ手ではなく、懐を守る手だ。
足の運びも、給仕のそれではない。
彼は何も言わない。
ただ、新太郎たちと慈善展示の小卓の間に、自然に立つ位置を変えた。
「日本の衛生問題は、少し騒がれすぎですな」
英語の声が聞こえた。
「しかし居留地の安全は大事です」
「もちろん。だが、慈善基金から医療品が出ている。すでに対処は始まっている」
「東方慈善医療基金ですか」
「ええ。便利な組織です。政治より早く動く」
「役所が動けば責任が残る。公使館が動けば外交問題になる。だが慈善なら、誰も反対しづらい」
「ええ。善意は、通行証として実に優秀です」
便利。
新太郎は、その言葉に胸が冷えるのを感じた。
薬箱。
L-17。
Grant & W.
白い荷札。
赤い封蝋。
会場では、同じ名が、まるで洒落た帽子のように軽く扱われている。
つばきの手が、帯の端を握った。
クララの指先のワルツが止まった。
エドワードは紅茶を口元へ運んだまま、目だけを細めた。
誰も、その会話へ踏み込まない。
踏み込めないのか。
踏み込まないのか。
新太郎には、まだ分からなかった。
「ミスター桐生」
クララが、ふいに新太郎へ向き直った。
「通訳とは、自国の嘘を他国語に美しく翻訳する仕事かしら」
新太郎は、即答できなかった。
会場の音楽が続いている。
人々は笑っている。
誰かが乾杯している。
その中で、クララの問いだけが、まっすぐ胸へ入ってきた。
自国の嘘。
他国語。
美しく翻訳する。
彼は、港の帳場を思い出した。
医療品。
慈善。
救護。
協力商館。
どれも美しい言葉だった。
だが、もしその言葉が、赤い封蝋の箱を隠すために使われているなら。
訳すとは、その美しさを別の言語へ運ぶことなのか。
それとも、美しさの下にあるものを見せることなのか。
「分かりません」
新太郎は正直に言った。
クララの眉が少し動いた。
「分からない?」
「はい。嘘をそのまま訳せば、嘘を運ぶことになる。けれど、勝手に暴けば、守るべき人まで傷つけるかもしれない」
新太郎は、松吉の母親を思い出した。
名前を書いたら、役人に連れていかれないかい。
約束できないことを、約束してはいけない。
「だから、今の僕には、まだ分かりません」
エドワードは笑っていた。
しかし、目は笑っていなかった。
その目には、外交官が毎日飲み込んでいる言葉が沈んでいるようだった。
「よい答えだ」
エドワードが言った。
「外交官なら、そこで何か気の利いた曖昧な答えを選ぶ」
「それは良いことですか」
「その場は救える」
「その場だけですか」
エドワードは紅茶を見た。
「その場だけで済まないこともある」
つばきが、静かに口を開いた。
「嘘を美しくするために学ぶのなら、私は学問を嫌いになります」
その声は大きくなかった。
だが、近くにいた数人が振り向いた。
つばきは引かなかった。
「言葉を学ぶのは、隠すためではありません。見えない人の顔を見るためです。病人も、子どもも、荷の下に隠されたものも」
クララは、初めて少し真顔になった。
青灰色の瞳が、つばきをまっすぐ見た。
「あなたは、ずいぶん危険なことを言うのね」
「危険だから言わないで済むなら、誰も学ばなくてよくなります」
クララは黙った。
それから、ほんのわずかに笑った。
今度の笑みは、からかいではなかった。
「あなたの強さは、泥を恐れないことなのね」
つばきは言葉を失った。
クララは続けた。
「私は、まだ泥を避ける歩き方ばかり上手いわ」
彼女は会場の奥へ視線を向けた。
「私は何カ国語も話せるわ。けれど、その言葉で入れる場所は限られている」
その声は、先ほどより少し低かった。
「舞踏会には入れる。談話室にも入れる。けれど、男たちが本当に決める部屋には、たいてい入れない」
クララは小さく笑った。
「だから私は、扉の外で靴音を聞くのが上手くなった」
その一言は、会場の音楽に紛れそうなほど小さかった。
だが、新太郎には聞こえた。
つばきにも、聞こえたはずだ。
二人の間の火花が、少しだけ形を変えた。
敵意ではない。
同じ火を、別の場所から見ている者同士の沈黙だった。
「さて」
エドワードが明るい声に戻した。
「このままでは、私が女性二人の前で外交官としての怠惰を責められ続ける。英国紳士としては、逃げ道を探したい」
