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第3章「横浜港の陰影」第6話「銀時計の裏蓋」

山手の灯を背にすると、横浜の夜は少しずつ低くなっていった。

 坂を下るたびに、音が変わる。

 洋館の窓から漏れていた弦楽器は遠ざかり、代わりに荷車の車輪が石畳を噛む音が近づいてくる。

 英語の乾杯。

 フランス語の笑い声。

 日本語の挨拶。

 それらが背中の上で薄くなり、やがて、波音と、船の鎖が軋む音に混じった。

 横浜へ戻ってきた朝の港は、早口だった。

 夜の横浜は、早口ではない。

 むしろ、口数が少ない。

 ガス灯の下で荷を引く男たちは、必要な言葉だけを低く交わす。波止場の向こうでは、船影が黒く重なり、異国語の歌が帆柱の間を細く流れていた。

 遠い船から、笑い声。

 近い倉から、木箱を置く音。

 水面から、濡れた綱の匂い。

 夜の港は、朝よりも多くのものを隠していた。

 新太郎は、懐の奥に入れた紙の感触を確かめた。

 L-17。

 百合十字。

 Grant & W.

 東方慈善医療基金。

 赤い封蝋の箱。

 山手の寄付者名簿。

 言葉を並べれば、線になる気がする。

 だが、線にするには、まだ足りないものが多すぎた。

 隣を歩くつばきは、しばらく黙っていた。

 壮行会の間は背筋を伸ばし、クララにもエドワードにも負けないように言葉を返していたが、坂を下りて港の匂いが戻ってくるにつれ、その肩に疲れが降りてきたようだった。

 西洋レースのショールは美しい。

 けれど、その下の帯の内側には、診療所で裂いた椿色の布が縫い留められている。

 新太郎には、つばきがときどきそこへ手を添えているのが分かった。

「つばきさん」

「はい」

「横浜へ戻ってから、たいへんでしたね」

 新太郎は、言ってから少し後悔した。

 あまりにも平凡な言葉だった。

 乞食谷戸で手を洗い、松吉ととめの名を聞き、港で荷札を追い、山手でクララに挑まれ、寄付者名簿の百合十字を見た人へかける言葉としては、軽すぎる。

 つばきは横目で彼を見た。

「それは、何に対しての『たいへん』ですか」

「ええと」

 新太郎は詰まった。

「診療所も、港も、山手も」

「全部ですか」

「はい」

「大雑把です」

「すみません」

 つばきは小さく息を吐いた。

 怒っているというより、少し笑いをこらえているようだった。

「でも」

 新太郎は続けた。

「つばきさんは、どの場所でも逃げなかったと思います」

 つばきの足が、ほんの少し遅くなった。

「逃げなかった、だけです」

「それは、とても難しいことです」

「桐生さん」

「はい」

「そういうことを、まっすぐ言うのはやめてください」

「なぜですか」

「困るからです」

「困る」

「困ります」

 つばきは前を向いた。

 ガス灯の光が頬に当たり、少し赤く見えた。

「それに、私は逃げなかっただけで、まだ何もできていません」

「帯を裂きました」

「それは布です」

「手を洗いました」

「それは教わっただけです」

「とめさんの名前を聞きました」

 つばきはそこで黙った。

 夜風が、レースの端を揺らした。

「……あの子、ちゃんと眠れているでしょうか」

「佳乃先生とメアリーさんがいます」

「はい」

 つばきは頷いた。

「でも、山手で乾杯の声を聞いていたら、とめさんの布人形を思い出してしまいました」

 彼女は指で帯の内側を押さえた。

「同じ横浜なのに、あちらには熱のある子どもがいて、こちらには銀盆の菓子が並んでいる。どちらも横浜です。どちらも本当です。でも、その間に立つと、自分の足がどちらの地面にもついていない気がするんです」

