山手の灯を背にすると、横浜の夜は少しずつ低くなっていった。
坂を下るたびに、音が変わる。
洋館の窓から漏れていた弦楽器は遠ざかり、代わりに荷車の車輪が石畳を噛む音が近づいてくる。
英語の乾杯。
フランス語の笑い声。
日本語の挨拶。
それらが背中の上で薄くなり、やがて、波音と、船の鎖が軋む音に混じった。
横浜へ戻ってきた朝の港は、早口だった。
夜の横浜は、早口ではない。
むしろ、口数が少ない。
ガス灯の下で荷を引く男たちは、必要な言葉だけを低く交わす。波止場の向こうでは、船影が黒く重なり、異国語の歌が帆柱の間を細く流れていた。
遠い船から、笑い声。
近い倉から、木箱を置く音。
水面から、濡れた綱の匂い。
夜の港は、朝よりも多くのものを隠していた。
新太郎は、懐の奥に入れた紙の感触を確かめた。
L-17。
百合十字。
Grant & W.
東方慈善医療基金。
赤い封蝋の箱。
山手の寄付者名簿。
言葉を並べれば、線になる気がする。
だが、線にするには、まだ足りないものが多すぎた。
隣を歩くつばきは、しばらく黙っていた。
壮行会の間は背筋を伸ばし、クララにもエドワードにも負けないように言葉を返していたが、坂を下りて港の匂いが戻ってくるにつれ、その肩に疲れが降りてきたようだった。
西洋レースのショールは美しい。
けれど、その下の帯の内側には、診療所で裂いた椿色の布が縫い留められている。
新太郎には、つばきがときどきそこへ手を添えているのが分かった。
「つばきさん」
「はい」
「横浜へ戻ってから、たいへんでしたね」
新太郎は、言ってから少し後悔した。
あまりにも平凡な言葉だった。
乞食谷戸で手を洗い、松吉ととめの名を聞き、港で荷札を追い、山手でクララに挑まれ、寄付者名簿の百合十字を見た人へかける言葉としては、軽すぎる。
つばきは横目で彼を見た。
「それは、何に対しての『たいへん』ですか」
「ええと」
新太郎は詰まった。
「診療所も、港も、山手も」
「全部ですか」
「はい」
「大雑把です」
「すみません」
つばきは小さく息を吐いた。
怒っているというより、少し笑いをこらえているようだった。
「でも」
新太郎は続けた。
「つばきさんは、どの場所でも逃げなかったと思います」
つばきの足が、ほんの少し遅くなった。
「逃げなかった、だけです」
「それは、とても難しいことです」
「桐生さん」
「はい」
「そういうことを、まっすぐ言うのはやめてください」
「なぜですか」
「困るからです」
「困る」
「困ります」
つばきは前を向いた。
ガス灯の光が頬に当たり、少し赤く見えた。
「それに、私は逃げなかっただけで、まだ何もできていません」
「帯を裂きました」
「それは布です」
「手を洗いました」
「それは教わっただけです」
「とめさんの名前を聞きました」
つばきはそこで黙った。
夜風が、レースの端を揺らした。
「……あの子、ちゃんと眠れているでしょうか」
「佳乃先生とメアリーさんがいます」
「はい」
つばきは頷いた。
「でも、山手で乾杯の声を聞いていたら、とめさんの布人形を思い出してしまいました」
彼女は指で帯の内側を押さえた。
「同じ横浜なのに、あちらには熱のある子どもがいて、こちらには銀盆の菓子が並んでいる。どちらも横浜です。どちらも本当です。でも、その間に立つと、自分の足がどちらの地面にもついていない気がするんです」
新太郎はすぐには答えられなかった。
山手の灯。
港の灯。
乞食谷戸の湿った暗さ。
それらは別々の場所にあるのではなく、同じ町の中で互いに影を落としている。
「僕も」
新太郎は言った。
「まだ、どこに立てばよいのか分かりません」
「桐生さんもですか」
「はい。英語の見出しも、日本語の見出しも、港の荷札も、山手の名簿も。読めるものは増えました。でも、読めば読むほど、何を言ってよいのか分からなくなります」
つばきは少しだけ笑った。
「クララさんの問いのせいですか」
「それもあります」
「あの方、綺麗な顔で難しいことを言いますね」
「はい」
「それに」
つばきは少し間を置いた。
