
夕暮れの空は茜色に染まり、別府市郊外のソラティア研究所は緑に囲まれて静かに佇んでいた。白い建物群は一見すると普通の研究施設のようだが、その内部には「プロジェクト・ガストロノミックマター」の秘密が隠されている。
研究所から少し離れた場所に停めたレンタカーの中で、彩乃は落ち着いた声で最後の確認をしていた。
「もう一度言うわ。私たちは通常の研究業務の一環として入る。清六くんは私の新しい研究助手、沙織さんはインターンということにするわ」
清六と沙織は緊張した面持ちで頷いた。二人とも白衣を着用し、首からはIDカードをぶら下げている。清六は手のひらに汗がにじむのを感じ、沙織はIDカードを無意識に握りしめていた。
「私たちの目的は『共鳴タンク』にプログラムを仕込むこと。できれば九重千尋さんの状況も確認したい」
「わかりました」
清六は深く息を吸い、決意を込めて答えた。
「では行きましょう」
彩乃は二人の肩に手を置き、落ち着いた声で促した。
***
三人は車を降り、研究所の正門に向かった。
夕闇が迫る中、彼らの影が長く伸びていく。数百メートル離れた場所には、霧島と凪子が乗った別の車が停まっている。バックアップとしての彼らの存在が、わずかな安心感を与えてくれた。
「気をつけろよ」
トランシーバーから霧島の低い声が聞こえた。
「何かあったらすぐに連絡しろ」
「了解」
清六は小声で答えた。胸の奥で鼓動が高鳴る。
三人は無言のまま、研究所の正門へと歩き出した。
研究所の正門は予想以上に厳重だった。高い塀に囲まれた入口には複数の警備員が立ち、監視カメラがゆっくりと三人を追っている。
冷たい空気と無機質な静けさが、緊張感をさらに高めていた。
「緊張しないで」
彩乃が二人に小声で言った。
「自然に振る舞うのよ」
正門に近づくと、警備員が三人を止めた。
「IDをお願いします」
彩乃は一瞬も視線を逸らさず、落ち着いた様子で自分のIDカードを差し出した。
「椎葉彩乃です。主任研究員。この二人は私の助手です」
警備員は彩乃のIDを確認し、清六と沙織のカードも調べた。清六は手のひらに汗がにじむのを感じ、無意識に指先を握りしめた。沙織は唇を引き結び、視線を下げている。
「椎葉さん、今日は遅いですね」
「ええ、明日の国際食品フォーラムの準備があって」
彩乃は自然な微笑みを浮かべたが、その横顔にはわずかな緊張が隠れていた。
「新しい助手さんですか?」
「はい、最近加わったの。プロジェクトの資料整理を手伝ってもらっているわ」
警備員はしばらく三人を見つめた後、頷いた。
「わかりました。どうぞ」
ゲートをくぐった瞬間、三人は小さく息を吐いた。第一関門を突破したことで、わずかに安堵感が広がる。しかし、すぐに気を引き締め直す。
「ここまではうまくいったわ」
彩乃が小声で言った。
「でも油断しないで。監視カメラが至る所にあるわ」
本館に入ると、白い床に反射する蛍光灯の光がまぶしく、消毒液の匂いが漂っていた。研究者や職員が忙しそうに行き交い、パソコンのキーボード音や足音が静かに響いている。
「こちらへ」
彩乃は二人を案内して、エレベーターに向かった。そこには別の警備員が立っていた。
「椎葉さん、こんばんは」
「こんばんは、高山さん」
彩乃は親しげに挨拶しつつも、目は真剣だった。
「地下フロアに行きたいのだけど」
「ああ、明日の準備ですね」
警備員は頷き、特別なキーカードでエレベーターを操作した。
「どうぞ」
三人がエレベーターに乗り込むと、ドアが閉まる一瞬、無言のまま顔を見合わせた。
***
下降するエレベーターの中、機械音だけが静かに響く。清六は手のひらにじっとり汗を感じ、無意識に拳を握りしめた。沙織はIDカードの紐を指先でいじりながら、ちらりと清六を見上げる。
「ここからが本当の挑戦よ」
彩乃は小声で言い、ボタンを押して地下2階を選んだ。
「地下2階は『安心センター』。『活性化室』と『共鳴タンク』がある場所よ」