「逃げるのですか」
つばきが問う。
「案内するのです」
エドワードは笑った。
「会場の隅に、君たちが見ておくべきものがある」
彼は新太郎へ視線を向けた。
「ただし、私は何も断言しない」
「なぜですか」
「英国の立場がある」
エドワードは穏やかに続けた。
「断言しないことで、私は君たちを助けている。そして同時に、私自身を守っている。そこを間違えないでほしい」
「友人の立場は」
新太郎は思わず聞いた。
エドワードの笑みが少しだけ揺れた。
「君の率直さは危うい」
彼は低く言った。
「だが、羨ましくもある」
エドワードは会場の隅へ歩き出した。
そこには、寄付者名簿が置かれていた。
革張りの台帳。
金の縁取り。
横には銀のペン。
表紙には、英語とフランス語で慈善協力者名簿と書かれている。
新太郎は一瞬、メアリーの記録帳を思い出した。
松吉。
とめ。
あの記録帳は、人を消さないために名前を書いた。
あの名前は、誰かがそこに生きていることを守るために書かれた。
この名簿は、名前を書くことで何を守るのだろう。
名誉か。
信用か。
それとも、影か。
ここに並ぶ名前は、誰かが何かをしたと世に示すために書かれている。
どちらも名前だ。
けれど、紙の上で背負っているものが違う。
エドワードは台帳を開いた。
紙は厚く、上質だった。
診療所の記録帳とは違う。
こちらの紙は、名前が消えないようにではなく、名前がよく見えるように選ばれている。
寄付者の名が、英字で整然と並んでいる。
商館。
外交官。
宣教師。
貿易商。
そして、その一行に、新太郎は目を止めた。
Fondation Charitable d'Orient
東方慈善医療基金。
その横に、小さな印。
百合の花と十字。
白い花。
小さな十字。
港の倉庫にあったものと同じだった。
つばきが息を呑む。
クララの指先が、ワルツの拍を止めた。
「これは」
新太郎が言いかける。
エドワードは静かに台帳を閉じた。
「私は何も断言しない」
「エドワードさん」
「断言できるほどの証拠を、私はまだ持っていない」
その言い方は、逃げているようで、逃げていなかった。
何も言わないのではない。
言えるところまでを、ぎりぎりで渡している。
エドワードは扉を開けてくれる。
だが、自分の足で踏み込むことはない。
それが優しさなのか、責任を避ける術なのか、新太郎にはまだ分からなかった。
外交官の誠実さとは、時にとても狭い道なのだと、新太郎は思った。
「善意は」
エドワードは台帳に手を置いたまま言った。
「時に外交より長い影を持つ」
外交は、国と国の間に影を落とす。
善意は、人の心の中に影を落とす。
だから、後者の方が見えにくいのかもしれない。
会場の向こうで、乾杯の声が上がった。
「諸君、日本の未来の旅立ちに」
使節団の旅立ちを祝う拍手。
弦楽器の明るい音。
シャンデリアの光。
そのすべてが、遠く聞こえた。
新太郎は、閉じられた名簿を見た。
名簿は閉じている。
けれど、名前はもう見えてしまった。
港の荷札。
診療所の記録帳。
山手の寄付者名簿。
同じ紙の上に書かれた名前でも、人を守るためのものと、人を隠すためのものがある。
新太郎は、紅茶の香りの中で、赤い封蝋の匂いを思い出した。
そして、クララの問いが、まだ胸の中で響いていた。
通訳とは、自国の嘘を他国語に美しく翻訳する仕事かしら。
まだ答えはない。
けれど、新太郎は初めて、その問いから逃げてはいけないと思った。
つばきは、名簿から目を離さなかった。
クララは、白い手袋の指先で、閉じられた台帳の角をそっとなぞった。
その仕草は優雅だった。
だが新太郎には、彼女が薬瓶のラベルを読む時と同じ目をしているように見えた。
エドワードは、もう一度だけ柔らかく笑った。
「さあ」
彼は言った。
「そろそろ、乾杯の輪へ戻りましょう。今夜の主役は、まだ旅立ってもいない日本の未来ですから」
新太郎は頷いた。
だが、胸のどこかで思った。
未来は、祝われているだけではない。
値踏みもされている。
そして、時には、利用されようとしている。
山手の灯は、港の灯より高いところで揺れていた。
その光は美しい。
けれど高い場所にある光ほど、影は遠くまで伸びる。
横浜という町の陰影は、港の底だけにあるのではなかった。