 新太郎はすぐには答えられなかった。

 山手の灯。

 港の灯。

 乞食谷戸の湿った暗さ。

 それらは別々の場所にあるのではなく、同じ町の中で互いに影を落としている。

「僕も」

 新太郎は言った。

「まだ、どこに立てばよいのか分かりません」

「桐生さんもですか」

「はい。英語の見出しも、日本語の見出しも、港の荷札も、山手の名簿も。読めるものは増えました。でも、読めば読むほど、何を言ってよいのか分からなくなります」

 つばきは少しだけ笑った。

「クララさんの問いのせいですか」

「それもあります」

「あの方、綺麗な顔で難しいことを言いますね」

「はい」

「それに」

 つばきは少し間を置いた。

「何カ国語も話せて、薬瓶のラベルまで読めて、社交場でも少しも迷わない」

「迷っていないように見えるだけかもしれません」

「分かっています」

 つばきは、少し悔しそうに言った。

「分かっているから、余計に困るんです。嫌いになれたら楽なのに」

 新太郎は返事に困った。

 正直に言うべきか、慰めるべきか。

 考えた末に、正直に言った。

「つばきさんも、クララさんも、強いと思います」

 つばきが立ち止まった。

「桐生さん」

「はい」

「今、その二人を同じ文に入れる必要がありましたか」

「え」

「ありましたか」

「……ありませんでした」

「よろしい」

 つばきは再び歩き出した。

 その横顔は怒っているようで、耳の先が少し赤い。

 新太郎は、山手でエドワードが言った「沈まない程度の小舟」という言葉を思い出した。

 自分の言葉は、どうもよく穴の開いた小舟になる。

 その時、夜風の中に三味線の音が混じった。

 港の歌ではない。

 山手の弦楽器でもない。

 細く、艶やかで、どこか人をからかうような音。

 つばきが足を止める。

 新太郎も振り向いた。

 ガス灯の下に、一人の芸者が立っていた。

 黒に近い藍の着物。

 深紅の帯。

 白い襟元。

 髪は美しく結い上げられ、簪の先が月明かりを拾っている。

 顔立ちは艶やかで、目元に小さなほくろがあった。

 扇子で口元を隠している。

 だが、その目は笑っていた。

「夜の港で若い男女が二人きり」

 芸者は言った。

「あら、これは通報した方がいいのかしら」

 つばきの背筋が伸びた。

「どなたですか」

「名乗るほどの者じゃないわ」

 芸者は扇子を閉じる。

「今夜は、菊乃と呼ばれているけれど」

 菊乃。

 新太郎は、その名を胸の中で繰り返した。

 唐人お吉を名乗った女の面影。

 三田で、つばきに封蝋の匂いを警告した女。

 工房の火の中で見た、老婆の影。

 菊乃と名乗るこの芸者は、姿も声も違う。

 だが、目の奥だけが似ていた。

 人をからかいながら、相手の逃げ道まで先に見ている目。

「あなたは」

 新太郎が言いかけると、菊乃は扇子で彼の言葉を止めた。

「坊や、女の正体を夜道で大声にするものじゃないわ」

「坊や」

 つばきが小さく呟いた。

「桐生さん、坊やなのですか」

「僕に聞かれても」

「まだ坊やよ」

 菊乃はあっさり言った。

「言葉を読み始めたばかりだもの」

 つばきは菊乃を見た。

 からかわれているのは新太郎なのに、自分まで試されている気がしたのだろう。

「あなたは、私たちを知っているのですか」

「少しだけ」

「少しだけで、夜道に現れるのですか」

「女はね、お嬢さん」

 菊乃は微笑んだ。

「少しだけ知っている時が、一番動きやすいの。全部知っていると、足が重くなる」

 その言葉は、冗談のようでいて、冗談だけではなかった。

 新太郎は、山手の名簿の前で感じたエドワードの制約を思い出した。