エレベーターがゆっくりと下降していく間、清六は自分の鼓動が耳の奥で高鳴るのを感じていた。これから見ることになるのは、彼自身が生み出された場所であり、彼の過去の一部だ。
「緊張してる?」
沙織が小声で尋ねた。
「ああ、でも…大丈夫」
清六は弱く微笑んだ。恐怖だけでなく、自分のルーツを知る期待もあった。
エレベーターが地下2階に到着し、ドアが開く。
廊下は想像以上に広く、蛍光灯の白い光が床に反射し、消毒液の匂いが鼻をついた。遠くで機械の低い駆動音が響いている。
複数の研究室やラボが連なり、所々に監視カメラが設置されている。
「この時間なら人は少ないはず」
彩乃が目配せしながら言った。
「まずはコントロールルームに行きましょう。そこから『共鳴タンク』の情報にアクセスできるわ」
三人はゆっくりと廊下を進む。時折、白衣の研究者が足早に横切るたび、胸の奥がひやりとした。彩乃の存在があるため、怪しまれることはなかったが、油断はできない。
突然、彩乃が立ち止まった。遠くから靴音が響き、空気が一瞬張り詰める。前方から数人の警備員が近づいてくる。
「こっち」
彼女は小声で言い、三人は近くの分岐路に身を滑り込ませた。分岐路は薄暗く、壁沿いに古い配線や段ボール箱が積まれている。
狭い廊下を急いで進み、角を曲がると、そこは機器保管室だった。保管室の中は機械油の匂いが漂い、金属棚が並んでいた。
「ここで少し待ちましょう」
彩乃はドアを少し開け、外の様子を窺った。清六は息を潜め、沙織は無意識に彩乃の袖を掴んでいる。
「警備が強化されているわ。由布厚生が来ているのかもしれない」
「どうしよう…」
沙織が不安そうに尋ねた。
彩乃は一度深呼吸し、鋭い目で二人を見た。
「計画通り進めましょう。コントロールルームはもう少し先よ」
再び廊下に出た三人は、注意深く進んでいった。
やがて彩乃が立ち止まり、「コントロールルーム」と書かれたドアの前に来た。彼女はIDカードでドアを開け、中に入る。
コントロールルームは青白い光に包まれ、複数のモニターと制御パネルが並ぶハイテクな空間だった。LEDが静かに点滅し、空調の低い唸り音が響く。幸い、この時間には誰もいない。
「急いで」
彩乃はコンピュータに向かい、素早くキーボードを操作し始めた。
「これが『共鳴タンク』の制御システムよ」
モニターには複雑な図面とデータが表示された。円筒形の巨大な装置の設計図と、それを制御するためのプログラムコードが見える。
「共鳴タンクって何なんですか?」
沙織が小声で尋ねた。
「被験者の能力を増幅し、より広範囲に催眠効果を及ぼすための装置よ」
彩乃はキーボードを叩く手を一瞬止め、悔しそうに唇を噛んだ。
「九重千尋を接続することで、彼女の『活性化』状態での料理の効果を、会場全体に広げることができる。本来は料理の香りを広げる技術だった。それなのに…由布厚生が別の目的に転用したの」
彩乃はポケットからUSBメモリを取り出し、端末のUSBポートに慎重に差し込んだ。カチッという小さな音が響くと、画面に転送の進捗バーが現れる。
「このプログラムを仕込めば、明日彼らがシステムを起動しても機能しないわ」
データの転送が始まり、画面上にはプログレスバーがじわじわと伸びていく。
「時間はどれくらい?」
清六が小声で尋ねる。
「3分ほど」
その間、室内には端末のファンの低い唸りと、遠くで機械が動く音だけが響いていた。
清六はもう一台のコンピュータに目を向け、そっと息を吸い込む。
「彩乃さん、あのコンピュータでFCTシリーズのデータにアクセスできますか?」
彩乃は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。
「できるわ。でも何をしようというの?」
「自分自身のことをもっと知りたいんです。特に…『活性化コード』について」
彩乃は少し考え、清六に向かって言った。