「何カ国語も話せて、薬瓶のラベルまで読めて、社交場でも少しも迷わない」
「迷っていないように見えるだけかもしれません」
「分かっています」
つばきは、少し悔しそうに言った。
「分かっているから、余計に困るんです。嫌いになれたら楽なのに」
新太郎は返事に困った。
正直に言うべきか、慰めるべきか。
考えた末に、正直に言った。
「つばきさんも、クララさんも、強いと思います」
つばきが立ち止まった。
「桐生さん」
「はい」
「今、その二人を同じ文に入れる必要がありましたか」
「え」
「ありましたか」
「……ありませんでした」
「よろしい」
つばきは再び歩き出した。
その横顔は怒っているようで、耳の先が少し赤い。
新太郎は、山手でエドワードが言った「沈まない程度の小舟」という言葉を思い出した。
自分の言葉は、どうもよく穴の開いた小舟になる。
その時、夜風の中に三味線の音が混じった。
港の歌ではない。
山手の弦楽器でもない。
細く、艶やかで、どこか人をからかうような音。
つばきが足を止める。
新太郎も振り向いた。
ガス灯の下に、一人の芸者が立っていた。
黒に近い藍の着物。
深紅の帯。
白い襟元。
髪は美しく結い上げられ、簪の先が月明かりを拾っている。
顔立ちは艶やかで、目元に小さなほくろがあった。
扇子で口元を隠している。
だが、その目は笑っていた。
「夜の港で若い男女が二人きり」
芸者は言った。
「あら、これは通報した方がいいのかしら」
つばきの背筋が伸びた。
「どなたですか」
「名乗るほどの者じゃないわ」
芸者は扇子を閉じる。
「今夜は、菊乃と呼ばれているけれど」
菊乃。
新太郎は、その名を胸の中で繰り返した。
唐人お吉を名乗った女の面影。
三田で、つばきに封蝋の匂いを警告した女。
工房の火の中で見た、老婆の影。
菊乃と名乗るこの芸者は、姿も声も違う。
だが、目の奥だけが似ていた。
人をからかいながら、相手の逃げ道まで先に見ている目。
「あなたは」
新太郎が言いかけると、菊乃は扇子で彼の言葉を止めた。
「坊や、女の正体を夜道で大声にするものじゃないわ」
「坊や」
つばきが小さく呟いた。
「桐生さん、坊やなのですか」
「僕に聞かれても」
「まだ坊やよ」
菊乃はあっさり言った。
「言葉を読み始めたばかりだもの」
つばきは菊乃を見た。
からかわれているのは新太郎なのに、自分まで試されている気がしたのだろう。
「あなたは、私たちを知っているのですか」
「少しだけ」
「少しだけで、夜道に現れるのですか」
「女はね、お嬢さん」
菊乃は微笑んだ。
「少しだけ知っている時が、一番動きやすいの。全部知っていると、足が重くなる」
その言葉は、冗談のようでいて、冗談だけではなかった。
新太郎は、山手の名簿の前で感じたエドワードの制約を思い出した。
知っていても、言えない者。
言わないことで、誰かを守っている者。
菊乃は、そのもっと暗い場所にいるのかもしれない。
少し離れた石段の影に、男が立っていた。
大柄な体。
煙管。
国定龍之助だった。
彼は近づいてこない。
ただ、こちらを見ている。
菊乃がその視線に気づいているのは明らかだった。
だが、振り向かない。
二人の間には、言葉にしない古い貸し借りがあるように見えた。
「龍之助さんも」
新太郎が言うと、菊乃は軽く眉を上げた。
「あの親分の名まで口にするなんて、坊やは本当に命知らずね」
「すみません」
「謝る癖は悪くないわ。でも、謝る前に周りを見る癖をつけなさい」
その時、義経が背後から静かに現れた。
壮行会の会場から少し距離を置いて護衛していたのだろう。
彼は菊乃を見た瞬間、目を細めた。
刀に手をかけない。
だが、体の重心がわずかに変わった。
「真田さん」
新太郎が呼ぶ。
義経は答えず、菊乃の足元を見ていた。
芸者の足捌き。
だが、歩幅を隠す癖がある。
体を小さく見せるための膝の使い方。
工房の火の中で、老婆が見せた不自然な軽さ。
そして、もっと昔の何か。
義経の顔に、ほんのわずか、痛みのようなものが走った。
「お前は」
義経が低く言った。
菊乃は扇子を広げた。
「怖い顔ねえ。今夜は祝いの夜でしょう」