 知っていても、言えない者。

 言わないことで、誰かを守っている者。

 菊乃は、そのもっと暗い場所にいるのかもしれない。

 少し離れた石段の影に、男が立っていた。

 大柄な体。

 煙管。

 国定龍之助だった。

 彼は近づいてこない。

 ただ、こちらを見ている。

 菊乃がその視線に気づいているのは明らかだった。

 だが、振り向かない。

 二人の間には、言葉にしない古い貸し借りがあるように見えた。

「龍之助さんも」

 新太郎が言うと、菊乃は軽く眉を上げた。

「あの親分の名まで口にするなんて、坊やは本当に命知らずね」

「すみません」

「謝る癖は悪くないわ。でも、謝る前に周りを見る癖をつけなさい」

 その時、義経が背後から静かに現れた。

 壮行会の会場から少し距離を置いて護衛していたのだろう。

 彼は菊乃を見た瞬間、目を細めた。

 刀に手をかけない。

 だが、体の重心がわずかに変わった。

「真田さん」

 新太郎が呼ぶ。

 義経は答えず、菊乃の足元を見ていた。

 芸者の足捌き。

 だが、歩幅を隠す癖がある。

 体を小さく見せるための膝の使い方。

 工房の火の中で、老婆が見せた不自然な軽さ。

 そして、もっと昔の何か。

 義経の顔に、ほんのわずか、痛みのようなものが走った。

「お前は」

 義経が低く言った。

 菊乃は扇子を広げた。

「怖い顔ねえ。今夜は祝いの夜でしょう」

「答えろ」

「女に詰め寄る男は嫌われるわよ」

「お前の足は、老婆の足ではなかった」

 新太郎は息を呑んだ。

 つばきも菊乃を見る。

 菊乃は笑っていた。

 だが、扇子を持つ指が、ほんの一瞬だけ止まった。

「歳を取ると、足腰に出るものね」

「とぼけるな」

「真田の旦那」

 菊乃の声が、少しだけ低くなった。

「今ここで踏み込めば、あんたの探しているものも逃げるわ」

 義経の目が変わった。

 景久。

 その名を、誰も口にしていない。

 だが、新太郎にはその影が通ったのが分かった。

 義経はしばらく菊乃を見ていた。

 一歩踏み込めば、菊乃の逃げ道を塞げる距離だった。

 だが、その一歩で、景久へ続く細い糸まで切れるかもしれない。

 剣なら迷わない。

 だが、人の過去は、斬れば道が開くものではない。

 やがて、刀から手を離した。

「いつか、聞く」

「いつか、答えるかもしれない」

「答えろ」

「だから、かもしれないって言ったでしょう」

 菊乃はまた軽く笑った。

 笑いで隠している。

 新太郎はそう感じた。

「今夜は、坊やに用があるの」

 菊乃は袖の中へ手を入れた。

 そこから出てきたのは、小さな銀時計だった。

 丸い懐中時計。

 蓋には月と波のような細い装飾が刻まれている。

 見た目より、重かった。

 ただの装身具ではない。

 掌の中に、小さな機械と、誰かの過去が一緒に入っているような重みだった。

 鎖は短く、旅の衣に忍ばせやすい。

 新品ではない。

 だが、よく磨かれていた。

 新太郎が受け取ると、ひやりと冷たい重みが掌へ乗った。

「これは」

「異国旅の護符」

 菊乃は言った。

「表向きはね」

「表向き」

「裏向きの話は、まだ早いわ」

 新太郎は時計を開いた。

 蓋は、薄い金属音を立てた。

 かちり、というより、秘密の扉が少しだけ開く音だった。

 文字盤は小さく、針は細い。

 秒針が、静かに動いている。

 ち、ち、ち。

 その音は、港の波音の中でも不思議にはっきり聞こえた。

 裏蓋を返すと、細かな模様が刻まれている。

 月。

 波。

 小さな花。

 それから、数字とも飾りともつかない細い線。