「いいわ。あのコンピュータを使って。私のIDとパスワードでログインして」
彼女はログイン情報を清六に伝えた。清六はキーボードを叩き、指示通りに入力する。
「FCTシリーズのデータベースにアクセスするには、『プロジェクトGM』というフォルダを開いて」
清六はマウスを握る手に力が入るのを感じながら、指定されたフォルダをクリックした。ファイル名を一つ一つ確認し、ついに「FCT-1」の文字を見つける。
「FCT-1…これが僕のファイルですね」
彼はそのファイルを開いた。画面には「FCT-1 天野清六」という名前と共に、生体情報、成長記録、そして「活性化パターン」という項目が並ぶ。
「これが…」
清六は画面を見つめ、喉の奥がひりつくような感覚を覚えた。そこには彼の「活性化コード」の詳細が記されていた。特定の油の香り、温度、音の組み合わせ、そしてそれに対する神経回路の反応パターン。
「これを知ることで、自分をより守れる」
清六は小さく呟いた。
「自分の『活性化コード』を知れば、逆に自己防衛が可能になる」
「転送完了」
彩乃の声に、清六は我に返った。彼女はUSBメモリを抜き取り、ポケットにしまった。沙織は安堵の表情で清六を見つめている。
「解除プログラムの設置は成功よ。これで明日、『共鳴タンク』は機能しない」
彩乃がUSBメモリを抜き取り、ポケットにしまう。
「九重千尋さんは?」
清六が尋ねる。
「彼女は『活性化室』にいるはずよ。確認してみましょうか」
***
三人はコントロールルームを出て、さらに奥へと進む。監視カメラを避けながら、廊下の壁際を静かに移動した。
「あれが『活性化室』よ」
彩乃が前方のガラス張りの部屋を指さす。医療機器の並ぶ無機質な空間。中央の椅子には誰もいないが、使われた痕跡が残っている。
「千尋は今ここにいないみたいね」
「どこにいるんだろう…」
清六が周囲を見回す。
そのとき、遠くから硬い靴音が響いてきた。廊下の空気が一気に張り詰める。
「まずい、誰か来る」
彩乃が低い声で告げる。
「隠れて!」
三人は急いで近くの廊下に身を滑り込ませた。狭い通路は冷たい空気がこもり、三人が並ぶには窮屈すぎる。
沙織は壁に背中を押しつけ、無意識に清六の袖をつかむ。清六の額には冷や汗が浮かぶ。
「彩乃さん、先に行って!」
清六が小声で言う。
「あなたたちは?」
「すぐ後から行きます。もし見つかったら、知らないふりをして」
彩乃は一瞬だけ迷い、すぐに頷いて先に進んだ。
残された清六と沙織は、息を殺して身を潜める。
足音がさらに近づき、声が聞こえてくる。
「明日の準備は整ったか?」
「はい、由布様。すべて計画通りです」
由布厚生の低い声が廊下に響いた。清六は息を詰め、時間が止まったかのような一瞬を感じていた。
廊下は狭すぎて、二人が並んで立つことはできなかった。清六は沙織を壁際に押しやり、自分の体で彼女を隠すように立った。
二人の体は密着し、互いの鼓動が直接伝わる。清六は沙織の肩越しに息を殺し、手のひらがじっとりと汗ばんでいるのを感じた。
「ご、ごめん…」
清六は沙織の耳元で囁いた。沙織の頬が赤く染まり、清六も顔が熱くなる。
「だ、大丈夫…」
沙織も小声で返す。彼女の息が清六の首筋にかかり、二人の間に奇妙な緊張感が満ちた。
足音と声がすぐ近くを通り過ぎていく。由布厚生と数人の研究者が、「共鳴計画」について話しながら歩いていた。
「九重の最終調整も完了しました」
「よし、明日は歴史が変わる日だ」
由布の声には勝利を確信したような響きがあった。
「世界の食品市場と政治を支配する第一歩となる」
足音と声が次第に遠ざかる。二人はしばらくその場で息を潜め、完全に音が消えたのを確認してから、ようやく体を離した。
「あ、あの…」
沙織は顔を真っ赤にしていた。指先で髪をいじり、視線を落とす。
「大丈夫?」
「う、うん…」