「答えろ」
「女に詰め寄る男は嫌われるわよ」
「お前の足は、老婆の足ではなかった」
新太郎は息を呑んだ。
つばきも菊乃を見る。
菊乃は笑っていた。
だが、扇子を持つ指が、ほんの一瞬だけ止まった。
「歳を取ると、足腰に出るものね」
「とぼけるな」
「真田の旦那」
菊乃の声が、少しだけ低くなった。
「今ここで踏み込めば、あんたの探しているものも逃げるわ」
義経の目が変わった。
景久。
その名を、誰も口にしていない。
だが、新太郎にはその影が通ったのが分かった。
義経はしばらく菊乃を見ていた。
一歩踏み込めば、菊乃の逃げ道を塞げる距離だった。
だが、その一歩で、景久へ続く細い糸まで切れるかもしれない。
剣なら迷わない。
だが、人の過去は、斬れば道が開くものではない。
やがて、刀から手を離した。
「いつか、聞く」
「いつか、答えるかもしれない」
「答えろ」
「だから、かもしれないって言ったでしょう」
菊乃はまた軽く笑った。
笑いで隠している。
新太郎はそう感じた。
「今夜は、坊やに用があるの」
菊乃は袖の中へ手を入れた。
そこから出てきたのは、小さな銀時計だった。
丸い懐中時計。
蓋には月と波のような細い装飾が刻まれている。
見た目より、重かった。
ただの装身具ではない。
掌の中に、小さな機械と、誰かの過去が一緒に入っているような重みだった。
鎖は短く、旅の衣に忍ばせやすい。
新品ではない。
だが、よく磨かれていた。
新太郎が受け取ると、ひやりと冷たい重みが掌へ乗った。
「これは」
「異国旅の護符」
菊乃は言った。
「表向きはね」
「表向き」
「裏向きの話は、まだ早いわ」
新太郎は時計を開いた。
蓋は、薄い金属音を立てた。
かちり、というより、秘密の扉が少しだけ開く音だった。
文字盤は小さく、針は細い。
秒針が、静かに動いている。
ち、ち、ち。
その音は、港の波音の中でも不思議にはっきり聞こえた。
裏蓋を返すと、細かな模様が刻まれている。
月。
波。
小さな花。
それから、数字とも飾りともつかない細い線。
新太郎には、それがただの装飾に見えた。
だが、妙に細かい。
細かすぎる。
波の模様は、ただの波にしては角ばっていた。
新太郎には分からない。
だが、どこかで見た線の曲がり方だった。
港の倉庫配置図か。
それとも、船の航路か。
小さな花も、百合十字の百合に似ている。
ただし、花弁の数が一つ足りない。
数字めいた細線の中には、Lとも、十七とも読めそうな傷があった。
影照が横から覗き込んだ。
「貸せ」
「駄目」
菊乃とつばきが同時に言った。
影照は目を瞬いた。
「まだ何もしてなか」
「しそうな顔をしています」
つばきが言う。
菊乃は笑った。
「その包帯の坊やに渡したら、朝にはぜんまいまで外されそうだもの」
「仕組みがあるものは、見ないと落ち着かん」
「落ち着かなくていいの。今は持ち主の手に置いておきなさい」
「分解はせん」
影照は不満そうに言った。
「だが、いい音だ。普通の時計より少し重い」
新太郎は銀時計を握った。
掌の中で、秒針の音が続いている。
「なぜ、僕に」
「時を読む男になりなさい」
菊乃の声が、少しだけ真面目になった。
新太郎は顔を上げた。
「言葉だけ読めても、遅れたら何も救えないわ」
その言葉は、夜風の中でまっすぐ立った。
菊乃の軽口の奥から、別の声が出てきたようだった。
菊乃はそのあと、ほんの一瞬だけ唇を閉じた。
その沈黙は、次の軽口を選ぶためのものではなかった。
誰かの名前を飲み込むための沈黙だった。
誰かを救えなかった声。
新太郎はそう思った。
菊乃は一瞬だけ、港の奥を見た。
そこには、船影と倉庫の黒い輪郭があるだけだ。
だが彼女の目は、もっと遠い過去を見ているようだった。
扇子を持つ手が、ほんのわずか震えた。
次の瞬間には、また笑っていた。
「あら、そんな顔をしないの。男前が台無しよ」
「男前では」
「そこは否定しないで受け取っておきなさい。世の中、受け取れる時に受け取らないと、あとで高くつくわ」
つばきが銀時計を見た。
その表情は、少し複雑だった。
山手でクララにからかわれたばかりだ。
