
西福大学の図書館は、夕暮れ時になると独特の静寂に包まれる。窓から差し込む赤い光が書架を柔らかく照らし、遠くで時計の秒針が刻む音だけが響いていた。閉館間際、薄暗い書架の間で天野清六は日本近代文学全集に没頭していた。
指先でページをめくるたびに、紙の質感と微かな匂いが彼を現実から切り離していく。その集中した表情は、周囲の気配を完全に遮断しているようだった。
「ねえ、清六くん。もう閉館時間だよ。そんなに夢中になってたら忘れちゃうよね。」
柔らかな声に我に返ると、水谷沙織が笑顔で立っていた。肩までの茶髪が夕陽に照らされて揺れている。
「あ、ごめん。夏目漱石に夢中になっちゃって…。」
清六は眼鏡を直しながら立ち上がった。その仕草に沙織は軽くため息をつきながらも微笑む。
「もう、本当に本好きなんだから。でも、それが清六くんらしいところだよね。」
二人は図書館を出た。初夏の夕暮れがキャンパス全体を包み込んでいた。レンガ造りの校舎は柔らかなオレンジ色に染まり、新緑の木々からは風に揺れる葉音が微かに聞こえる。遠くで鳥がさえずり、その声は心地よい余韻を残していた。
「今日の社会学概論、先生の例え話がちょっと難しかったよね。」
沙織が楽しげに話しかけてきた。彼女は社会学部の学生だが、清六といくつか同じ授業を取っている。
「うん。でも面白かったよ。特に『社会的アイデンティティ』についての議論は興味深かった。」
清六は歩みを緩めながら答えた。その言葉にはどこか思索的な響きがあった。
「アイデンティティか…。清六くんにはピッタリなテーマだね。」
沙織は彼の横顔を見つめながら言った。その視線に気づいた清六は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに笑ってごまかした。
「そんなことないよ。ただ興味深かっただけさ。」
実際には、それ以上に深い意味があった。清六は自分自身について考えることが多かった。養子であるという事実は、彼にとって常に心の片隅にある影だった。
5歳以前の記憶がないという空白は、時折彼を不安にさせる。まるで自分自身の一部が欠けているような感覚。それは説明できない漠然とした欠落感として彼の日常を蝕んでいた。
「何か悩み事でもあるなら相談してね。」
沙織は軽く彼の肩を叩いた。その手の温もりは、不思議と清六の心に染み渡り、孤独な影を一瞬だけ薄くしてくれるようだった。
二人は大学正門で別れた。沙織が手を振りながら去っていく後ろ姿を見つめながら、清六は胸に広がる温かな感情に気づいた。それは彼女との友情だけでなく、自分が誰かと繋がっているという安堵感だった。
家路についた頃には日もすっかり落ち、小さな古書店「天野書房」が街灯に照らされていた。その看板はどこか懐かしく、店内から漏れる温かな明かりは清六を静かに迎え入れてくれる。古書店は彼にとってただの家ではなく、心の拠り所だった。
***
「ただいま。」
清六が声をかけると、養父・誠司が顔を出した。
「おかえり。今日は遅かったね。」
誠司は50代半ばだが、その穏やかな表情と言葉には、不思議と清六の心をほぐす力があった。彼にとって誠司は、欠落感を埋めてくれる唯一の存在だった。
「図書館で勉強してたんだ。」
誠司は優しく頷き、「夕食はもうすぐだから手を洗っておいで」と促した。
清六は二階の自分の部屋に向かった。古い木造の階段を上りながら、彼は今日の授業のことを考えていた。社会学概論で学んだ「アイデンティティ」という言葉が、頭から離れなかった。
部屋に入ると、清六はベッドに身を投げ出した。天井を見つめながら、彼は自分の過去について考える。誠司は彼の養父だ。実の両親については、交通事故で亡くなったと聞かされている。しかし、5歳以前の記憶がまったくないのは不思議だった。
「清六、夕食だよ」
誠司の声で我に返り、清六は手を洗いに行った。洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめる。整った顔立ちだが少し痩せ型。黒髪のショートヘアと、知的な印象を与える眼鏡。この顔は誰に似ているのだろう。
階下に降りると、誠司が電話で話している声が聞こえた。
「由布さん、彼にはまだ言わないでください」
清六は足を止めた。誠司の声には、普段聞かない緊張感があった。
「時期尚早です。彼はまだ…」
誠司は清六の気配に気づいたのか、急に声を低くした。清六は気まずさを感じながらも、リビングに入った。
「あ、清六。ちょっと仕事の電話だったんだ」
誠司は慌てて電話を切り、微笑んだ。しかし、その笑顔には何か不自然なものがあった。
「そうなんだ…」
清六はそれ以上何も言わず、テーブルに着いた。誠司が用意した夕食は、いつものように質素だが心のこもったものだった。しかし今夜は、二人の間に奇妙な緊張感が漂っていた。
「大学はどうだい?」
誠司が話題を変えるように尋ねた。
「うん、普通に。今日は社会学概論と日本文学史があって…」
清六は授業の内容を話し始めたが、誠司の様子が気になって集中できなかった。
「由布さん」とは誰だろう?そして「彼にはまだ言わない」とは何のことだろう?
***
食事を終え、清六は自分の部屋に戻った。ベッドに座り、スマホを取り出す。今日の授業のメモを確認しようとした時、着信履歴に見覚えのない番号があることに気づいた。
「ソラティア研究所…?」
清六は眉をひそめた。そんな名前は聞いたことがない。しかし、何か引っかかるものを感じた。まるで遠い記憶の片隅で、その名前が反響しているかのように。
好奇心に駆られ、清六は折り返し電話をかけた。数回の呼び出し音の後、電話が繋がった。
「ソラティア研究所です。」
その声は一見冷静だが、どこか抑揚に欠けていて、人間らしい温かみが感じられない。その不自然さに清六は思わず息を呑んだ。
「あの…先ほどこちらから着信履歴があったようなので…」
「お名前をお願いします。」
「天野清六です。」
一瞬沈黙が訪れた。清六はスマホを握りしめながら、胸の奥に小さな不安が広がるのを感じた。その後、声色が突然変わり、冷たい響きが耳に届いた。
「天野様、プロトコル実行の時期です。」
その言葉は鋭い刃物のように清六の心に突き刺さった。意味不明な言葉だが、その響きには何か避けられない運命のような重みがあった。
「プロトコル?何ですかそれ?」と尋ねようとした瞬間、「申し訳ありません、間違えました」と言われ、一方的に電話は切れた。
電話は一方的だった。清六はすぐに再度掛け直そうとしたが、番号表示は非通知になっており、それ以上追跡する手段はなかった。
胸の中で苛立ちと不安が交錯し、自分が何か重大なものに巻き込まれているという予感だけが残った。
ベッドに横たわりながら、「プロトコル実行」という言葉だけが頭の中で反響していた。それは単なる偶然ではなく、自分自身や過去と何らかの関係性を持つものではないかという予感。
そして、それによって自分の日常そのものが変わってしまうような不安。それでも答えには辿り着けないまま、その夜、福岡市内の静かな夜景だけが窓越しに広がっていた。
街灯の光がぼんやりと滲み、小さな車のヘッドライトだけが遠くで動いている。
その静けさは逆に清六の心に渦巻く疑念を際立たせていた。