二人は互いの顔を一瞬見つめ、何とも言えない空気が流れた。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。
「急ごう」
清六は我に返り、廊下を進んだ。沙織も慌てて彼に続く。
彩乃はしばらく先で待っていた。三人は再会し、急いで元来た道を戻り始めた。
「プログラムの設置は成功したわ」
彩乃が小声で報告した。
「あとは安全に脱出するだけ」
***
三人はエレベーターに向かって急いだ。しかし、角を曲がった瞬間、突然甲高いアラーム音が廊下に響き渡った。
赤いランプが激しく点滅し、施設全体が緊急事態を告げるざわめきに包まれる。
研究所の正門は予想以上に厳重だった。高い塀に囲まれた入口には複数の警備員が立ち、監視カメラが至る所に設置されている。
「緊張しないで」
彩乃が二人に小声で言った。
「自然に振る舞うのよ」
三人が正門に近づくと、警備員が手を上げて制止した。
「IDをお願いします」
一瞬、空気がぴたりと止まる。彩乃は落ち着いた様子で自分のIDカードを差し出した。
「椎葉彩乃です。主任研究員。この二人は私の助手です」
警備員は彩乃のIDを確認し、清六と沙織のカードも調べる。
清六は無意識に呼吸を浅くし、背中に冷たい汗が伝った。沙織は唇をきゅっと結び、IDカードの紐を指先でいじっている。
「椎葉さん、今日は遅いですね」
警備員が言った。
「ええ、明日の国際食品フォーラムの準備があって」
彩乃は自然な微笑みを浮かべる。指先にはわずかに力がこもっている。
「新しい助手さんですか?」
警備員は清六と沙織を見た。
「はい、最近加わったの。プロジェクトの資料整理を手伝ってもらっているわ」
警備員はしばらく三人を見つめた後、頷いた。
「わかりました。どうぞ」
ゲートが開く瞬間、三人はほっと息をついた。
彩乃は二人に目配せし、小さく頷く。清六と沙織もそれに応える。
「ここまではうまくいったわ」
彩乃が小声で言った。
「でも油断しないで。監視カメラが至る所にあるわ」
本館に入ると、白いタイルの床が足音を反射し、消毒液の匂いが鼻をついた。天井の蛍光灯が無機質な光を放ち、どこか冷たい印象を与えている。
数人の研究者や職員が行き交い、皆が忙しそうに働いていた。
「これは…」
彩乃が小声で言った。
「外部からの援護かもしれないわ」
三人は研究所の敷地を出て、待ち合わせ場所に急いだ。振り返ると、建物から人々が次々と避難し、パトカーやセキュリティの車が赤い警告灯を点滅させながら集まっていた。
レンタカーに到着すると、霧島と凪子が既に待っていた。
「急いで乗れ」
霧島が低い声で促す。
五人は車に乗り込み、息を切らしながらドアを閉めた。車内には緊張と安堵が入り混じった空気が流れる。
しばらく走った後、霧島は一度だけ周囲を確認し、低い声で言った。
「火災警報は私たちが仕掛けた。GFOのハッカーが研究所のシステムに侵入して作動させたんだ」
「それで?任務は?」
「成功しました」
彩乃が答えた。
「解除プログラムを『共鳴タンク』に仕込むことができました。明日彼らがシステムを起動しても、正常に動作しないでしょう」
全員がほっと息を吐いた。清六は背中に冷たい汗が流れるのを感じ、窓の外を見つめた。
「九重千尋には会えなかったけど…」
清六が呟く。
「明日、フォーラムで彼女を助ける機会があるはず」
「それと、清六くんは自分の『活性化コード』について知ることができたわ」
彩乃が付け加える。
車内に静かな余韻が流れる。沙織は少し顔を赤らめながら、清六の手をそっと握った。
「第一段階はクリアね」
彼女は微笑む。
「うん…」
清六は頷き、彼女の手を握り返した。その温もりが、胸の奥にじんわりと広がる。
車は夜の道を走り続け、「天ぷら屋みれい」への帰路についた。
車窓の外には、夜の静けさと遠くのサイレンの音だけが残っていた。だが、清六の心は次の戦いに向けて静かに燃えていた。