その夜に、また別の女性から贈り物を受け取る新太郎。
面白くない。
そう思った自分が、つばきは少し恥ずかしかった。
けれど、それだけではない。
菊乃の目には、恋のからかいでは済まない重さがあった。
その重さを見ないふりをして拗ねるほど、自分は子どもではいたくなかった。
その感情は、つばきの顔に分かりやすく出ていた。
「桐生さん」
「はい」
「女の方からいただいた物を、すぐ懐にしまうのですね」
「え」
「いえ、別に」
「これは護符だと」
「分かっています」
「怒っていますか」
「怒っていません」
「怒っている時の声に聞こえます」
「桐生さんは、そういうところだけ少し鋭いですね」
新太郎は困った。
菊乃が楽しそうに笑う。
「お嬢さん、安心なさい。この坊やは、女心より暗号の方がまだ読める見込みがあるわ」
「それは安心なのでしょうか」
「さあ。育て方次第ね」
つばきは言い返しかけた。
だが、菊乃の目を見て、口を閉じた。
冗談だけではない。
新太郎へ銀時計を渡すこの女の目には、何かを託す者の重さがあった。
つばきはそれを感じ取ったのだろう。
「その時計は」
つばきは静かに聞いた。
「本当に、桐生さんを守るものなのですか」
「守るかどうかは、この坊や次第」
菊乃は答えた。
「道具はね、持ち主より賢くはなれないの」
「では、なぜ渡すのですか」
「賢くなる見込みがあるからよ」
菊乃は新太郎を見た。
「ただし、この時計を持つなら、あんたも誰かに見られる側になる」
新太郎は、銀時計を見た。
ち、ち、ち。
秒針の音が、さっきより重く聞こえる。
「百合十字について」
新太郎は思い切って聞いた。
「あなたは何か知っているんですか」
菊乃の笑みが、少し薄くなった。
龍之助が石段の影で煙管を下ろす。
義経の目が細くなる。
夜の港の音が、一瞬だけ遠ざかったように感じた。
「白い花ほど」
菊乃は言った。
「根が黒いこともある」
「それは」
「今夜の情報料は、時計で払いすぎているわ」
「菊乃さん」
「坊や」
菊乃の声が低くなる。
「知りたがるのは悪いことじゃない。でも、聞く相手を間違えると、聞いた人間より先に、別の誰かが消える」
新太郎は言葉を失った。
別の誰か。
メアリーの記録帳。
松吉。
とめ。
山手の名簿。
名前は、人を守ることもできる。
だが、誰かの弱みとして握られることもある。
菊乃はそのことを、骨の奥で知っているのだ。
彼女の袖口から、ほんの一瞬、小さな薄桃色の髪紐が見えた。
子ども用のものだ。
大人の女が身につける飾りではない。
誰かに結んでやるためのもの。
あるいは、誰かがもう結べなくなったもの。
新太郎は、そのどちらを想像してしまったのか分からず、胸が苦しくなった。
新太郎が視線を向けた時には、もう袖の中へ消えていた。
「今のは」
「何も見ていない」
菊乃は微笑んだ。
「そういう時もあるわ」
新太郎は、聞き返せなかった。
聞き返してはいけない気がした。
遠くで、汽笛が鳴った。
低く、長く。
夜の港全体を震わせるような音だった。
使節団の出航準備を告げる汽笛か。
あるいは別の船か。
新太郎には分からない。
だが、その音を聞いた瞬間、銀時計の秒針が掌の中でさらに強く刻まれるように感じた。
ち、ち、ち。
時は待たない。
言葉を探している間にも、荷は動く。
新聞は刷られる。
病人は熱を出す。
名簿には名が載る。
封蝋の箱は、別の倉へ運ばれる。
「出航が近いわね」
菊乃が言った。
彼女は銀時計を扇子の先で軽く叩いた。
「港の悪事はね、たいてい夜明け前に形を変える。帳簿は朝に書き直される。荷は潮に合わせて動く。新聞は日の出と一緒に刷られる」
菊乃は新太郎を見る。
「言葉を読んでいる間に、時を読めなければ置いていかれるわ」
「海の上では、港より逃げ場が少ない。よく見て、よく聞いて、よく黙りなさい」
「黙ることも、必要ですか」
「もちろん」
菊乃は扇子で新太郎の胸元を軽く叩いた。
「言葉は刃物。抜く時を間違えれば、自分の手を切る」
彼女はつばきを見た。
「お嬢さんも」
「私もですか」
「怒りは火。暖を取るにも、家を焼くにも使える」