 新太郎には、それがただの装飾に見えた。

 だが、妙に細かい。

 細かすぎる。

 波の模様は、ただの波にしては角ばっていた。

 新太郎には分からない。

 だが、どこかで見た線の曲がり方だった。

 港の倉庫配置図か。

 それとも、船の航路か。

 小さな花も、百合十字の百合に似ている。

 ただし、花弁の数が一つ足りない。

 数字めいた細線の中には、Lとも、十七とも読めそうな傷があった。

 影照が横から覗き込んだ。

「貸せ」

「駄目」

 菊乃とつばきが同時に言った。

 影照は目を瞬いた。

「まだ何もしてなか」

「しそうな顔をしています」

 つばきが言う。

 菊乃は笑った。

「その包帯の坊やに渡したら、朝にはぜんまいまで外されそうだもの」

「仕組みがあるものは、見ないと落ち着かん」

「落ち着かなくていいの。今は持ち主の手に置いておきなさい」

「分解はせん」

 影照は不満そうに言った。

「だが、いい音だ。普通の時計より少し重い」

 新太郎は銀時計を握った。

 掌の中で、秒針の音が続いている。

「なぜ、僕に」

「時を読む男になりなさい」

 菊乃の声が、少しだけ真面目になった。

 新太郎は顔を上げた。

「言葉だけ読めても、遅れたら何も救えないわ」

 その言葉は、夜風の中でまっすぐ立った。

 菊乃の軽口の奥から、別の声が出てきたようだった。

 菊乃はそのあと、ほんの一瞬だけ唇を閉じた。

 その沈黙は、次の軽口を選ぶためのものではなかった。

 誰かの名前を飲み込むための沈黙だった。

 誰かを救えなかった声。

 新太郎はそう思った。

 菊乃は一瞬だけ、港の奥を見た。

 そこには、船影と倉庫の黒い輪郭があるだけだ。

 だが彼女の目は、もっと遠い過去を見ているようだった。

 扇子を持つ手が、ほんのわずか震えた。

 次の瞬間には、また笑っていた。

「あら、そんな顔をしないの。男前が台無しよ」

「男前では」

「そこは否定しないで受け取っておきなさい。世の中、受け取れる時に受け取らないと、あとで高くつくわ」

 つばきが銀時計を見た。

 その表情は、少し複雑だった。

 山手でクララにからかわれたばかりだ。

 その夜に、また別の女性から贈り物を受け取る新太郎。

 面白くない。

 そう思った自分が、つばきは少し恥ずかしかった。

 けれど、それだけではない。

 菊乃の目には、恋のからかいでは済まない重さがあった。

 その重さを見ないふりをして拗ねるほど、自分は子どもではいたくなかった。

 その感情は、つばきの顔に分かりやすく出ていた。

「桐生さん」

「はい」

「女の方からいただいた物を、すぐ懐にしまうのですね」

「え」

「いえ、別に」

「これは護符だと」

「分かっています」

「怒っていますか」

「怒っていません」

「怒っている時の声に聞こえます」

「桐生さんは、そういうところだけ少し鋭いですね」

 新太郎は困った。

 菊乃が楽しそうに笑う。

「お嬢さん、安心なさい。この坊やは、女心より暗号の方がまだ読める見込みがあるわ」

「それは安心なのでしょうか」

「さあ。育て方次第ね」

 つばきは言い返しかけた。

 だが、菊乃の目を見て、口を閉じた。

 冗談だけではない。

 新太郎へ銀時計を渡すこの女の目には、何かを託す者の重さがあった。

 つばきはそれを感じ取ったのだろう。

「その時計は」

 つばきは静かに聞いた。

「本当に、桐生さんを守るものなのですか」

「守るかどうかは、この坊や次第」

 菊乃は答えた。

「道具はね、持ち主より賢くはなれないの」

「では、なぜ渡すのですか」

「賢くなる見込みがあるからよ」

 菊乃は新太郎を見た。

「ただし、この時計を持つなら、あんたも誰かに見られる側になる」

 新太郎は、銀時計を見た。

 ち、ち、ち。

 秒針の音が、さっきより重く聞こえる。

「百合十字について」

 新太郎は思い切って聞いた。

「あなたは何か知っているんですか」

 菊乃の笑みが、少し薄くなった。

 龍之助が石段の影で煙管を下ろす。

 義経の目が細くなる。

 夜の港の音が、一瞬だけ遠ざかったように感じた。

「白い花ほど」

 菊乃は言った。

「根が黒いこともある」

「それは」

「今夜の情報料は、時計で払いすぎているわ」

「菊乃さん」

「坊や」

 菊乃の声が低くなる。

「知りたがるのは悪いことじゃない。でも、聞く相手を間違えると、聞いた人間より先に、別の誰かが消える」

 新太郎は言葉を失った。

 別の誰か。

 メアリーの記録帳。

 松吉。

 とめ。

 山手の名簿。

 名前は、人を守ることもできる。

 だが、誰かの弱みとして握られることもある。

 菊乃はそのことを、骨の奥で知っているのだ。

 彼女の袖口から、ほんの一瞬、小さな薄桃色の髪紐が見えた。

 子ども用のものだ。

 大人の女が身につける飾りではない。

 誰かに結んでやるためのもの。

 あるいは、誰かがもう結べなくなったもの。

 新太郎は、そのどちらを想像してしまったのか分からず、胸が苦しくなった。

 新太郎が視線を向けた時には、もう袖の中へ消えていた。

「今のは」

「何も見ていない」

 菊乃は微笑んだ。

「そういう時もあるわ」

 新太郎は、聞き返せなかった。

 聞き返してはいけない気がした。

 遠くで、汽笛が鳴った。

 低く、長く。

 夜の港全体を震わせるような音だった。

 使節団の出航準備を告げる汽笛か。

 あるいは別の船か。

 新太郎には分からない。

 だが、その音を聞いた瞬間、銀時計の秒針が掌の中でさらに強く刻まれるように感じた。

 ち、ち、ち。

 時は待たない。

 言葉を探している間にも、荷は動く。

 新聞は刷られる。

 病人は熱を出す。

 名簿には名が載る。

 封蝋の箱は、別の倉へ運ばれる。

「出航が近いわね」

 菊乃が言った。

 彼女は銀時計を扇子の先で軽く叩いた。

「港の悪事はね、たいてい夜明け前に形を変える。帳簿は朝に書き直される。荷は潮に合わせて動く。新聞は日の出と一緒に刷られる」

 菊乃は新太郎を見る。

「言葉を読んでいる間に、時を読めなければ置いていかれるわ」

「海の上では、港より逃げ場が少ない。よく見て、よく聞いて、よく黙りなさい」

「黙ることも、必要ですか」

「もちろん」

 菊乃は扇子で新太郎の胸元を軽く叩いた。

「言葉は刃物。抜く時を間違えれば、自分の手を切る」

 彼女はつばきを見た。

「お嬢さんも」

「私もですか」

「怒りは火。暖を取るにも、家を焼くにも使える」

 つばきは黙った。

 工房の火。

 診療所の熱。

 山手での怒り。

 そのすべてが、彼女の中で重なったようだった。

「でも」

 菊乃は続けた。

「火のない女は、夜道で凍えるだけよ。消すんじゃない。持ち方を覚えなさい」

 つばきの目が揺れた。

「あなたは」

 つばきは言いかけた。

「どうして、私たちにそこまで」

「貸しよ」

 菊乃はいつもの調子へ戻った。

「大きな貸し。忘れたら、利子をつけて取り立てるわ」

 龍之助が石段の影で、低く笑ったように見えた。

 菊乃はようやくそちらへ目を向ける。

 二人の視線が、一瞬だけ合った。

 言葉はない。

 だが、龍之助の目には「昔からお前さんは一人で背負いすぎる」と言いたげな苦さがあった。