つばきは黙った。
工房の火。
診療所の熱。
山手での怒り。
そのすべてが、彼女の中で重なったようだった。
「でも」
菊乃は続けた。
「火のない女は、夜道で凍えるだけよ。消すんじゃない。持ち方を覚えなさい」
つばきの目が揺れた。
「あなたは」
つばきは言いかけた。
「どうして、私たちにそこまで」
「貸しよ」
菊乃はいつもの調子へ戻った。
「大きな貸し。忘れたら、利子をつけて取り立てるわ」
龍之助が石段の影で、低く笑ったように見えた。
菊乃はようやくそちらへ目を向ける。
二人の視線が、一瞬だけ合った。
言葉はない。
だが、龍之助の目には「昔からお前さんは一人で背負いすぎる」と言いたげな苦さがあった。
菊乃はその視線を受け流すように、扇子を翻した。
「親分、見張りご苦労さま」
「見張ってるのは、お前さんの方だろ」
龍之助の声が、遠くから届いた。
「猫は屋根から降りて飯を食うことも覚えろ」
その声には、親分の命令ではなく、古い後悔が混じっていた。
一度見失った猫を、二度目も見失うまいとしているような声だった。
「あいにく、今夜は食べ過ぎたわ」
「嘘をつけ」
菊乃は笑った。
その笑いは軽い。
けれど、ほんの少し疲れていた。
義経は、二人のやりとりを黙って聞いていた。
過去を知る者同士の距離。
踏み込めば切れる糸。
義経は、その糸を今夜は切らないと決めたようだった。
「菊乃」
義経が言った。
呼び捨てだった。
新太郎とつばきは同時に彼を見る。
菊乃も、ほんの少しだけ目を細めた。
「何かしら、真田の旦那」
「生きていろ」
菊乃の笑みが止まった。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まった。
次の瞬間、彼女は扇子で口元を隠した。
「それ、女に言う台詞としては色気がないわ」
「色気は知らん」
「でしょうね」
菊乃は背を向けた。
「でも、覚えておく」
その声は、夜風にほどけるほど小さかった。
菊乃は歩き出した。
芸者の足取り。
だが、次の角を曲がる時、足音がふっと消えた。
黒猫のように。
新太郎は追いかけようと一歩出たが、龍之助が首を横に振った。
「追うな、若先生」
「でも」
「追える女じゃねえ」
龍之助は煙管を咥えた。
「追うなら、あの女が残したものを読め」
新太郎は銀時計を見た。
残されたもの。
小さな時計。
裏蓋の細かい装飾。
秒針の音。
白い花ほど、根が黒いこともある。
時を読む男になりなさい。
言葉だけ読めても、遅れたら何も救えないわ。
遠くで、もう一度汽笛が鳴った。
新太郎は銀時計を握りしめた。
横浜の診療所。
二つの見出し。
百合十字の薬箱。
港の荷札。
山手の寄付者名簿。
クララの問い。
つばきの怒り。
菊乃の言葉。
それらが、秒針の音に合わせて一つずつ胸の中を通っていく。
まだ答えはない。
だが、もう何も知らなかった頃には戻れない。
つばきが静かに言った。
「桐生さん」
「はい」
「その時計、落とさないでくださいね」
「もちろんです」
「分解もさせないでください」
影照が不満そうに咳払いをした。
「見せるだけなら」
「駄目です」
つばきと新太郎が同時に言った。
影照は肩をすくめる。
義経が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
夜の港に、短い笑いが生まれた。
重いものばかりを抱えているのに、その笑いは小さな灯のようだった。
その頃、港の奥の別の倉庫では、白い百合十字の印が押された医療品の木箱が、壁際に三つ並べられていた。
一夜を越えても、箱はまだそこにあった。
その隣に、赤い封蝋の文書箱が一つ。
ただ、木箱の上の紙札だけは新しく差し替えられている。
乾ききった墨の匂いが、夜の湿気の中でかすかに立っていた。
整った字で、こう書かれている。
医療品付属文書。
番人は欠伸をし、帳場の灯は一つずつ落ちていく。
赤い封蝋は、まだ何も語らない。
だが、新太郎の掌の中では、銀時計が小さく時を刻んでいる。
封は、まだ開いていない。
けれど、時はもう動き始めている。