 菊乃はその視線を受け流すように、扇子を翻した。

「親分、見張りご苦労さま」

「見張ってるのは、お前さんの方だろ」

 龍之助の声が、遠くから届いた。

「猫は屋根から降りて飯を食うことも覚えろ」

 その声には、親分の命令ではなく、古い後悔が混じっていた。

 一度見失った猫を、二度目も見失うまいとしているような声だった。

「あいにく、今夜は食べ過ぎたわ」

「嘘をつけ」

 菊乃は笑った。

 その笑いは軽い。

 けれど、ほんの少し疲れていた。

 義経は、二人のやりとりを黙って聞いていた。

 過去を知る者同士の距離。

 踏み込めば切れる糸。

 義経は、その糸を今夜は切らないと決めたようだった。

「菊乃」

 義経が言った。

 呼び捨てだった。

 新太郎とつばきは同時に彼を見る。

 菊乃も、ほんの少しだけ目を細めた。

「何かしら、真田の旦那」

「生きていろ」

 菊乃の笑みが止まった。

 ほんの一瞬。

 だが、確かに止まった。

 次の瞬間、彼女は扇子で口元を隠した。

「それ、女に言う台詞としては色気がないわ」

「色気は知らん」

「でしょうね」

 菊乃は背を向けた。

「でも、覚えておく」

 その声は、夜風にほどけるほど小さかった。

 菊乃は歩き出した。

 芸者の足取り。

 だが、次の角を曲がる時、足音がふっと消えた。

 黒猫のように。

 新太郎は追いかけようと一歩出たが、龍之助が首を横に振った。

「追うな、若先生」

「でも」

「追える女じゃねえ」

 龍之助は煙管を咥えた。

「追うなら、あの女が残したものを読め」

 新太郎は銀時計を見た。

 残されたもの。

 小さな時計。

 裏蓋の細かい装飾。

 秒針の音。

 白い花ほど、根が黒いこともある。

 時を読む男になりなさい。

 言葉だけ読めても、遅れたら何も救えないわ。

 遠くで、もう一度汽笛が鳴った。

 新太郎は銀時計を握りしめた。

 横浜の診療所。

 二つの見出し。

 百合十字の薬箱。

 港の荷札。

 山手の寄付者名簿。

 クララの問い。

 つばきの怒り。

 菊乃の言葉。

 それらが、秒針の音に合わせて一つずつ胸の中を通っていく。

 まだ答えはない。

 だが、もう何も知らなかった頃には戻れない。

 つばきが静かに言った。

「桐生さん」

「はい」

「その時計、落とさないでくださいね」

「もちろんです」

「分解もさせないでください」

 影照が不満そうに咳払いをした。

「見せるだけなら」

「駄目です」

 つばきと新太郎が同時に言った。

 影照は肩をすくめる。

 義経が、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 夜の港に、短い笑いが生まれた。

 重いものばかりを抱えているのに、その笑いは小さな灯のようだった。

 その頃、港の奥の別の倉庫では、白い百合十字の印が押された医療品の木箱が、壁際に三つ並べられていた。

 一夜を越えても、箱はまだそこにあった。

 その隣に、赤い封蝋の文書箱が一つ。

 ただ、木箱の上の紙札だけは新しく差し替えられている。

 乾ききった墨の匂いが、夜の湿気の中でかすかに立っていた。

 整った字で、こう書かれている。

 医療品付属文書。

 番人は欠伸をし、帳場の灯は一つずつ落ちていく。

 赤い封蝋は、まだ何も語らない。

 だが、新太郎の掌の中では、銀時計が小さく時を刻んでいる。

 封は、まだ開いていない。

 けれど、時はもう動き始めている。

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